軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第109話 濾過される命とディープステートの嗤い

東京都千代田区、永田町。

日本国の心臓部である首相官邸、その地下五階に設けられた『特別情報分析室』。

この日、外界の冬の寒さとは無縁の、一定の温度に保たれた無機質な密室には、いつにも増して重苦しく、そしてどこか滑稽な疲労感が漂っていた。

円卓を囲むのは、副島内閣総理大臣と、内閣官房参事官の日下部。

そして壁面の巨大なモニターには、強固な量子暗号通信回線を通じて、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のセキュア・ルームにいる二人の人物の姿が映し出されている。

アメリカ最大の軍産複合体『タイタン・グループ』の若き総帥であり、影の 政府(ディープステート) を実質的に束ねる怪物、ノア・マクドウェル。

そして、その傍らに立つCIA長官のエレノア・バーンズである。

「……というわけで」

日下部は、手元のタブレットを置き、これまでにないほど深く、魂の底から絞り出すような溜め息を吐いた。

その目の下には、連日の徹夜と「あの男」がもたらす極大のストレスによって、消えることのない隈が色濃く刻まれている。

「我々が匿っている『あの技術者』……ええと、コードネーム『アンノウン』がですね。

またしても、こちらの外交的・政治的な都合を一切無視して、新たな医療デバイスを開発してしまいました。

……名称は『血液病理選択除去ナノフィルタリング・システム』。

彼の通称では……『ザルすくい君』とのことです」

『……ザルスクイ、クン』

モニターの向こうで、エレノア長官が、完璧に整えられた眉を微かにひそめながら、その間の抜けた響きの言葉を繰り返した。

「イレイザー・クン」の時と同様、通訳ソフトがそのまま音読したため、アメリカの諜報機関のトップに、日本の台所用品のようなネーミングがそのまま突き刺さることになった。

『相変わらず、貴国の天才のネーミングセンスは……独特ですね。

ですが、問題はその機能です。どのような代物なのですか?』

「はい。これまでの『消しゴム君』が、固形ガンを体内から直接『物理的に切り取る』ものであったのに対し、

この『ザルすくい君』は、血液を一度体外に引き出し、専用のナノマシン・フィルターを通して『異常な成分だけを濾し取る』というアプローチを取ります」

日下部は、送信したデータファイルを示しながら説明を続けた。

「つまり、これまでは適応外として弾かざるを得なかった、血液ガン……『白血病』などの治療が、これによって完全に可能となったのです。

……さらに、このフィルターのパラメーターを調整することで、敗血症を引き起こすサイトカインストームの原因物質や、自己免疫疾患の暴走した抗体、

果ては薬物のオーバードーズ(過剰摂取)や未知の化学兵器の毒素に至るまで、血液中を流れるあらゆる『異物』を、リアルタイムで完全に浄化・無毒化することができます」

シン……と。

ワシントンのセキュア・ルームの空気が、一瞬にして凍りついた。

白血病の完治。

それだけでも医学の常識を覆す革命だが、さらに「あらゆる毒素と異常成分の即時浄化」という機能は、軍事・諜報の観点から見れば、まさに悪夢のような——あるいは夢のような——究極の「盾」となる。

