軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第102話 欧州の落日と忠誠の代価

イギリス、ロンドン。

伝統と格式が色濃く残るメイフェア地区の閑静な通りに、何世紀もの歴史を持つ重厚な石造りの邸宅が立ち並んでいる。その中でも一際広大な敷地を誇るタウンハウスの最上階。

壁一面に飾られた豪奢なタペストリーと、数百年前に描かれた先祖の肖像画が見下ろす薄暗い寝室で、一人の老人が死の淵を彷徨っていた。

チャールズ・ウィンチェスター卿。

イギリス貴族院の重鎮であり、ヨーロッパ全土のエネルギーインフラと金融市場に絶大な影響力を持つ、真の 特権階級(エリート) の一人である。

EUの政策決定においても彼の意向は無視できず、アメリカのウォール街の資本家たちでさえ、彼との会談には数ヶ月前からのアポイントメントを必要とした。ヨーロッパという古い大陸のプライドを体現するような男であった。

だが、その誇り高き貴族も、細胞の叛逆という絶対的な暴力の前には為す術がなかった。

彼の肉体を蝕んでいるのは、進行性の肝細胞ガンであった。すでに複数の臓器への転移が見られ、ヨーロッパが誇る最高峰の医療チームをロンドンに結集させても、進行を遅らせることすら叶わない状態に陥っている。

点滴のチューブに繋がれ、モルヒネの投与によって朦朧とした意識の中で、ウィンチェスター卿は自らの帝国の終焉と、避けられない「死」という暗黒の深淵をじっと見つめていた。

コンコン、と控えめなノックの音が、死の静寂を破った。

「……入れ」

卿が掠れた声で応じると、長年仕えてきた執事が、ひどく緊張した面持ちで扉を開けた。

「旦那様。……お客様がお見えです。事前の約束はございませんでしたが、どうしてもお目にかかりたいと」

「……帰せと言ったはずだ。私がこの無様な姿を晒すのは、医師と君たちだけで十分だ。見舞いのふりをして私の遺産と権力の行方を嗅ぎ回るハイエナどもを、これ以上この部屋に入れるな」

「それが……。お客様は、アメリカの『タイタン・グループ』の特使であると名乗っております。そして、旦那様のご病気について、極めて重大な『解決策』をお持ちだ、と」

タイタン・グループ。

その名を聞いて、ウィンチェスター卿の濁った瞳に微かな光が宿った。

アメリカの軍産複合体を牛耳る巨大企業であり、最近では新大統領キャサリン・ヘイズの背後で実質的にワシントンを操っているとも噂される、影の 政府(ディープステート) の中枢。

彼らが、死にかけのイギリス貴族に何の用だというのか。

「……通せ」

卿の許可が下りると、執事と入れ替わるようにして一人の男が入室してきた。

隙のないダークスーツに身を包み、冷徹なビジネスマンの顔をしたその男は、ベッドの傍らに立つと、慇懃に、しかしどこか見下すような余裕を持って一礼した。

「お初にお目にかかります、ウィンチェスター卿。タイタン・グループより参りました。本日はお加減が優れない中、お時間をいただき感謝いたします」

「……アメリカの死の商人が、私に何の用だ。兵器の売り込みなら他を当たれ。私にはもう、戦争に投資する寿命は残されていない」

「ええ、存じております。ですから本日は、ビジネスの話ではありません」

使者は、持っていた銀色のアタッシュケースをテーブルの上に置いた。

「卿の『命』についての、特別なご提案を持参いたしました」

「命、だと?」

「はい。我々タイタン・グループは、現在、極めてクローズドなルートを通じて、ある『革新的なガン治療』のアクセス権を保有しております。

……実は、貴方だけに特別に紹介したい治療があるのですよ」

ウィンチェスター卿は、酸素マスク越しに乾いた笑い声を漏らした。

「ハハハ……。アメリカ人はジョークが好きだな。スイスの最新の遺伝子治療も、ドイツの重粒子線治療も、すべて試した。その上で、私の主治医たちは『もう手遅れだ』と結論づけたのだ。

