軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第117話 空の街で遊ぼう

目が覚めると、見慣れない純白の天井があった。

村上恒一は、数秒間だけ自分がどこにいるのか分からず、寝ぼけた頭をぼんやりと働かせた。

実家の六畳半ではない。万年床のペラペラの布団でもない。

体を包み込んでいるのは、最高級のホテルで使われているような、しっとりとした重みのある羽毛布団だ。マットレスは硬すぎず柔らかすぎず、まるで無重力空間に浮いているかのように快適だった。

空調の音は一切しないが、室内の空気は完璧な温度と湿度に保たれており、微かに爽やかな森のような香りが漂っている。

「……そっか。俺、空飛ぶ秘密基地にいるんだった」

恒一は、昨日の出来事を思い出し、ベッドの中で大きく伸びをした。

こんなに目覚めが良い朝は、高校生の時以来かもしれない。

彼は起き上がり、部屋の奥にある大きな窓のカーテンをシャッと開けた。

目に飛び込んできたのは、抜けるような青空と、眼下に広がる果てしない雲海だった。

「……いや、何度見ても慣れねえな、これ」

恒一は、窓ガラスに額を押し当てて、下界を見下ろした。

地面は見えない。山も見えない。ただ、朝日に照らされて白く輝く雲の絨毯が、地平線の彼方まで続いているだけだ。

ここが地上何千メートルの上空なのか、彼には見当もつかない。だが、自分が「国家の最高機密」の真っ只中にいるという事実だけは、この非現実的な景色が嫌というほど証明していた。