これさえあれば、暗殺用の遅効性毒物も、戦場での生物化学兵器も、一切の脅威ではなくなるのだ。

『……アンビリーバブル』

ノア・マクドウェルが、ソファに深く寄りかかったまま、呆然としたようにつぶやいた。

『信じられませんね。

我々が「消しゴム君」の流通ルートを確立し、世界中のVIPに5000万ドルで売り捌き始めたこのタイミングで、

さらにその上位互換とも言える、血液浄化システムをポンと出してくる……。

日本の地下にいるというその天才は、一体どれだけ先の世界を見ているのですか?』

「いえ、それがですね……」

日下部は、さらに深い、二度目の溜め息をついた。

この事実をアメリカ側に説明するのは、官僚としてのプライドが激しく削られる作業であった。

「彼がこの装置を開発した理由は、世界の医療の未来を憂いたからでも、我々の外交的優位を確固たるものにするためでもないのです」

『では、何のために?』

「彼が昔、システムエンジニアをしていた頃に……個人的に、非常に『お世話になった』という、ある無料の統合開発環境(IDE)ツールがありまして。

……そのツールの開発元のCEOが、先日、白血病を患っており『日本の治療の審査に落ちた』と、SNS(X)で激しく愚痴をこぼしているのを見てしまったらしいのです」

日下部は、胃薬のパッケージを指先で弄りながら、力なく言葉を紡いだ。

「で、彼はこう言いました。

『あ、この人には昔タダでツールを使わせてもらった恩があるから、可哀想だし、白血病も治せるように新しい機械を作ってあげるか』……と。

……ただそれだけです。

ただその、一個人の『個人的な恩義』と『気まぐれ』のためだけに、彼は人類の医療の歴史を塗り替えるシステムを数時間で組み上げ、

我々に『この機械を使って、あのCEOを治療してあげてください』と、“お願い”してきたのです」

『…………は?』

ノアの口から、完全に素の、間の抜けた声が漏れた。

隣に立つエレノアも、鉄面皮の下で目を瞬かせている。

世界を裏から操り、冷徹な計算で権力者たちの命を天秤にかけてきた彼らにとって、その開発動機はあまりにもバカバカしく、そして理解不能なものであった。

『……無料のプログラミングツールの、恩返し、ですか?

たったそれだけのために、このオーバーテクノロジーを?』

「はい。信じがたいことですが、それが事実です」

副島総理が、日下部の横から苦笑交じりに口を挟んだ。

「まあ、天才というのは得てしてそういうものなのでしょう。

国家の思惑や世界経済のバランスなどよりも、自分の中の『義理』や『興味』を優先する。

……まったく、我々のような政治家から見れば、扱いづらいことこの上ないのですがね」

『ハッ……ハハハハハハッ!!』

突然、ノアが腹を抱えて大爆笑し始めた。

その笑い声は、セキュア・ルームの防音壁に反響し、モニター越しに日本の官邸地下にまで響き渡った。

『最高ですね! 本当に最高だ!

世界のVIPたちが5000万ドルを積み、権力を振りかざし、時には他国を裏切ってまで手に入れようとしている「命のチケット」。

それを、名もなき日本の天才は「昔、無料ツールを使わせてくれたから」という理由だけで、一人のIT社長のためにポンと用意してしまった!

