軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第90話 赤い監視網と野蛮な熊の狩猟

中華人民共和国、北京。

厚いスモッグに覆われた空の下、かつての紫禁城の西に広がる政治の最高中枢、中南海。

その地下深くに穿たれた国家安全部(MSS)の極秘指令室『深淵の間』では、この日、冷酷な嘲笑が静かに、しかし確かに響き渡っていた。

分厚い鉛とコンクリートの壁に守られた密室の壁面を覆い尽くす巨大なスクリーンには、日本から提供された——正確には「中継」されている——『位相空間レーダー 網(グラス・アイ) 』の映像が映し出されている。

国家安全部長の 張(チャン) は、革張りの椅子に深く腰掛け、手元の葉巻を燻らせながら、モニターの中に蠢く「光点」たちを、まるで観察ケースの中の昆虫を眺めるような目で見下ろしていた。

その隣には、国務院総理の 李(リー) と、人民解放軍を代表する 劉(リュウ) 将軍が腕を組んで並んでいる。

「……見事なほどの周回遅れだな。哀れみすら覚えるよ」

張部長が、紫煙を吐き出しながら冷ややかに呟いた。

彼らの視線の先、スクリーンに映し出されているのは、北京市内にある中級ホテルの三階、とある一室のリアルタイム透視映像だった。

ワイヤーフレームで構成された半透明の部屋の中で、三人の白人男性が身を寄せ合い、何やら深刻な面持ちでテーブルの上の紙にペンを走らせている。

彼らの骨格、筋肉の熱量、そして微細な心拍数の変化までが、デジタルデータとして克明に表示されていた。

「現在、北京および上海、広州などの主要都市において、ロシア国籍の不審な入国者が急増しています。観光客やビジネスマンを装ってはいますが、歩き方や視線の配り方、そして何より我々の『眼』が捉えた彼らの通信手法からして、SVR(ロシア対外情報庁)およびGRU(情報総局)の工作員であることは疑いようがありません」

張部長は、手元のコンソールを操作して、ホテルの部屋の音声フィルターを最大まで引き上げた。

空気の微細な振動を解析し、再構築された音声が、スピーカーからクリアに流れ出す。

『……盗聴器の反応はゼロだ。電波も遮断されている。ここなら安全だ』

『よし。 本国(モスクワ) からの指令通り、ターゲットは中国の医療研究機関、および党幹部の健康管理を担う301病院の関係者だ。日本から持ち込まれたという「未知のナノマシン製剤」の痕跡を、何としてでも洗い出す』

『日本での作戦は完全に失敗したが、中国なら付け入る隙はいくらでもある。連中のセキュリティは穴だらけだ。金か女で研究員を釣り上げろ。……日本の「魔法の薬」を、ロシアの手に取り戻すのだ』

ロシア語で交わされるその密談を聞き、指令室にいた中国の首脳陣は、誰からともなく乾いた笑い声を漏らした。

「ハハハ……! 『ここなら安全だ』だと? 『中国なら付け入る隙はいくらでもある』だと?」

劉将軍が、怒りを通り越して滑稽なものを見る目で大笑いした。

「時代錯誤も甚だしい! 彼らは自分たちが、我々から完全に丸見えの『硝子のショーケース』の中でコソコソと筆談をしていることに、微塵も気づいていない!

かつて冷戦時代にはKGBとして世界を震え上がらせたロシアの諜報網も、今やここまで地に落ちたか。アナログな防諜技術など、この日本のオーバーテクノロジーの前では裸で踊っているのと同じだというのに!」