ピロン。

枕元に置いた支給品のスマート端末が、短い通知音を鳴らした。

画面を見ると、ローカルのメッセージアプリに新着メッセージが届いている。送り主は、昨日カフェで知り合った早川澪だった。

『おはよー! 今日ひま? 探検しよ!』

メッセージには、元気よく手を振るウサギのスタンプが添えられていた。

恒一は、思わず口元を緩ませて、即座に返信を打ち込んだ。

『おはよ。ひま! てか、せっかく秘密飛行船に住むなら、まず地図を把握したい』

『それな! じゃあ30分後に大食堂の前で集合ね!』

とんとん拍子で予定が決まる。

実家に引きこもっていた頃は、誰かと待ち合わせて出かけるなんて、年に数回あるかないかの大イベントだった。それが今、自分から進んで外に出ようとしている。

恒一は、軽くシャワーを浴びて着替えると、足早に部屋を後にした。

大食堂の前に着くと、澪はすでに待っていた。

昨日のかっちりしたニットと違い、今日はオーバーサイズのパーカーにショートパンツという、かなりラフな格好だ。

手には、昨日の晩に食堂の売店でもらったという、タンブラーに入ったコーヒーを持っている。

「おはよ、村上くん! 早いね!」

「おはよ。早川さんも早いね。……なんか、もうすっかり馴染んでない?」

「あはは、そう? だってここ、ご飯美味しいし、部屋は綺麗だし、最高じゃない? ずっとここに住みたいくらいだよ」

澪は、タンブラーを傾けながらケラケラと笑った。

彼女のような適応力の高い人間と一緒にいると、恒一も「ここはただのちょっと変わったリゾート施設なんだ」と錯覚しそうになる。

「ねえ、昨日ほとんど何も見れなかったじゃん? 今日ぜったい探検しようよ」

「する。とりあえず、この端末のマップアプリで、行けそうな所を片っ端から回ってみようぜ」

恒一が端末を開くと、施設の全体マップが表示された。

だが、そのマップはあまりにも広大で、複雑だった。

現在地である「居住ブロックA」を中心に、放射状に様々な区画が広がっているようだが、全体像を掴むには縮尺を変えなければならない。

「えーと、まずは……『レクリエーション区画』に行ってみるか。プールとかあるみたいだし」

「プール!? 行く行く! 水着持ってきてないけど、売店で売ってるかな?」

「いや、とりあえず見学だけにしとこうよ……」

二人は、マップを頼りに、広大な廊下を歩き始めた。

すれ違う他の参加者たちも、三々五々、施設内を探索しているようだ。皆、どこか落ち着かない様子でキョロキョロと周囲を見回しているが、表情は明るい。

「不気味な実験施設」というよりは、「新しくできた巨大なショッピングモールに初めて来た客」のような、無邪気な好奇心が勝っている。

しばらく歩くと、ガラス張りの巨大なエントランスが現れた。

『AQUA DOME(アクアドーム) 』という洒落たロゴが掲げられている。

「ここだ」

恒一が自動ドアを抜けると、むわっとした温かい空気と、微かな塩素の匂いが鼻を突いた。

だが、中に入った瞬間、二人は言葉を失って立ち尽くした。

「……うわーーーー! でっか!!」

澪が、タンブラーを落としそうになりながら歓声を上げた。

「ちょっと待って、これホテルのプールとかじゃないよ!? リゾートじゃん!」

そこには、彼らが想像していた「室内プール」の概念を根底から覆す光景が広がっていた。

天井は、見上げるほど高い。少なくとも三十メートルはあるだろう。

そして壁面の一部が、巨大な透明のパネル……いや、あるいは超高解像度のディスプレイなのかもしれないが、とにかくそこから『抜けるような青空と、さんさんと降り注ぐ太陽の光』が差し込んでいるのだ。

光の入り方が自然すぎて、どう見ても屋外にいるとしか思えない。

プールの設備も異常だ。

本格的な競泳用の五十メートルコースが数本並んでいるだけでなく、ヤシの木のような人工植物に囲まれたリラクゼーション用の浅いプール、ジャグジー、さらには流れるプールのような水路までが、広大な空間にゆったりと配置されている。

水は透き通るようなエメラルドグリーンで、底のタイルがキラキラと光を反射している。

「……いや、なんで秘密施設のくせに、こんな金かけてんだよ……」

恒一は、あまりのスケールにドン引きしながら呟いた。

利用者は、数人の参加者が水着を着てはしゃいでいるだけで、ほぼ貸し切り状態だ。

プールサイドでバスタオルを整理していた、制服姿のスタッフを見つけ、恒一は恐る恐る声をかけた。

「あの、すいません。これって……何のために作ったんですか? 俺たち、生活モニターですよね?」

スタッフは、訓練されたような完璧な営業スマイルを浮かべて答えた。

「はい。当施設における『居住実験におけるストレス軽減効果』と、『長期滞在時の運動習慣形成』の検証のためでございます。水泳は、無重力状態に近い環境下での全身運動として、心身の健康維持に極めて有効なデータが取れると期待されております」

