軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第103話 オーバル・オフィスのワルツと慈善の仮面

アメリカ合衆国、ワシントンD.C.。

ペンシルベニア大通り1600番地、ホワイトハウス。

西棟(ウエストウイング) の心臓部である大統領執務室——オーバル・オフィスは、首都の重苦しい曇天とは対照的に、間接照明の温かみのある光と、マホガニーの家具が放つ重厚な艶に包まれていた。

だが、その空間を支配する空気は、決して穏やかなものではない。そこには、世界を動かす巨大な権力と、それに群がる影の支配者たちが織りなす、極めて高度でシニカルな政治ゲームの熱が充満していた。

歴代の大統領たちが決断を下してきたレゾリュート・デスクの前に立ち、腕を組んで窓の外を眺めているのは、第48代アメリカ合衆国大統領、キャサリン・ヘイズである。

彼女は、就任後初となる大規模なヨーロッパ歴訪から昨夜帰国したばかりだった。時差ボケと連日の過密スケジュールの疲労が、彼女の端正な顔立ちにわずかな影を落としてはいるものの、その背筋はピンと伸び、元連邦検事としてのタフで妥協を許さない気骨を漂わせている。

しかし、今の彼女が纏っているのは、選挙戦で大衆を熱狂させた「純粋な正義の代弁者」としてのオーラだけではない。泥にまみれた世界の裏側のルールを知り、それに適応しつつある「超大国の指導者」としての、冷徹な仮面であった。

彼女の背後、執務室の優雅な空間を二人の人物が占拠していた。

一人は、窓際から少し離れた位置で、まるで彫像のように直立不動の姿勢を保っているCIA長官、エレノア・バーンズ。氷のように冷たい碧眼と、一切の感情を排した鉄面皮は、この部屋の温度を数度下げているかのような錯覚を起こさせる。

そしてもう一人は、アンティークのレザーソファに深々と腰を下ろし、まるで自邸のリビングで寛いでいるかのような優雅な態度を見せる若き青年。アメリカ最大の軍産複合体『タイタン・グループ』の次期総帥であり、影の 政府(ディープステート) を実質的に束ねる怪物、ノア・マクドウェルである。

「……ヨーロッパの説得は、なんとか上手くいったわ」

キャサリンは窓から視線を外し、振り返りざまにポツリと口火を切った。

その声には、大仕事を終えた安堵感よりも、どこか苦々しい皮肉の響きが混じっていた。

「イギリスの首相も、フランスの大統領も、最後は私が提示した『ロシアの制裁緩和と市場復帰プロセス』に異議を唱えることはなかった。ドイツに至っては、表面上は環境や人権の理念を盾にして渋い顔を作りながらも、裏の会談では早々に握手を求めてきたわ。……見事なほどに従順だった」

彼女はデスクの端に置かれたクリスタルのペーパーウェイトを指で弾き、微かな音を響かせた。

そして、ソファで涼しい顔をしているノアに向けて、鋭い視線を突き刺した。

「あまりにも物分かりが良すぎて、拍子抜けしたくらいよ。

……貴方たちの、裏の工作のおかげかしら?」

キャサリンの言葉には、明らかな毒が含まれていた。

彼女は知っているのだ。ヨーロッパの首脳や、背後で彼らを操る旧貴族・大資本家たちが、なぜあれほどまでにアメリカの意向に逆らわず、自らの誇りを曲げてまで追従してきたのかを。

ノアは、その皮肉を真正面から受け止め、しかし全く悪びれることなく、口角を薄く持ち上げた。

「いえいえ、とんでもない。大統領の卓越したお人柄と、高潔な理念ゆえの説得力ですよ。ヨーロッパの指導者たちも、貴女の掲げる『統合と平和』という美しいビジョンに心から感銘を受けたのでしょう」

ノアの言葉は、完璧なまでに洗練された外交辞令であったが、その声のトーンには明らかに「それを信じている者はこの部屋にはいない」という共通認識が含まれていた。

「……まあ、とはいえ」

ノアはティーカップを優雅にソーサーに置き、青白い瞳でキャサリンを見つめ返した。

「我々が行った『 治療(トリートメント) 』のおかげであることは、否定しませんがね」

治療。

その一言が、オーバル・オフィスの空気を一瞬で非現実的なものへと変質させた。

日本から極秘裏に提供された『消しゴム君』——1回5000万ドルという天文学的な価格で提供される、ガン細胞のみを完全に消去するナノマシン製剤。それをアメリカのディープステートが独占的な窓口となり、ヨーロッパのVIPたちに提供したという事実。