「全くだ」

李総理もまた、冷酷な笑みを浮かべて頷いた。

「アメリカ国内で彼らのスリーパー・セルが一網打尽にされた一件で、彼らは『アメリカには見えない監視網がある』と気づいたのだろう。

そして、日本で彼らの最強部隊であるザスローンが無傷で捕縛されたことで、『日本は鉄壁だ』と悟った。

……その結果が、これだ。

『日本やアメリカは無理でも、中国ならどうにかなるだろう』と、我々を舐め腐ってノコノコと侵入してきたわけだ」

李総理の瞳に、ジワリとドス黒い怒りの炎が灯った。

「我々が日本から『薬』を分けてもらうために、どれほどの屈辱を耐え、どれほどの血を流して外交交渉を行っているかを知りもしないで。

自分たちだけ蚊帳の外に置かれた腹いせに、我々の庭を荒らし、我々が手にするはずの『生き血』を掠め取ろうというのか。

……無礼千万。身の程知らずにも程がある」

中国指導部は現在、日本政府に対して極端なほどの「宥和政策」を取っている。

尖閣諸島の譲渡に始まり、台湾問題の平和的解決(実質的な独立容認)すらカードとして切り出そうとするほど、彼らは日本の機嫌を取り、「医療用キット」の追加供与を引き出すことに全精力を注いでいる。

世界から見れば、中国は日本に首根っこを掴まれ、大人しく従属しているように見えるかもしれない。

だからこそ、ロシアは「中国なら隙がある」「中国を脅せば情報を吐く」と勘違いしたのだ。

「日本に優しく、そして下手に出ているからといって……我々が牙を抜かれたわけではないということを、あの野蛮な北の熊どもに教えてやる必要があるな」

張部長が葉巻を灰皿に押し付け、獰猛な声で言った。

「総理。いかがなさいますか? このまま泳がせて、彼らの協力者(裏切り者)を炙り出しますか? それとも……」

「いや。泳がせる必要などない」

李総理は即座に断言した。

「党の長老たちを招集しろ。彼らにもこの『滑稽なネズミども』の姿を見せてやるのだ。

我々の命の綱である『薬』を狙う不届き者がいるとなれば、長老たちが黙っているはずがない。

……この件は、徹底的に、かつ派手に叩き潰す。我々の威信を世界に示すための、良い生贄になってもらおう」

数時間後。

『深淵の間』の円卓には、現役の指導部メンバーに加え、新たに党の中枢で権力を握り始めた「新世代の長老たち」が集結していた。

彼らは、凄惨な権力闘争を勝ち抜いた猛者たちであり、同時に「次の薬」の順番を待つ、生への執着の塊のような老人たちである。

スクリーンに映し出されたロシアの工作員たちの動向——彼らが中国の医療研究機関を標的にし、日本のナノマシン技術の痕跡を探ろうとしているという報告を受けた長老たちは、一様に顔を真っ赤にして激怒した。

「おのれ、ロシアの毛唐どもめ!!!」

車椅子に乗った長老の一人が、杖で床を激しく叩きつけた。

「我々が日本に対して、どれほどの誠意を見せ、どれほどの犠牲を払ってあの『神の薬』を手に入れようとしているか! それを、横から掠め取ろうなどと、言語道断! 万死に値する!!」

「そうだ! もし奴らの下劣なスパイ活動のせいで、日本政府の機嫌を損ね、『中国の管理体制は甘い。薬を渡せばロシアに情報が漏れる』などと判断されて、薬の提供が白紙にでもなったらどう責任を取るつもりだ!!」

長老たちの怒りは、国家の主権侵害に対する義憤ではない。

「自分たちが手に入れるはずの不老不死の薬が、ロシアのせいで遠のくかもしれない」という、極めて個人的で利己的な恐怖に起因していた。

彼らにとって、日本の技術はすでに自分たちの「所有物(未来の)」であり、それを狙うロシアは単なる泥棒ではなく、自分たちの「寿命」を脅かす不倶戴天の敵なのだ。

「李総理! 劉将軍!」

別の長老が、血走った目で現役組を睨みつけた。

「こんな舐めた真似をされて、黙っているつもりか!?

日本には媚びを売らねばならんのは仕方がない。だが、没落したロシアごときに我が国がコケにされる謂れはない!