君たちがどんな新手の抗がん剤を持ってきたのかは知らないが、奇跡は起きない。諦めたまえ」

「既存の医療の延長線上でお考えにならないでください、卿」

使者は、嘲笑を一切意に介さず、淡々と事実を突きつけた。

「事前の適性検査をパスしていただき、アメリカの用意するプライベートジェットで『日本』へと渡航して貰えば……数十分で、今貴方を苦しめているそのガンが、完全に無くなりますよ」

その言葉が、豪奢な寝室の空気を凍りつかせた。

「……日本だと? そして、数十分でガンが無くなる?」

ウィンチェスター卿は、自分が鎮痛剤の幻覚を見ているのかと思い、強く瞬きをした。

だが、使者の瞳は冷酷なまでに真剣であった。

卿の脳裏に、最近ヨーロッパの裏社会やネットの陰謀論界隈でまことしやかに囁かれている、ある一つの巨大な都市伝説が浮かび上がった。

「……メドベッドというやつか?」

卿は、震える声で尋ねた。

アメリカの特権階級が秘密裏に使用し、どんな病気も一瞬で治し若返るという、SF映画のような医療ポッド。

使者は、小さく肩をすくめ、皮肉げな笑みを浮かべた。

「ハハハ……。ヨーロッパの最高権力者である貴方まで、メドベッドを信じておられるとは。大衆の噂というのは恐ろしいものですね」

使者は、アタッシュケースのロックを解除し、蓋を開けた。

中にはポッドやカプセルといった大掛かりなものはなく、ただ、数枚のタブレット端末と、一本の『灰色のインジェクター』の精巧なレプリカが収められていた。

「残念ながら、貴方をカプセルに寝かせて光を浴びせるような魔法ではありません。我々が提供するのは、ガン細胞を選択的に識別し、物理的に破壊・除去するナノマシン製剤……『注射器』ですよ。メドベッドではありません。

しかし……確実に治る。これは保証いたします」

使者はタブレットを操作し、アメリカ国内ですでにこの治療を受けた5名の超富裕層——メディア王ヴァンダービルトやシリコンバレーの巨大テック企業創業者たち——の、治療前後の完全な臨床データを提示した。

絶望的な末期ガンが、たった数十分の投与で跡形もなく消滅している証拠の数々。

ウィンチェスター卿は、震える手でタブレットを受け取り、食い入るようにそのデータを見つめた。

彼の持つ医学的知識と、長年培ってきた情報の真贋を見抜く目が、これが捏造されたデータではないことを告げていた。

これは本物だ。アメリカのトップエリートたちは、すでにこの「奇跡」を享受し、死の淵から生還しているのだ。

「……信じられん。だが、これが事実だと言うのなら……」

卿の目に、抗いがたい生への執着が燃え上がった。

誇り高きイギリス貴族のプライドも、この圧倒的なテクノロジーの前では無力だった。

「いくらだ。いくら出せば、私をその日本という国に連れて行ってくれるのだ?」

卿は身を乗り出し、使者の腕を掴まんばかりの勢いで問い詰めた。

「アメリカの富裕層と同じか? 5000万ドルから受け付けているという話は、私の情報網にも入っている。

……そんな 端金(はしたがね) で良いのか? 私の命が5000万ドルで買えるなら、今すぐ小切手を切ろう。いや、資産管理会社に連絡して、倍の1億ドルでも即座に支払ってやる。

ぜひお願いしたい!」

5000万ドル。日本円にして約50億円。

一般人には天文学的な数字だが、ヨーロッパのエネルギーインフラを牛耳る卿にとっては、文字通りポケットマネーの範疇であった。

だが、使者はその申し出に頷くことはなかった。

代わりに、彼の目は爬虫類のように冷たく細められた。

「卿。……お言葉ですが、我々は貴方に『アメリカの富裕層と同じ条件』を提示しに来たわけではありません」

「……何?」

「5000万ドルという治療費は、あくまで『基本料金』に過ぎません。

我々アメリカのディープステートが、ヨーロッパのVIPである貴方たちにこの治療を仲介し、日本の極秘施設へのアクセス権を手配する。……その『見返り』は、金銭だけでは足りないのですよ」