「誇り高く頑固なヨーロッパの貴族や、伝統を重んじる上流階級の重鎮たち。彼らは普段であれば、アメリカの新興資本や政治的圧力に対して、鼻持ちならない態度で抵抗を示すものです。

……しかし、死の淵に立たされた彼らの前に『命の保証』をぶら下げてやれば、話は別です。彼らは我々アメリカの意向には、もはや逆らえないわけです。自らの細胞の存続を我々に握られているのですからね」

ノアは、まるで従順な犬を手懐けたブリーダーのように、残酷な真実を口にした。

キャサリンは小さく息を吐き出し、デスクの椅子に腰を下ろした。

「ガン治療が、5000万ドルね……」

彼女は、その狂った数字を反芻するように呟いた。

元検事である彼女の正義感からすれば、命に値段をつけ、それを外交の脅迫材料として使うなど、おぞましい腐敗の極みである。だが、その腐敗こそが、今アメリカという巨大な国家の覇権を維持し、流血の事態を防いでいるというパラドックスを、彼女はすでに受け入れざるを得なくなっていた。

「まあ、病に苦しむ人々にとって、治療方法が増えるのは喜ばしいことだわ」

キャサリンは、どこか自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「それがどれほど高額であっても、治らないはずの病気が治り、命が救われるという結果自体は、人類にとっての進歩よ。……皮肉な形ではあるけれどね」

「ええ。その通りです、大統領」

ノアが深く頷く。

「現在は、前線の兵士の命を救う外傷治療の『バンドエイド』と、VIP向けのガン治療である『消しゴム君』……日本側がそう呼んでいる二つのラインナップだけですが。

……日本政府との秘密裏のやり取りによれば、彼らの極秘研究所にいる『天才』は、将来的にはさらなるグレードの医療技術も検討しているそうです」

「さらなるグレード?」

「はい。例えば、神経系の完全な再構築による認知症の治療や、遺伝子レベルでの代謝異常の恒久的な修正。あるいは、失われた臓器そのものをナノマシンで培養し直すといった、より高度で複雑なアプローチです。

彼らの技術革新のスピードは常軌を逸しています。数年後には、我々の想像もつかないような『奇跡』が、商品としてリストに追加されるかもしれません」

キャサリンは、少しの間だけ沈黙し、やがて短く、そして鋭い口笛を吹いた。

ピュー、という音が執務室に響く。それは驚愕と、そして抑えきれない好奇心の表れだった。

「……凄いわね」

キャサリンの瞳の奥に、政治家としての打算を越えた、一人の人間としての純粋な感嘆の色が浮かんだ。

「いずれ、人類を苦しめてきたあらゆる難病が、あのナノマシンで解決できる時代がくるかも?

筋ジストロフィーも、アルツハイマーも、エイズも。全てが過去の歴史の教科書に載るだけの存在になる。……もしそれが実現すれば、それは間違いなく人類史上最大の偉業よ」

「ええ。私も、そんな時代がくることを心から望みますよ……」

ノアは、自らの完璧に調整された若々しい肉体——かつてALSという不治の病によって死を待つだけだったその体を微かに動かしながら、静かに、しかし深い実感を持って同意した。