徹底的に叩き潰せ! 我が国の恐ろしさを、彼らの骨の髄まで刻み込んでやれ!!」

「ご安心ください、長老の皆様」

李総理は冷徹な笑みを浮かべ、深く頷いた。

「我々も全く同意見です。

ロシアは、アメリカで痛い目を見たにも関わらず、我々中国を『与し易い相手』と見誤りました。その認識の甘さを、彼らの血で贖わせましょう」

李総理は張部長に向き直った。

「張部長。監視システム『グラス・アイ』をフル活用せよ。

中国国内に潜伏する全てのロシア工作員、彼らに協力しようとした売国奴、そして資金洗浄のルート。その全てを同時に、そして完全に破壊するのだ」

「はっ! すでにターゲットのリスト化は完了しております」

張部長がコンソールを操作すると、中国全土の地図上に、数百に上る赤い光点がプロットされた。

ホテルの一室、路地裏のバー、港の倉庫、そして郊外のアジト。

彼らの居場所は、一寸の狂いもなく特定されている。

「作戦名『紅い 網(レッド・ネット) 』。

今夜零時を以て、全拠点で同時に実力行使を開始します。

アメリカが行ったような『逮捕』という生ぬるい手段は取りません。抵抗する者はその場で射殺、降伏する者も拷問施設へ直行させ、彼らが知るすべての情報を吐き出させます。

……文字通り、一匹のネズミも生かしては帰しません」

「よろしい。やれ」

李総理の冷酷な決断が下された。

だが、作戦を発動する前に、総理はもう一つの重要な外交手続きを忘れてはいなかった。

「……その前に。アメリカと日本に、事前の『通告』を入れておく必要がある」

李総理は外務担当の幹部に指示を出した。

「ワシントンのホワイトハウス、そして東京の首相官邸にホットラインを繋げ。

これから我々が行うことは、極めて大規模な防諜作戦であり、少なからず国際社会で騒ぎになるだろう。だが、それを事前に 同盟国(パトロン) に知らせておくことで、我々の『能力』と『忠誠』をアピールするのだ」

「承知いたしました。どのような文面でお伝えしますか?」

「こう伝えろ」

李総理は、傲岸さと従順さを巧みに混ぜ合わせた、絶妙な外交辞令を紡いだ。

「『我が国の庭に、不作法にも迷い込んだ野蛮な熊の群れを発見した。

彼らは、貴国(日本)が我々に示してくれた偉大なる恩恵を嗅ぎ回り、その秘密を盗もうと企てている。

我々中国は、貴国の技術と機密を命に代えても守り抜く覚悟である。

ゆえに今夜、我が国の手でこの害虫どもを徹底的に 駆除(おそうじ) する。

……少々騒がしくなるかもしれないが、一切の心配は無用だ。我々が完璧に処理する』と」

それは、日本に対する強烈な忠誠のアピールであった。

「我々は貴方たちのシステムを完璧に使いこなし、貴方たちの秘密を守るための強力な 盾(パートナー) として機能していますよ」というメッセージ。

同時にアメリカに対しては、「中国もまた、お前たちと同じ『神の眼』を使いこなすプレイヤーである。見くびるな」という牽制の意味も含まれている。

「ふん。日下部という日本の官僚も、これを聞けば我々の『誠意』を少しは評価するだろう。

……そして、そろそろ次の 薬(ごほうび) を寄越す算段をつけてもらわねばな」

李総理はニヤリと笑った。

その日の深夜。

中国全土において、音なき嵐が吹き荒れた。

北京の高級ホテル。

身分を偽装して滞在していたSVRのベテラン工作員が、窓の外の異変に気づく間もなく、突如として爆破されたドアからなだれ込んできた武装警察(武警)の特殊部隊によって、ベッドの上でハチの巣にされた。

上海の港湾施設。

密輸ルートの確保に動いていたGRUの部隊が、待ち合わせ場所の倉庫に足を踏み入れた瞬間、四方八方から強烈なサーチライトで照らされ、装甲車からの一斉掃射を受けた。彼らは反撃すら許されず、ただ血の海に沈んでいった。

