軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第89話 凍土の焦燥と老龍の奇跡

ロシア連邦、モスクワ。

空を分厚く覆う鉛色の雲から、氷の刃のような細かな雪が絶え間なく舞い落ちている。赤の広場を白く染め上げるその雪は、かつてナポレオンやヒトラーの野望を打ち砕いた「冬将軍」の到来を告げるものであったが、今のロシアにとっては、自らの首を絞める経済制裁と閉塞感の象徴でしかなかった。

華麗なタマネギ坊主の屋根を持つ聖ワシリイ大聖堂の向こう側、クレムリン宮殿。その地下深くに存在する、核戦争すら想定して構築された厚さ数メートルのコンクリートと鉛の壁に守られた深層バンカー。

世界で最も安全な密室であるはずのこの空間に、今、形容しがたいほどの底知れぬ恐怖と、息が詰まるような沈黙が充満していた。

円卓の最奥に座る男——ウラジーミル・ボグダノフ大統領は、身じろぎ一つせずに前を見据えていた。

その氷のように冷たい、薄いブルーの瞳には、かつて世界を二分する大国の指導者として君臨した「ツァーリ(皇帝)」の余裕はない。あるのは、理解不能な事態に直面した人間の、剥き出しの焦燥と屈辱であった。

円卓を囲むのは、ロシアの国家権力を支える最側近たちだ。ロシア連邦保安庁(FSB)長官のアレクセイ、そして参謀本部情報総局(GRU)長官のミハイル。彼らの顔色は一様に、死人のように青ざめていた。

「……それで?」

ボグダノフの口から漏れた声は、地の底から響くような、低く掠れたものだった。

その短い問いかけに対し、GRU長官のミハイルが、まるで濡れた重い布を持ち上げるかのような動作で、震える手で紙の報告書を差し出した。このバンカー内では、ハッキングを恐れてあらゆる電子機器の使用が禁じられている。タイプライターで打たれたアナログな書類だけが、彼らに残された唯一の「安全な」情報伝達手段だった。

「……大統領閣下。南鳥島沖、日本の深海採掘船団『かいどう』に対するシージャック作戦ですが……失敗しました」

ミハイルの声は、絞り出すようなものだった。

環境保護団体『ブルー・オーシャン』を隠れ蓑にし、ロシアの非公然工作員たちを送り込んだ作戦。日本の「深海採掘」の嘘を暴き、世界世論を味方につけて日本の資源独占を叩き潰すという一縷の望みを託した奇襲だった。

「失敗した、だと?」

「はい。目標の船体に取り付くことまでは成功しました。我々の部隊は、日本の海上保安庁の巡視船を陽動で引き離し、レーダーに映らないステルスボートで完璧に接近したはずでした。ですが……」

ミハイルは報告書の文字から目を背けるようにして言った。

「彼らが甲板に上がった直後、待ち構えていたかのように強烈な 探照灯(サーチライト) で照らされ、完全な包囲下に置かれました。……相手は、日本の公安警察SAT、そして正体不明の傭兵部隊。さらに……」

「さらに、何だ?」

「あの『26式』です。東富士演習場で公開された、日本の新型多目的装甲戦闘服。あれが、絶海の孤島であるはずの採掘船の甲板に、三機も配備されていたのです」

バンカー内に、ごくりと生唾を飲み込む音が響いた。

26式。戦車の砲撃すら無効化し、歩兵の火力を文字通り圧倒する「歩く戦車」。それが、なぜ民間の採掘船に配備されているのか。

「我が方の部隊は自動小銃と対戦車兵器で応戦しましたが、全く歯が立たず。文字通り、赤子をひねるように一方的に蹂躙されました。……そして最も恐ろしいのは、部隊のリーダーが自爆特攻を図った後のことです」

「自爆したのか?」

「はい。ですが、死ねませんでした」

ミハイルは、回収された断片的な通信ログと、遠巻きに監視していたバックアップ部隊からの報告を語った。

「日本の部隊は、瀕死の重傷を負ったリーダーの首筋に、何らかの薬物を投与したそうです。すると、爆発で吹き飛んだはずの肉体が瞬時に再生し、彼は無傷の状態で……しかし精神的に完全に発狂した状態で、生け捕りにされました」