……これほど痛快な資本主義へのブラックジョークが、他にあるでしょうか!』

ノアは笑い涙を指で拭いながら、大きく息を吸い込んだ。

『……ええ、分かりました。

彼も随分と「優しい」男ですね。

いや、あくまで自分本位の気まぐれなのでしょうが……その気まぐれが我々にもたらす利益は計り知れません。

すぐに手配しましょう。そのシリコンバレーのCEO……名前は伏せますが、私もよく知る男です。

彼を極秘裏に日本へ送り込みますよ。

彼も、自分が日本の天才から「名指しで」命を救われたと知れば、どれほど喜ぶことか』

「よろしくお願いします」

日下部が、深く頷いた。

「白血病が治療対象になるということは、今後の我々の『ビジネス』……いや、外交カードとしての枠が、さらに大きく広がることを意味します。

小児ガンの 無償枠(エンジェル・チケット) においても、白血病の子供たちを救えるようになれば、

タイタン・グループの慈善事業としての箔も、さらに強固なものになるでしょう」

『ええ。商売が捗りますね』

ノアが、再び冷徹なディープステートの顔に戻り、薄く笑った。

『これで、さらに多くの権力者たちの首に、見えない鎖を巻き付けることができます。

……日本政府には、引き続きこの「ザルすくい君」の運用と、技術の秘匿をお願いしたい』

「それはもちろんです」

副島総理が、表情を引き締めて応じた。

だが、その声には、少しだけ厳しい響きが混じっていた。

「……ですが、ノア氏、エレノア長官。

我々がこうして、貴国に最新の技術を提供し、貴方たちの『影の支配』に協力していることには、当然、見返りを期待してのことです」

「現在、アメリカ国内で吹き荒れている、あの不快な『ジャパン・バッシング』。

……あれを、一刻も早くなんとかしていただきたい」

総理の指摘に、モニターの向こうの二人の動きがピタリと止まった。

現在、アメリカ国内の世論は、日本に対して極めて悪化していた。

タイタン・グループの公聴会において、ノアが「ガン治療の技術は日本の国家機密であり、アメリカは高い金を払って買わされているだけだ」と証言したことが発端だ。

大衆の怒りは「特権階級の汚職」から、「アメリカの命を人質にして暴利を貪る恩知らずの同盟国・日本」へと見事にすり替えられた。

その結果、アメリカ各地で日本車の不買運動や打ち壊し、日系企業への嫌がらせといった物理的な 排斥運動(ヘイトクライム) が勃発し、国務省すらも明確な擁護を避けている状態なのだ。

「我々は、貴方たちが『国内の不満のガス抜き』として、我々日本をスケープゴートに利用したことについては、大局的な見地から黙認してきました」

日下部が、冷たい声で引き継いだ。

「しかし、それも限度というものがあります。

これ以上、我が国の国民や企業が不当な被害を受け続けるようなら、我々としても国内世論を抑えきれなくなり、

日米同盟の根幹、ひいてはこの『技術共有の枠組み』そのものを見直さざるを得なくなりますよ」

日下部の言葉は、明確な「脅し」であった。

お前たちが自分たちの政治的安定のために日本を悪者に仕立て上げたのは許してやる。だが、それが過ぎれば、この「魔法の薬」の供給ラインを完全にストップするぞ、と。

『……その件につきましては、誠に申し訳なく思っております』

ノアが、少しだけ姿勢を正し、恭しく頭を下げた。

『我々としても、事態がここまで過熱するとは思っていませんでした。

大衆の怒りというものは、一度火がつくとコントロールが難しいものでして。

……ですが、ご安心ください。これ以上、日本に対するバッシングを長引かせるつもりはありません』

「どうやって収束させるおつもりですか?

一度火がついたナショナリズムの炎は、そう簡単には消せませんよ」

副島総理が、疑り深い目を向ける。

『ええ。ですから、新しい「燃料」を投下するのです』

エレノア長官が、氷のような表情のまま、冷酷な解決策を提示した。

『大衆の怒りを日本から逸らすためには、より巨大で、より分かりやすい「新たな敵」を提示してやるのが一番です。

……例えば、中国です』

「中国、ですか」

『はい。

現在、中国は日本の技術(薬)を喉から手が出るほど欲しがっており、水面下でアメリカの海外拠点や同盟国に対して、

なりふり構わないスパイ活動や妨害工作を行っています。

我々は、この事実を「意図的に」アメリカのメディアにリークします』

エレノアは、淡々とシナリオを語り始めた。

『「中国が、アメリカ国民の命を救うための日本の医療技術を盗み出そうとしている。

彼らの妨害のせいで、日本からの薬の供給が遅れているのだ」というナラティブ(物語)を構築します。

そうすれば、アメリカ国民の怒りの矛先は、一瞬にして「出し惜しみをする日本」から「我々の命の薬を奪おうとする卑劣な中国」へとシフトします。

……日本は「中国の脅威に晒されながらも、必死にアメリカのために薬を作ってくれている可哀想な同盟国」というポジションに収まるわけです』

「……なるほど」

日下部は、感心したように息を吐いた。

自らの責任を回避するために、他国同士を憎悪で衝突させる。まさにディープステートの常套手段であり、情報操作の極致だ。

「見事なストーリー(絵図)ですね。

これなら、日本へのヘイトは鎮静化し、日米の同盟関係はむしろ『共通の敵(中国)』の存在によって強固になる」

『はい。ガス抜きは必要ですからね』

ノアが、涼しい顔で同意した。

『大衆には常に「憎むべき敵」を与え続けなければならない。

それが、この巨大な国家を安定して運営するためのコストです。

……日本の皆様には、もう少しだけ「被害者」の役を演じていただきますが、すぐに事態は好転しますよ』

「分かりました。そのシナリオに乗らせていただきましょう。

……ただし、本当にすぐに収束させてくださいよ?