広州の地下カジノ。

現地の協力者と接触していたロシアの連絡員が、グラスを口に運んだ直後に青酸系の毒で泡を吹いて倒れ、周囲の客(全員がMSSの潜入要員だった)によってゴミのように引きずり出された。

逃げ場はなかった。

彼らがどれほどアナログな暗号を使い、どれほど巧妙に変装しようとも。

上空の「見えない眼」は、彼らの心拍数、体温、そして筋肉の緊張具合から、彼らが「何者か」を完璧に判別していた。

アメリカが自国内で行った「大掃除」が、法治国家の建前を残した「冷徹な逮捕劇」であったとすれば。

中国が行った「紅い網」作戦は、一切の容赦を持たない「残虐な殺戮と粛清」であった。

ロシアが威信をかけて中国に送り込んだ数百名規模の精鋭工作員たちは、一夜にして文字通り「消滅」した。

彼らが集めた日本の技術に関する断片的なデータも、本国に送信される前にすべて押収され、あるいは破壊された。

翌朝。

日本の首相官邸地下5階、『特別情報分析室』。

日下部参事官は、北京からの「事後報告」のデータと、昨夜の中国全土での惨劇のログをモニターで確認しながら、いつものように胃薬を水で流し込んでいた。

「……やれやれ。派手にやりましたね、中国も」

日下部は、画面に映る無数の死体や血まみれの現場写真を見て、小さく溜め息をついた。

「事前の通告通り、『害虫駆除』を完璧に完遂したというわけですか。

彼らの治安維持機関の行動力と、人権を微塵も考慮しない思い切りの良さは、ある意味で感服しますよ」

隣に立つ鬼塚ゲンが、腕を組みながら冷ややかに言った。

「彼らにとっては、我が国への最高のアピールですからね。

『どうです日本さん、我々はロシアの工作員をこんなに綺麗に片付けましたよ。だから早く薬をください』という、狂気に満ちたラブコールですよ、これは」

「ええ、分かっています」

日下部はタブレットをオフにした。

「ロシアはこれで、完全に手も足も出なくなりました。

アメリカでスパイ網を潰され、中国では物理的に皆殺しにされた。

彼らはもはや、日本の『秘密』に触れることすら不可能だと悟ったはずです。

ボグダノフ大統領は今頃、クレムリンで絶望のあまりウォッカに溺れているでしょうね」

世界を裏から操る「硝子の迷宮」のシステムは、中国という狂犬を番犬として使いこなすことに成功したのだ。

日本は自らの手を汚すことなく、アメリカと中国にロシアを叩かせ、世界のパワーバランスを完全に固定化した。

「……ですが、日下部さん」

鬼塚が、鋭い視線を日下部に向けた。

「中国のあの狂気じみた『忠誠心』も、いつまで続くか分かりませんよ。

彼らは薬欲しさに今は尻尾を振っていますが、もし彼らが『いくら待っても次の薬が出てこない』と悟った時。

あるいは、あの監視システムを使って、彼ら自身が『日本の弱点』を探り当てた時は……。

その時は、あの巨大な龍は躊躇なく日本に牙を剥くでしょう」

「分かっています」

日下部は静かに頷いた。

「我々は、猛獣の檻の中に生肉を放り込みながら、彼らが満腹で大人しくしている間に、檻そのものを強化しているようなものですからね。

綱渡りの日々は、まだまだ続きます」

日下部は、スクリーンの端に小さく表示されているテラ・ノヴァの映像を見上げた。

そこでは、工藤創一が巨大なロケットの横で、何やら新しいモジュールを組み込んでいる姿が映っていた。

「……頼みますよ、工藤さん。

我々がこの狂った世界を管理し続けるためには、貴方の作る圧倒的なオーバーテクノロジーが、常に必要なんですから」

日下部の呟きは、防音室の壁に吸い込まれて消えた。

赤い龍が返り血に塗れて狂喜の声を上げる中、極東の島国は冷徹に次のカードを切る準備を進めていた。

世界の運命は、すでに地球の重力を振り切り、遥かなる星の海へと飛び立とうとする、一発のロケットに託されていたのである。