「……」

ボグダノフは目を閉じた。

シリアでアメリカ軍が見せた「不死身の兵士」の噂。あれが嘘偽りない事実であり、日本がその「奇跡の薬」を自国の特殊部隊にも惜しみなく投与していることの証明であった。

死ぬことすら許されず、生きたまま捕らえられる恐怖。工作員にとって、これ以上の地獄はない。

「……やはり、見えていたか」

ボグダノフは、低く唸った。

「完璧な隠密行動だったのだろう? 通信も暗号化し、夜闇に紛れ、ダミーの漁船まで使って陽動をかけた。それなのに、甲板に上がった瞬間に包囲されていた。……偶然ではない。日本は、我々の部隊が出港した瞬間から、その行動を全て『監視』していたのだ」

「……その通りかと存じます」

FSB長官のアレクセイが、青ざめた顔で同意した。

「アメリカ国内で我々のスリーパー・セルが一網打尽にされた時と同じです。日本は、あらゆる壁を透視し、空間そのものを把握する恐るべき監視システムを稼働させている。我々は、透明なガラスの檻の中で、見えない巨人に監視されながらコソコソと動いているに過ぎないのです」

絶望的な事実だった。

どれだけ緻密な作戦を練ろうとも、相手が「未来予知」に近いレベルでこちらの動きを把握しているのなら、奇襲など成り立ちようがない。

「……まあいい」

ボグダノフは、ゆっくりと目を開け、冷酷な光を瞳に宿した。

「所詮は捨て駒だ。あの部隊が正規のロシア軍だという証拠はどこにもない。環境テロリストの暴走として切り捨てるだけだ。……最初から、失敗する可能性も十分に計算に入っていた。あわよくば日本の秘密の尻尾を掴めれば儲けもの、程度の作戦だ」

彼は自尊心を守るために、強がってみせた。

だが、その手が小刻みに震えているのを、側近たちは見逃さなかった。

大国ロシアの指導者として、これほど無力感を味わわされるのは、冷戦時代のアメリカとの対立においてすら無かったことだ。

「それで? 日本政府からの抗議はどうなっている?」

ボグダノフは外務省の担当官に視線を向けた。

自国の船がシージャックされそうになったのだ。当然、凄まじい抗議の声明が飛んできているはずだ。それをどうはぐらかし、どう外交的な泥試合に持ち込むか。それが次のステップだ。

「……それが、大統領」

担当官は、困惑しきった顔で答えた。

「抗議は、ありません」

「……何?」

「日本政府からの公式な抗議、非公式なルートでの警告、大使館への呼び出し……そのいずれも、一切ありません」

担当官は手元のメモを確認しながら言った。

「日本政府は今朝、内閣官房から短いプレスリリースを出しただけです。『過激な環境保護団体を名乗る武装グループがシージャックを試みたが、海上保安庁の特殊部隊によって一人の死傷者も出さずに完全制圧された』と。……それだけです。ロシアの『ロ』の字も出てきませんし、背後関係を追及する素振りすら見せません」

バンカー内が、奇妙な静寂に包まれた。

「抗議が、ない……?」

ボグダノフは眉をひそめた。

自国の主権が脅かされたのだ。普通なら、激怒して国際社会に訴え出るのが常識だ。それを、まるで「羽虫が飛んできたから叩き落とした」程度にしか扱っていない。

「完全に相手にされていません」

ミハイルが、屈辱に唇を噛み締めながら言った。

「日本にとって、我々の決死の特殊作戦など、外交問題にする価値すら無い『些事』だということです。彼らは我々が背後にいることを100%知っているはずです。その上で、『お前たちの幼稚な作戦など、いつでも完璧に潰せる。だから、わざわざ抗議してやる手間すら惜しい』と……そう言っているのです」

ダンッ!!