スラスラと出てくる、いかにも官僚が書いたような堅苦しい回答。

恒一と澪は、顔を見合わせた。

「……言い方だけは、実験施設だな」

「うん。でも、やってることは完全にVIPのバカンスだよね」

澪は、もう我慢できないといった様子で、プールサイドに駆け寄った。

彼女は靴を脱ぎ捨て、パーカーの袖をまくり上げると、足を水につけてバシャバシャと水しぶきを上げ始めた。

「つめたっ! いや、温かい! ちょうどいい温度!」

「おい、服濡れるぞ!」

恒一が慌てて後を追うが、澪は振り返ってニカッと笑い、足で水を蹴り上げてきた。

「うおっ! やめろって!」

「あははは! 村上くんも入りなよ! 水着売店で買ってこようよ!」

「いや、俺あんまり泳げないし……」

恒一は、顔に水しぶきを浴びながら、少しだけムッとしたふりをした。

だが、内心では、こんな風に女の子と他愛もないことでじゃれ合うなんて、一体いつ以来だろうかと、奇妙な気恥ずかしさと高揚感を感じていた。

プールを後にした二人は、次にマップ上で『農業ブロック』と記されたエリアへ向かった。

重厚なエアロックのような二重扉を抜けると、そこは先ほどのプールとは全く違う、むせ返るような緑の匂いと、湿った土の香りが充満する空間だった。

「ちょっと待って。ここ、さっきまでプールだったよね? なんで次、農場なの?」

澪が、目を丸くして立ち止まった。

そこには、見渡す限りの「畑」が広がっていた。

天井からは、やはり自然光にしか見えない強力な照明が降り注ぎ、広大な土の区画には、トマトやキュウリといった見慣れた野菜の列が整然と並んでいる。

それだけではない。

少し奥には、リンゴやミカンのような果樹の苗木が植えられた区画があり、壁際には巨大な水耕栽培の棚が天井までそびえ立ち、レタスやハーブ類が青々と茂っていた。

さらに、一部の区画にはスコップやクワが置かれており、「自由に土いじりができる体験農園」のようなスペースまで用意されている。

「秘密施設って、もうちょい無機質なもんじゃないの……? コンクリートの壁と、ステンレスの机しかないような……」

恒一は、完全に自分の常識が破壊される音を聞いた。

農作業用のつなぎを着たスタッフが、二人に気づいて近づいてきた。

彼の手には、採れたてらしい真っ赤なトマトが入ったカゴが握られている。

「見学ですか? よかったら、これ食べてみますか? さっき収穫したばかりのやつです」

スタッフが差し出したトマトを受け取り、澪がパクリと齧り付いた。

「んんっ! 甘い! めっちゃ美味しい!」

「そりゃあ良かったです。ここは環境が完全にコントロールされてますからね。虫もつかないし、栄養も最適なバランスで与えられてます」

「これ、何のために作ってるんですか? 俺たちの食事用ですか?」

恒一が尋ねると、スタッフは首を横に振った。

「皆さんの食事用は、もっと奥にある完全自動化された大規模な水耕プラントで生産しています。ここは、あくまで『将来的な自給率テスト』と、『閉鎖環境での食育』、そして『植物が与える心理的安定』の検証が目的ですね」

スタッフは、果樹の苗木を愛おしそうに撫でた。

「土に触れて、植物が育つのを見るのは、人間の精神衛生上とても重要なんです。いずれ、子どもたちや住民の方々が、ここで共同作業を行うことで、コミュニティの絆を深める……そういう効果も期待されています」