彼こそが、その「未来の医療」によって救われた最大の恩恵者なのだから。

「正直に言うわ」

キャサリンは、デスクの上で両手を組み、真剣な眼差しで二人を見つめた。

「私は大統領として、あの国——日本が持っている技術が、軍事的な覇権を握るためではなく、こういった先進医療の分野にこそ使われるべきだと思っている。

兵器開発や、世界を監視するようなディストピア的なシステムより、こういった『人を救う技術』を追求して欲しいわね……。それが、世界を真に豊かにする唯一の道よ」

それは、キャサリン・ヘイズという女性が根底に持ち続けている、燃えるような正義感と理想主義の残滓であった。

暴力ではなく、癒しによって世界を導く。それこそが、彼女が目指すべきアメリカの姿だと信じていた。

だが、その美しい理想論を、冷酷な現実の刃が一刀両断した。

「大統領。それは少々、ロマンチシズムが過ぎるというものです」

それまで黙って控えていたエレノア・バーンズCIA長官が、氷の彫像が口を開いたかのような冷たさで言い放った。

「医療と軍事は、決して切り離せるものではありません。

医療用ナノマシンを利用して人体の限界を突破させれば、それは必然的に、あらゆる兵器産業をも活発化させることになります」

「どういうこと? 人を治す技術が、なぜ兵器に繋がるの?」

「簡単な理屈です」

エレノアは、微動だにしない姿勢のまま、淡々と解説した。

「例えば、兵士の疲労をナノマシンで瞬時に回復させ、痛覚を遮断できるとなれば、軍隊は『休息』を必要としなくなります。不眠不休で戦い続ける歩兵部隊が誕生する。

放射線による細胞の損傷を即座に修復できるとなれば、防護服なしで核汚染地帯に進軍することが可能になります。

……医療が極まれば、人間そのものが『最強の兵器』へとアップグレードされるのです」

エレノアの言葉は、キャサリンの脳裏に、シリアの戦場で見たあの「不死身の兵士たち」の光景を鮮明に蘇らせた。

「どっちか、ではありません。

『人を救う技術』は、そのまま『人を殺すための効率化』に直結する。

どっちもですよ、大統領。

日本が医療を極めれば極めるほど、世界の軍事的なパワーバランスもまた、より凶悪な方向へと進化していくのです」

キャサリンは言葉を失った。

命を救うという至高の善行が、そのまま究極の暴力へと反転する。

それが、科学技術というものの逃れられないカルマ(業)なのだ。

「……そうね。貴女の言う通りかもしれないわね。私は少し、夢を見過ぎていたようだわ」

キャサリンは、己の甘さを振り払うように頭を振り、デスクを軽く手のひらで叩いた。

「そうよ、そうよね。感傷に浸っている場合ではないわ。

気分を切り替えましょう!」

彼女の顔から理想主義者の脆さが消え、再び世界最強の国家を率いる冷徹な最高司令官の顔が戻ってきた。

彼女は、デスクの上の電子マップを操作し、ヨーロッパの東側——広大なユーラシア大陸の北部に位置するロシア連邦の領土を赤くハイライトした。

「ヨーロッパの説得が完了し、ウクライナとの休戦も安定した。

これで、ロシア方面の軍事的な脅威は、とりあえず安定するわ。彼らはスパイ網を潰され、我々の『眼』に怯えながら、冬眠する熊のように大人しくなるでしょう」

キャサリンは、鋭い視線をノアとエレノアに向けた。

「だが、ただ大人しくさせておくだけでは不十分よ。

制裁を緩和し、彼らを市場に復帰させる以上、我々はその見返りを徹底的に回収しなければならない」

「と、おっしゃいますと?」

「ロシア経済の深層部を、我々のコントロール下に置くのよ」

キャサリンは、まるでチェス盤の駒を進めるような冷酷さで指示を下した。

「ガン治療の『消しゴム君』……この手札を最大限に利用しなさい。

ロシアのオリガルヒ(新興財閥)や、ボグダノフ政権の基盤を支えるエネルギー産業のトップたち。彼らの中にも、病に怯え、命を金で買いたいと思っている連中は山ほどいるはずよ」

「なるほど」

ノアが、面白そうに目を輝かせた。

「彼らに秘密裏にアプローチし、『アメリカのルートを通せば、日本の奇跡の治療を受けさせてやる』と囁くわけですね。

……もちろん、その代償は5000万ドルという金銭だけでなく、ロシア国内のエネルギー利権の譲渡や、クレムリン内部の機密情報の横流しを要求する」

「その通りよ。

彼らの『命の恩人』になることで、ロシア経済の首根っこを内部から掌握するの。

軍事力で国境を越えるのではなく、医療という不可視の兵器を使って、ロシア経済に深く手を伸ばすことも検討しなさい!

……これが、これからの新しい『侵略』の形よ」

キャサリンの指令は、見事なまでにディープステートの手法を体現していた。

彼女は完全に、このゲームのルールに適応しつつあった。

「素晴らしい戦略です、大統領。直ちに工作員を手配し、ロシアの富裕層への『営業』を開始しましょう」

エレノアが満足げに頷いた。

これこそが、彼女が求めていた強い大統領の姿だ。

「それと、もう一つ」

キャサリンは、ペンを指で回しながら、ふと思いついたように付け加えた。

「『消しゴム君』の運用に関してだけれど。

基本的に、誰にどのタイミングで5000万ドルの枠を売るかは、貴方たちタイタン・グループとCIAの判断に任せるわ。アメリカ大統領として、その泥臭い選別作業にはノータッチを貫かせてもらう」