ボグダノフが、拳でテーブルを激しく殴りつけた。

分厚いオーク材の机が軋み、ティーカップが跳ねる。

「舐められたものだな……!!」

皇帝の怒号が、地下バンカーに轟いた。

抗議されないことが、これほどまでに屈辱的だとは。

かつては、ロシアが少し軍隊を動かすだけで、日本は怯え、アメリカの後ろに隠れて遺憾の意を表明していた。それが今や、ロシアの最強の特殊部隊を無傷で制圧し、その上で「無視」を決め込んでいる。

眼中にない。脅威とすら見なされていない。

これほどの屈辱があるだろうか。

「だが……どうすればいいのだ……!」

ボグダノフは、頭を抱えるようにして呻いた。

「テクノロジーの格差が、絶望的なまでに広がっている!

弾丸を弾く鎧、死を無効化する薬、全てを見通す眼。さらには次世代の核エネルギーまで開発しているという。……これでは、核のボタンを押すことすら意味を成さん。我々のミサイルが発射サイロを出る前に、日本のレーザーか何かに撃ち落とされるのがオチだ!」

ボグダノフは、ロシアという大国が、完全に「詰み」の状態にあることを理解していた。

軍事力も、諜報力も、経済力も、全てが日本のオーバーテクノロジーの前に無力化されている。

唯一の希望は、日本にすり寄り、その技術のおこぼれに預かることだが、日本はロシアを交渉のテーブルにすら着かせてくれない。

「我々は、このまま歴史の敗北者として、極東の島国の顔色を窺いながら細々と生きていくしかないのか……!」

重苦しい絶望が、バンカーを満たしていた。

だがその時、FSB長官のアレクセイが、もう一つの書類の束を恐る恐る差し出した。

「……大統領。絶望するのはまだ早いかもしれません」

「何だ?」

「日本からの情報は完全に遮断されていますが……もう一つ、我々が注視すべき『奇妙な情報』が入ってきました」

アレクセイは、数枚の隠し撮りされた写真をテーブルの上に広げた。

「中国です」

「中国だと?」

「はい。先日、我々のヨーロッパの諜報網が、スイスのアルプスやカリブ海のリゾート地で、ある『東洋人の老人』の姿を捉えました。……大統領もご存知の顔のはずです」

ボグダノフは写真に目を落とした。

そこには、真っ白な髪の老人が、屈強なボディガードたちを従え、あるいは若いモデルたちをはべらせて、豪遊している姿が写っていた。

その老人の顔には見覚えがあった。

「…… 趙(チャオ) か?」

「はい。中国共産党の最長老であり、長きにわたって裏から中国を支配してきた大物、趙氏です」

「馬鹿な。彼は重度の心不全と多臓器不全で、もう何年も車椅子と酸素マスクが手放せない状態だったはずだ。明日の命も知れないと、我々の情報部も報告していたぞ?」

ボグダノフは、写真を信じられないという目で見つめた。

写真の中の趙長老は、車椅子に乗っていない。それどころか、アルプスの急斜面をプロ顔負けのフォームでスキーで滑降し、ナイトクラブでシャンパンの瓶を片手で軽々と振り回している。その肉体は、厚いシルクのシャツの上からでも分かるほどに、若々しい筋肉で隆起していた。

「情報によれば、彼は数週間前に突如として党の全役職から『完全引退』を宣言し、中国を離れました。そして今、このように全世界を飛び回って『第二の人生』を謳歌しているのです」

「……どういうことだ?」

ボグダノフの青い瞳が、細く険しくなった。

「あの権力亡者の趙が、自ら権力を手放しただけでも信じがたいが……。この異常なまでの健康状態。重病の死に損ないが、一晩でオリンピック選手のように元気に生活しているだと?」

「はい。我が国の医療専門家にこの映像を分析させましたが、『現代の医学では絶対に不可能』との回答でした。ドーピングやステロイドの類ではありません。細胞レベルで肉体が若返っているとしか考えられないと」