その説明を聞いた瞬間、恒一の心の中に、ある明確な『気づき』がストンと落ちてきた。

「(あれ……これって、ただの 避難所(シェルター) っていうより……)」

恒一は、周囲の畑を見渡した。

「(普通に『ここでずっと暮らす』前提で作ってるんだな)」

一時的に逃げ込んで、外の安全が確認されるまで息を潜めるための場所ではない。

ここで作物を育て、食べ、生活を営み、そして 共同体(コミュニティ) を作って生きていくための「街」としての機能が、設計の根本に組み込まれているのだ。

だが、その事実の重さは、まだ恒一の心を深刻なものにはしなかった。

隣で澪が、「村上くんも食べなよ! ほら!」と、プチトマトを口に押し込んできたからだ。

「んぐっ……! わかった、食うから!」

甘酸っぱいトマトの果汁が口の中に広がる。

土の匂い。太陽(偽物だが)の光。そして、笑い合う声。

ここは、決して絶望的なディストピアではない。

少なくとも今のところは、最高に快適で、少しだけ不思議なユートピアだ。

昼食を挟み、午後の探検はさらにエスカレートしていった。

「次は運動区画ね! マップだと、この辺なんだけど……」

澪の案内で到着した『スポーツブロック』は、恒一の語彙力を完全に奪い去った。

「……いや、どこの大学だよここ」

恒一は、目の前に広がる光景に呆れ果てて笑うしかなかった。

体育館が一つではないのだ。

バスケットボールのコートが三面は取れそうな巨大なメインアリーナ。

少し小さめのサブアリーナ。

壁一面にカラフルな突起が配置された、本格的なボルダリング用の壁。

床がクッション材で覆われた武道場。

壁が全面鏡張りのダンススタジオ。

そして、なぜか最新鋭のゲーミングPCと巨大モニターがズラリと並んだ『eスポーツ専用ルーム』まである。

「学校と市民体育館とスポーツジムが合体してる!」

澪が、メインアリーナの床をキュッキュッとスニーカーで鳴らしながらはしゃぐ。

アリーナには、すでに何人かの参加者たちが集まり、どこからか引っ張り出してきたボールでバスケの3on3を始めていた。

「おっ、君たちもやるか? 人数足りないんだよ!」

声をかけてきたのは、元自衛官らしき体格の良い男だった。

彼らは汗だくになりながら、底抜けに明るい顔で笑っていた。

「いやー、ここすげえよな! 器具も最新だし、シャワーもすぐそこだし。これ全部無料で使い放題とか、マジで天国だわ!」

別の、筋トレ好きらしき参加者も、ベンチプレスを上げながら同意する。

「プロテインの自販機までタダなんだぜ? 俺、一生ここから出なくていいかもしれん」

彼らの言葉には、切実な響きがあった。

外の世界で、日々の労働や人間関係に疲れ果て、あるいは居場所を見失っていた人間たちにとって、この「衣食住と娯楽が完全に保証された空間」は、まさに神からの贈り物のようだった。

恒一も、彼らと少しだけ会話を交わし、この施設の中で「新しい人間関係」が静かに、しかし急速に形成されつつあるのを感じた。

昨日はまだ、互いに警戒し合う「赤の他人」の集まりだった。

だが、この異常な環境と、圧倒的なまでの「待遇の良さ」が、彼らの警戒心を解きほぐし、奇妙な連帯感を生み出し始めている。

「(……なんか、修学旅行の夜みたいなテンションだな)」

恒一は、バスケに興じる男たちを見ながら、少しだけ心地よい疲労感を感じていた。

だが、この施設の「狂気」は、まだ底を見せていなかった。

「村上くん、次あそこ行こう! 『シネマコンプレックス』って書いてある!」

澪に引っ張られるようにして辿り着いたのは、映画区画だった。

巨大なショッピングモールの最上階にあるような、ポップコーンの甘い香りが漂うエントランス。

だが、その奥へと続く通路に並ぶ「スクリーン」の扉の数を見た瞬間、澪の足がピタリと止まった。

「ねえ……これ、何館あるの?」

澪が、果てしなく続く扉の列を指差した。

恒一も、口をぽかんと開けた。

1、2、3……と扉の上の番号を数えていくが、途中で諦めた。

「四十くらいあるらしいよ。しかも全部、ちゃんと規格が違うってさ」

近くのベンチに座っていた、オタク気質の青年が、スマホから目を離さずに教えてくれた。

「IMAX級のバカでかい大箱から、音響に特化したミニシアター、演劇用の小劇場、あとライブ配信専用の防音ブースまであるらしい。……マジで頭おかしいぜ、ここの設計者」