「賢明なご判断です。その方が、大統領の手を汚さずに済みますからね」

「……だけど」

キャサリンの目が、一瞬だけ鋭く細められた。

そこには、政治家としての高度な計算と、大衆心理をコントロールするための狡猾さが宿っていた。

「富裕層の老人ばかりが奇跡の薬でガンを治しているという事実は、再び『特権階級の医療独占』というスキャンダルが燃え上がることになるわ。

……それを防ぐための『防波堤』が必要よ」

「防波堤、ですか?」

「ええ。

少数でも良いから、『ガス抜き枠』として、一般の小児患者も治療の枠に入れてあげなさい」

キャサリンの提案に、ノアとエレノアは一瞬だけ裏を突かれたような顔をした。

「小児患者……。子供、ですか」

「そうよ。

例えば、難病の小児ガンと闘う、どこにでもいる普通の家庭の健気な子供。

そういう子をピックアップして、無償……あるいは慈善財団を通した全額寄付という形で、密かに日本へ送って治療を受けさせるの」

キャサリンは、まるでテレビのプロデューサーのように、完璧なシナリオを語り始めた。

「そして、その子供が奇跡的に完治したという『美談』を、メディアの端の方でさりげなく流すのよ。

そうすれば、大衆はどう思うかしら?

『ああ、あの魔法の薬は、お金持ちの老人だけでなく、可哀想な子供たちを救うためにも使われているんだ』と感動するわ。

……強烈なルサンチマン(嫉妬)は、美しい涙のストーリーによって中和される。

これが、大衆の怒りをコントロールするための最も効果的な『ガス抜き』になるのよ」

それは、究極の偽善であった。

数千人の子供が見殺しにされる中で、たった数人の子供を救い、それをショーとして消費することで、システム全体の非情さを隠蔽する。

だが、政治の世界において、これほど有効なリスクヘッジはない。

「……なるほど。

特権階級の独占という批判をかわすための、PR(広報)戦略としての慈善事業ですか」

ノアは、感心したように小さく拍手をした。

正義の検事であったはずのキャサリン・ヘイズが、いつの間にか自分たちと同じ、いや、それ以上に冷酷な大衆操作の手法を身につけている。

その変貌ぶりは、彼にとって最高のエンターテインメントであった。

「我々タイタン・グループは、営利を追求する軍産複合体です。

当然のことながら、一銭の利益にもならない慈善事業などやる気はないのですが……」

ノアは悪戯っぽく肩をすくめた。

「まあ、大統領が『政治的安定のための 必要経費(コスト) 』だとおっしゃるのなら、良いでしょう。

枠の一部を割いて、感動的なドキュメンタリー番組の主役になれそうな子供を見繕って、日本に送り込んでみせますよ。

……日下部参事官も、小児患者であれば、快く適性検査の優先枠を回してくれるでしょうからね」

「ええ、頼んだわよ」

キャサリンは満足げに頷き、デスクの上の書類をパタンと閉じた。

「さて、本日の打ち合わせはこれまでよ。

……お行儀の良い表舞台の仕事が、山ほど残っているからね」

エレノアとノアが立ち上がり、静かに一礼して執務室を後にする。

重厚なマホガニーの扉が閉まると、オーバル・オフィスには再び、暖炉の薪が爆ぜる音と、窓を叩く冷たい雨音だけが残された。

キャサリンは一人、デスクに頬杖をつき、暗く沈んだワシントンの夜景を見つめた。

彼女は、自分がもはや「正義のヒロイン」ではないことを自覚している。

命の選別を容認し、独裁国家と裏取引をし、大衆を感動のストーリーで欺く。

だが、それがアメリカという巨大なシステムを維持し、世界の崩壊を防ぐために必要な「大統領の責務」であるならば、彼女は喜んでその泥を被る覚悟を決めていた。

日本の地下から供給される、神の薬と神の眼。

その圧倒的なテクノロジーに依存しながら、世界は歪な均衡を保ち続けている。

「……次に日本が何を出してくるか、恐ろしくもあり、楽しみでもあるわね」

キャサリンの呟きは、雨の音に吸い込まれて消えた。

彼女の首には、見えない「極東の魔法使い」の鎖が、しっかりと、そして心地よく巻き付いているのだった。