その言葉を聞いた瞬間、ボグダノフの脳裏に、一つの強烈な仮説が閃いた。

「……アメリカ軍だ」

「は?」

「シリアでアメリカ軍が使っていた、あの『不死身の兵士を作る薬』。……あれと同じものか、あるいはそれ以上の効果を持つ『何か』だ」

ボグダノフは立ち上がり、会議室を早足で歩き始めた。彼の頭の中で、バラバラだった情報のピースが急速に繋がり始めていく。

「アメリカ軍の兵士は、致命傷を負っても数分で傷が塞がり、戦線に復帰した。

そして中国の重病の長老は、不治の病を克服し、全盛期の肉体を取り戻した。

……繋がっている。これは同じ技術、同じ『神の薬』の恩恵だ!」

「ですが、大統領」

ミハイルが疑問を呈する。

「アメリカがその薬を持っているのは、日本から供与されたからです。我々はそれを突き止めた。しかし、なぜ中国が? 中国は日本にとって最大の仮想敵国のはずです。日本が、わざわざ中国の長老にそんな奇跡の薬を渡すでしょうか?」

「そこだ」

ボグダノフは足を止め、振り返った。

「日本じゃなくて、中国で? どういうことだ?

……考えられる可能性は二つだ。

一つは、中国が日本から何らかの裏取引——例えば領土の割譲や莫大な利権と引き換えに、あの薬を『買き叩いた』可能性。

そしてもう一つは……」

ボグダノフは声を潜めた。

「中国が、自力でその医療技術を『開発』、あるいは『 模倣(コピー) 』することに成功した可能性だ」

「中国が、自力で……?」

「あり得る話だ。奴らは世界中の技術を盗み、リバースエンジニアリングすることにかけては天才的だ。もし彼らが、何らかのルートで日本のナノマシンのサンプルを入手し、それを解析して独自の『カンフル剤』を作り出したとしたら?」

ボグダノフの目に、獰猛な光が戻ってきた。

日本という国は、もはや厚い壁に守られた要塞であり、手出しは不可能だ。アメリカも同様にガードが固い。

だが、中国ならどうだ?

「中国の技術なら、我々にも付け入る隙がある」

ボグダノフは、テーブルの上の趙長老の写真を指で叩いた。

「もし中国が、あの薬——あるいはその類似品——を持っているのなら。我々がそれを奪う、あるいは技術協力を名目に引き出すことは、日本を相手にするよりは遥かに現実的だ」

「中国に噛みつく、ということですか?」

「そうだ」

ボグダノフは決断した。

絶望的な技術格差を埋めるためには、もはや手段を選んでいる余裕はない。

「我々はウクライナから手を引き、西側に対しては『大人しい熊』を演じている。だが、東の龍に対しては別だ。

中国は今、台湾問題や国内の権力闘争で足元が揺らいでいるという情報もある。その隙を突く」

彼はGRU長官とFSB長官に鋭い視線を向けた。

「ミハイル、アレクセイ。

ターゲットは日本から中国へ変更だ。

中国国内の諜報網をフル稼働させ、趙長老がどうやってその肉体を手に入れたのか、その『医療技術の出処』を徹底的に洗い出せ。

MSSの内部に潜り込み、研究施設を特定しろ。必要なら、中国の要人をハニートラップにかけ、買収し、脅迫しろ。

……龍の喉元に食らいつき、その血(秘密)をすするのだ」

「はっ! 承知いたしました!」

二人の長官が力強く敬礼する。

日本という絶対的な壁に絶望していた彼らにとって、中国という「攻略可能かもしれない目標」が提示されたことは、暗闇に差した一筋の光であった。

「日本政府は我々を無視した。その代償は、いずれ払わせてやる。

だがその前に、我々も『同じステージ』に上がらねばならん。神の薬を、ロシアの手にも」

ボグダノフは暖炉の炎を見つめながら、低く笑った。

彼のパラノイアは消えていない。依然として見えない監視者の恐怖はそこにある。

だが、絶望して座して死を待つよりは、血みどろの泥仕合に身を投じる方が、ロシアの指導者には相応しかった。

クレムリンの地下深くで、北の熊は新たな標的を定めた。

日本が蒔いた「不老不死」という欲望の種は、アメリカを狂わせ、中国を自壊させ、そして今度はロシアを中国へと牙を剥かせる原動力となった。

世界は、日本の思惑通りに、あるいは日下部参事官の胃痛をさらに加速させる形で、混沌とした群雄割拠の時代へと突入していく。

外では、モスクワの雪がさらに激しさを増していた。

凍てつく大地の下で、熊は静かに、しかし確実に、次の狩りの準備を始めているのだった。