使者は、タブレットの画面を切り替え、一枚の分厚い『誓約書』のPDFを表示した。

「条件が変わります。

貴方がこの治療を受け、健康な肉体を取り戻した暁には……貴方が持つ政治的、経済的な全影響力を行使して、『アメリカ合衆国の政策に全面的に賛同し、従うこと』。

これが、我々が提示する絶対条件です」

シン……と、寝室の空気が完全に凍りついた。

ウィンチェスター卿は、絶句して使者を見つめた。

「……私に、アメリカの犬になれと言うのか?」

「言葉を選ばずに言えば、そういうことになりますね」

使者は平然と答えた。

「現在、EU議会では、我々アメリカのテック企業に対する独占禁止法の適用や、過度な環境規制、あるいは日本が行っている深海レアメタル開発に対する『環境保護を名目とした非難決議』の準備が進められています。

卿には、貴方の持つ強力なロビー網を使って、それらの反米的、反日本的な動きを全て『潰して』いただきたい。

そして、NATOの防衛費増額、ロシアへの制裁維持の枠組みの再構築など……我々が提示する外交アジェンダに、無条件で票を投じる『忠実な駒』となっていただく」

それは、誇り高きヨーロッパの貴族に対する、究極の屈辱であった。

カネだけではない。自らの政治的信念、国家の主権、そして一族の誇りの全てを、アメリカの影の政府に売り渡せと言っているのだ。

「ふざけるな……!」

ウィンチェスター卿は、酸素マスク越しに激しく咳き込みながら、怒りに震える声で叫んだ。

「大英帝国の貴族が、貴様らのような新大陸の成金どもに魂を売ると思っているのか!

私の誇りは、5000万ドルやそこらで買えるものではない!

帰れ! 今すぐこの部屋から出て行け!」

卿の怒号が部屋に響く。

だが、使者は微動だにせず、ただ冷酷な笑みを浮かべたまま、静かにアタッシュケースを閉じ始めた。

「……承知いたしました。卿の誇り高き決断を尊重します。

では、私はこれで失礼します。

……どうぞ、その素晴らしい『誇り』と共に、残り数週間の苦痛に満ちた人生を全うなさってください。モルヒネの量が増え、やがて意識が混濁し、ご自身の尊厳が失われていく過程を、ご家族に見守られながら」

使者が踵を返し、扉へと向かって歩き出した。

一歩、二歩。

その足音が、卿の耳には死神のカウントダウンのように響いた。

誇り。信念。大英帝国の威信。

そんなものが、今、自分の内臓を食い破ろうとしているガン細胞の激痛を和らげてくれるだろうか。

死の淵に立つ者にとって、イデオロギーなど何の意味も持たない。

生きたい。一日でも長く、痛みのない体を、そして権力を握りしめていたい。

「……待て」

使者がドアノブに手をかけた瞬間、ベッドから掠れた、しかし必死の懇願の声が漏れた。

使者は足を止め、振り返った。

「……何か?」

「……払う。

5000万ドルでも、1億ドルでも払おう。

……誓約書にも、サインする。私が持つすべての票と影響力を、アメリカのために使おう。

だから……私を助けてくれ……!」

ウィンチェスター卿は、シーツを固く握りしめ、屈辱と絶望の涙を流しながら、悪魔との契約に同意した。

ヨーロッパの誇りが、ナノマシンというテクノロジーと、死の恐怖の前に完全に膝を屈した瞬間であった。

「賢明なご判断です、卿」

使者は満足げに頷き、再びベッドの傍らへと戻ってきた。

「では、ただちに手配しておきますよ。極東の島国への、極秘のフライトを」

このような光景は、ロンドンだけでなく、パリ、ベルリン、ローマ、そしてジュネーブの超高級邸宅や古城の奥深くで、次々と繰り広げられていた。

ヨーロッパの政界、財界、王侯貴族の中で、不治の病に冒された最高権力者たちの元へ、タイタン・グループの使者が音もなく訪れる。

彼らは一様に、最初はアメリカの傲慢な要求に激怒し、自らの誇りを盾に抵抗しようとした。

しかし、いかなる強固な意志も、「数十分でガンが完全に消滅する」という奇跡の臨床データと、迫り来る「死」という絶対的な恐怖の前には、まるで陽の光に晒された薄氷のように溶け去っていった。