我々の忍耐も無限ではありませんからね」

副島総理が、最後の念押しをする。

『お任せください、総理。

我々タイタン・グループとCIAの総力を挙げて、世論の 誘導(スピン) を実行します』

ノアが深く一礼し、通信が切断された。

モニターが暗転し、地下の特別情報分析室には、再びジャミング装置の低い重低音だけが響くようになった。

日下部は、空になったお茶の湯呑みを見つめながら、深く、深い溜め息を吐き出した。

「……終わりましたね。

とりあえず、アメリカ側のガス抜きは彼らに任せるとして。

……問題は、工藤さんの『ザルすくい君』の運用体制の構築です」

「そうだな」

副島総理も、険しい顔で頷いた。

「白血病が治るとなれば、世界中の富裕層や政治家からの新たな需要が爆発する。

『消しゴム君』の5億円枠に加えて、この『ザルすくい君』の枠も管理しなければならん。

……日下部くん。価格設定はどうする?」

「……そうですね」

日下部は、タブレットで『ザルすくい君』のスペック表を眺めながら、冷徹な計算を始めた。

「この装置は、注射一本で済む『消しゴム君』とは違い、患者の血液を体外に引き出して循環させる『大型の設備』と『長時間の拘束』が必要です。

つまり、ベッドの回転率が悪く、物理的な 供給制限(ボトルネック) がより厳しくなります」

日下部は、眼鏡を押し上げ、冷たい声で結論を述べた。

「ですが、その分『死の淵から直接引き戻す』ような即効性の高い奇跡を起こせます。

……価格は、少しズラしましょう。

『消しゴム君』が5億円なら、こちらは……少し“現実の医療”の延長線上に近いイメージを持たせるために、『3億円』で設定します」

「3億円か。

安くしたな。……いや、決して安くはないが」

「ええ。

5億円よりは安く見えますが、一般市民には絶対に手が出ない絶望的な壁であることには変わりありません。

ですが、3億円となれば……『もしかしたら、家や会社を売り払って借金をすれば、ギリギリ届くかもしれない』と錯覚する 層(アッパーミドル) が一気に増えます」

日下部の口元に、悪魔的な笑みが浮かんだ。

「絶望的な価格ではなく、手の届きそうな絶望。

……これが一番、人間を狂わせるのです。

この『3億円のザル』は、5億円の消しゴム以上に、世界に凄まじい熱狂と分断を生み出すでしょうね」

「……君も、随分と悪党になったな、日下部くん」

総理が、半分呆れ、半分感心したような声で言った。

「国家を守るためなら、喜んで悪魔になりますよ。

……工藤さんの無邪気な『恩返し』が、これから世界にどんな地獄を振りまくのか。

我々は、その火の粉を被らないように、せいぜい頑丈な防波堤を築き続けるしかありません」

日下部は、新しい胃薬のパッケージを開封し、水なしで直接口の中に放り込んだ。

苦い粉末が喉の奥へと滑り落ちていく。

その苦味こそが、今の彼が生きている現実の味であった。

地球の裏側では、アメリカの世論が操作され、新たな「敵」が作られようとしている。

そして日本の地下では、冷酷な官僚たちが「命の値段」を計算し、新たな特権階級のルールを構築している。

それらのすべての狂騒の源泉である、次元の彼方の異星。

そこでは、工藤創一という一人の男が、地球のドロドロとした陰謀など一切知る由もなく、

「これで恩人の社長も元気になるなー! よし、いい仕事した!」

と、清々しい笑顔で、また次のロケットの打ち上げボタンを押そうとしていた。

天空の箱舟が飛び立つ時が、刻一刻と近づいている。

世界の終わりのような喧騒の中で、工場のラインだけが、ただひたすらに、正確に、その歩みを進め続けていた。