恒一は、真顔になって青年を見た。

「いや、俺たち、参加者全部で200人しかいないんだけど?」

200人のために、40個の映画館。

一館あたり5人しか入れない計算だ。いくらなんでもオーバースペックすぎる。

青年は、ハハッと力なく笑った。

「だからもう、施設っていうか『街』なんだよ。

……ここは、街が一つ、丸ごと空に浮いてると思った方がいい」

その一言が、恒一の心に深く、重く突き刺さった。

街が一つ。

そうだ。これまで見てきたプールも、農場も、体育館も。

これらは全て、「200人のモニター」のために作られたものではない。

「(……もっと大勢の人間が、ここで暮らす前提で作られているんだ)」

恒一と澪は、顔を見合わせた。

二人の間に、それまでの「遊び半分の探検」の空気が、少しだけ引き締まったものに変わるのを感じた。

その後も、二人は施設内を歩き回った。

カフェが複数ある。

パンの焼ける匂いがする工房。

日用品や服が無料で支給される、コンビニのような売店。

美容室らしき設備。

静かなクラシック音楽が流れる図書ラウンジ。

そして、個室のブースが並ぶ、自習室やワークスペース。

見れば見るほど、ここが「日常を作るための場所」であることが浮き彫りになっていく。

「これさ……」

恒一が、図書ラウンジの巨大な本棚を見上げながら呟いた。

「命を守るだけなら、こんなに『暇つぶし施設』いらなくない?」

ただの 避難所(シェルター) なら、カプセルベッドと固形食、そして最低限の衛生設備があれば十分だ。

だがここは、人間の生活の「質(QOL)」を極限まで高く保つように設計されている。

「うん……」

澪も、真剣な表情で頷いた。

「ていうか、暮らすっていうか、『普通の人生を続ける』前提で作ってるよね。

ここで働き、遊び、勉強して、生きていくための場所」

二人は、すれ違う他の住民たちと言葉を交わした。

元派遣社員の男は「仕事なくなったし来たけど、ここ普通に当たり案件じゃね? 一生いたいわ」と笑い。

元介護士の女性は「最初は怖かったけど、食事と住環境だけで人生立て直せそう」と安堵の表情を浮かべ。

オタク気質の青年は「空調と通信と水回り、異常なレベルで安定してる。絶対普通じゃない。どんなインフラ積んでるんだ」と分析していた。

そして、皆が口を揃えて言うのだ。

「でもこれ、200人だけだと全然使いきれなくね?」

その言葉の裏に隠された、巨大な余白。

誰のための、何万人のための街なのか。

皆、笑いながらも、うっすらとその「異常なスケール」に気づき始めている。

探検の終盤。

二人は、居住区画の外れで、分厚い金属製の隔壁に行き当たった。

これまでの明るく開放的な雰囲気とは全く違う、無機質で冷たいデザイン。

扉の横には、虹彩認証と静脈認証のパネルが設置されており、赤いランプが点滅している。

『居住モニター立入禁止。この先、医療特別区画、および管制・輸送区画』

恒一が、冗談半分でそのパネルに手を伸ばそうとした瞬間。

どこからともなく現れた制服のスタッフが、スッと二人の前に立ち塞がった。

「申し訳ありません。その先は、今後の拡張区画となります。関係者以外の立ち入りは固く禁じられております」

スタッフの口調は非常に丁寧だった。

だが、その声には一切の感情がなく、瞳の奥には「これ以上進めば実力を行使する」という冷徹な意志が宿っていた。

それが、逆に恒一の背筋を凍らせた。

「あ、すいません。道に迷っちゃって……」

恒一は慌てて澪の手を引き、その場から逃げるように立ち去った。

少し離れた場所まで来て、澪が小声で囁いた。

「ねえ。……『今後の拡張区画』って言ってたよね?」

「ああ」

「今後って何。まだ広がるの? この街」

「……街、増築中ってことなんだろうな。今も」

恒一は、足元から伝わる微かな、本当に微かな振動を感じたような気がした。

自分たちが遊んでいるこの空間の奥底で、巨大な機械が蠢き、新たな空間を生み出し続けている。

ここは、生きている街なのだ。

夕方。

二人は、施設の外周に設けられた巨大な展望窓の前のベンチに座っていた。