どんな過酷な条件であっても、死の淵にいる人間はそれを求めるのだ。

こうして、ヨーロッパのVIPたちが、表向きは「極東への静養」や「極秘のビジネス会談」と称して、次々とプライベートジェットで日本へと飛び立った。

日本の横田基地を経由し、彼らが運び込まれたのは、自衛隊中央病院の地下深くにある特別医療ブロックである。

彼らはそこで、日本の医師団による厳格な適性検査を受け、そのデータは次元の彼方、テラ・ノヴァの工藤創一へと送られる。

テラ・ノヴァの司令室。

創一は、地球から送られてくるヨーロッパのVIPたちのガン細胞の3Dデータを眺めながら、片手間にキーボードを叩いていた。

「んー、今度の患者は肝臓ガンの多発転移か。ちょっと複雑だな。

まあでも、マーカーの設定を少し弄れば、正常な肝細胞を残したまま腫瘍だけ削り取れるだろ。

……よし、プログラミング完了。イヴ、データを地球に送り返しといて。

あー、早くこの作業も完全自動化したいなぁ。ロケットの打ち上げ準備で忙しいのに」

世界の権力者たちの命運を握る「奇跡の治療」のプログラムは、異星の工場長にとっては、作業の合間にこなす「ちょっとした面倒なタスク」に過ぎなかった。

プログラミングされたナノマシン・データを受信した地球の医療ブロックでは、即座に『消しゴム君』のインジェクターが充填され、VIPたちの静脈へと投与された。

「……信じられない」

フランスの巨大エネルギー企業のCEOは、投与から三十分後、自らの肺を覆っていた巨大な腫瘍が完全に消滅したスキャン画像を見て、呆然と呟いた。

激痛は消え、呼吸は深く、力強い。

まるで、自分の体が数十年前の若い頃に戻ったかのような活力すら感じられた。

「これで終わりか」

彼は、執刀した日本の医師に、夢でも見ているかのように尋ねた。

「はい。完全に治癒されていますよ。

腫瘍組織はすべて分解され、老廃物として体外へ排出されます。再発の心配も、現在のところ確認されておりません」

医師の淡々とした、しかし絶対的な自信に満ちた診断。

「おお神よ……!

テクノロジーの進歩だな……!」

CEOはベッドの上で十字を切り、歓喜の涙を流した。

彼もまた、他のVIPたちと同様に、日本という国の底知れぬ技術力と、それを管理するアメリカの影の政府に対して、絶対的な畏怖と忠誠を誓うことになったのだ。

彼らは完治した健康な肉体を持ち、極秘裏にヨーロッパへと帰還していった。

その表情には、死の淵から生還した歓喜と共に、自らの魂と国家の誇りをアメリカ(そしてその背後にいる日本)に握られてしまったことへの、複雑で重苦しい感情が同居していた。

そして、この「極秘の来日と奇跡の生還」のラッシュは、やがてヨーロッパの特権階級の間に、ある強烈な『噂』を生み出すこととなった。

パリのオペラ座のVIPボックス。

ロンドンの排他的な紳士クラブ。

スイスのダボス会議の裏で行われる、非公式なカクテルパーティー。

シャンパングラスを傾けながら、彼らは声を潜めて囁き合った。

「……見たか、ウィンチェスター卿の姿を。先月まで『年を越せない』と言われ、ホスピスに入っていたはずだろう? それが昨日のレセプションでは、葉巻を吸いながら二時間も立ったまま談笑していたぞ」

「卿だけではない。フランスのメディア王も、ドイツの自動車メーカーの元会長もだ。彼らは皆、絶望的なガンを宣告されていたはずだ。それが突然、数日の『日本への極秘渡航』から帰ってきた途端、ピンピンしている」

噂は、尾ひれをつけて、しかし核心を突いた形で社交界を駆け巡った。

「アメリカで騒がれていた『メドベッド』か?」

「いや、私の情報源によれば、あのオカルトじみたカプセルではないらしい。若返るわけではないそうだ。……だが、ガン治療に関して、決定的な、そして信じがたいほどのブレイクスルーが起きたのは間違いない」

ある貴族が、周囲を警戒しながら囁く。

「固形ガンなら、注射一本、数十分で完全に治せる時代が来たらしい!

日本の地下施設に、その技術を独占している機関があるのだと」

「素晴らしい! ならば我々も、万が一の時はそこへ行けばいいのだな!」

「甘いな」

情報通の金融家が、冷水を浴びせるように言った。

「その治療は、金さえあれば受けられるというものではない。

……もちろん、治療費は最低でも5000万ドルのキャッシュが必要らしいがね。

だがそれ以上に恐ろしいのは、その治療を受けるための『条件』だ」

金融家は、グラスの縁を指でなぞりながら、冷酷な現実を語った。

「そのチケットを手配しているのは、アメリカのタイタン・グループだ。

彼らは治療と引き換えに、我々ヨーロッパの権力者たちに対し、ワシントンの政策への『絶対的な忠誠』を要求してくる。

EUの独自路線を捨て、アメリカの覇権に追従するという血の誓約書にサインしなければ、あの薬は打ってもらえないのだ」

「……なんだと?

我々に、アメリカの属国になれと言うのか?」

「そうだ。

でもそれは超高額治療らしい5000万ドルと、アメリカへの忠誠が試されるらしい!

……というヤツだ。

死を前にして、貴方はその条件を突っぱねる自信があるかね?」

その問いに、反発しようとした貴族たちも、重い沈黙に陥った。

命と誇り。究極の選択。

だが、すでに彼らの仲間である重鎮たちが、次々と誇りを捨てて命を選んでいるという現実が、彼らの心を激しく揺さぶっていた。

東京、首相官邸地下5階『特別情報分析室』。

日下部参事官は、ヨーロッパの監視ネットワーク(グラス・アイ)から送られてくる社交界の音声ログをモニタリングしながら、薄く冷酷な笑みを浮かべていた。

モニターの向こうでは、アメリカのセキュア・ルームにいるノアとエレノアもまた、満足げな表情で報告を聞いている。

『……完璧ですね、日下部参事官』

ノアが、優雅に拍手をした。

『ヨーロッパの有力者たちは、今や完全に我々の仕掛けた「恐怖と希望」のゲームの虜になっています。

彼らがアメリカの政策に逆らおうとすれば、「では、貴方や貴方のご家族がガンになった時、誰が助けるのでしょうか?」と囁くだけで、彼らは青ざめて法案に賛成票を投じるでしょう。

……ヨーロッパは落ちました。これで西側諸国は、完全に我々日米のコントロール下に置かれたと言っていい』

「ええ。我々の『防波堤』は、これで盤石となりました」

日下部は、手元のタブレットで「対欧州VIP医療プロトコル」の進行状況に完了のチェックマークを入れた。

「たとえ将来、日本のオーバーテクノロジーの存在が世界に露見したとしても、ヨーロッパが声高に日本を非難することはもうありません。彼らの首根っこは、我々の『5億円の消しゴム』がしっかりと握っているのですから」

日下部は、深い息を吐き出した。

世界は、完全に狂ってしまった。

一人の天才が作った技術が、大国を屈服させ、貴族の誇りをへし折り、新たな冷酷な 秩序(ルール) を構築している。

(……これで、地球側の足場は完全に固まった。

あとは、あの男が宇宙で何をやらかそうと、我々が政治力で揉み消せるはずだ)

日下部は、遥か次元の彼方、星の海へと向かおうとしている工藤創一の姿を想像しながら、いつものように胃薬を水で流し込んだ。

ヨーロッパの落日は、日本の影の覇権の、新たな夜明けを告げていた。