窓の外には、夕日に照らされて燃えるようなオレンジ色に染まった雲海が広がっている。

下界の街の灯りも、山のシルエットも見えない。

完全に、空の上だ。

「……ねえ」

澪が、雲海を見つめたまま、ポツリと言った。

「なんかさ、もう秘密施設っていうより、空にある別の街みたいだね」

その横顔は、いつもの明るい彼女とは少し違う、どこか神秘的で大人びた表情だった。

「うん」

恒一も、素直に頷いた。

「最初は怪しいバイトだと思ってたけど……。なんか、すごい所に来ちゃったな」

「でも、悪くないかもね」

澪が、少しだけ笑って恒一の方を見た。

「ここなら、人生やり直せる人もいそう。……私も、含めて」

その言葉には、彼女が地球で抱えていたであろう、見えない重荷やしがらみから解放された安堵感が含まれていた。

恒一も同じだった。

六畳半の部屋で、すり減っていく自尊心を抱えながらスマホを眺めていた日々。

それが今、この空の上の街で、全く新しく、真っ白な状態で再起動しようとしている。

夜。

大食堂での夕食後、昨日と同じように担当官による短いアナウンスがあった。

だが、その内容は昨日よりも一歩踏み込んだものだった。

「皆様、本日は施設の各種設備をご利用いただき、ありがとうございました。

……皆様もすでにお気づきかと思いますが、ここは単なる一時的な居住実験施設ではありません」

担当官の声が、スピーカーを通じて静かに響き渡る。

「この施設は、将来的に、より多くの人員を受け入れ、一つの『都市』として機能することを前提に設計されています。

皆様の生活データ、心理状態の推移、そしてこの空間で形成されるコミュニティの在り方は、今後の都市拡張とシステム構築のための、極めて重要な基礎資料となります。

……つまり皆様は、単なる実験の被験者ではなく、この新しい街の『最初の住民候補』なのです」

ざわっ……。

食堂の空気が、一気に熱を帯びた。

被験者ではない。住民候補。

その言い換えが持つ意味は、あまりにも大きい。

「住民って……ここにずっと住めるってことか?」

「もっと人が来るの? いつ?」

「家族は呼べるのか? 恋人は?」

「仕事はどうなるんだ? 学校は?」

参加者たちが口々に疑問をぶつけるが、担当官は静かに微笑むだけだった。

「本日のご説明は以上です。どうか皆様、引き続きこの施設での生活をお楽しみください」

それだけ言い残し、彼は姿を消した。

全部は明かさない。

だが、その「余白」が、参加者たちの心に強烈な期待と、少しの不安を植え付けた。

この施設は、お試しのホテルではない。

本気で、ここに人を住まわせる気なのだ。国が、あるいはこの施設を作った何者かが。

深夜。

自室のベッドに戻った恒一は、今日一日で撮った写真を、端末の画面でスワイプして見返していた。

リゾートのようなプール。土の匂いのする農業区画。巨大な体育館。映画館の並ぶ通路。

そして、夕焼けの雲海を背にした、澪とのツーショット写真(未遂。少し距離が空いている)。

それらを眺めながら、恒一は自分の人生の軌跡を振り返った。

就職もせず、金もなく、未来のビジョンなんて何もなかった。

ただ何となく、息をしているだけの毎日だった。

なのに今、自分は政府の極秘空中都市の、最初の住民候補に選ばれている。

「いや……人生って、何があるか分かんねえな」

恒一は、小さく笑って呟いた。

彼はベッドから起き上がり、部屋の窓際へと歩いた。

カーテンを開けると、そこには果てしない夜の雲海と、数え切れないほどの星々が輝いていた。

地球の街の灯りは、雲の下に隠れて見えない。

ここは、完全に孤立した、空の上の世界だ。

「秘密基地に住んでるんじゃない」

恒一は、ガラス越しに星空を見上げながら、静かに、しかし確かな熱を帯びた声で言った。

「たぶん俺たちは……まだ名前のない新しい街の、一番最初の住民なんだ」

空飛ぶ箱舟の中は、予想外に快適で、そして謎に満ちていた。

この街がどこへ向かい、最終的に誰を乗せるのか。

その答えはまだ誰も知らない。だが少なくとも、村上恒一の止まっていた人生の時計の針は、この高度一万メートルの空の上で、再び力強く動き始めたのである。