軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四話 病弱であることは、誰かの時間を奪う許可ではありません

婚約式が不成立として記録されたあと、聖アリア神殿の礼拝堂は静かに片づけられていった。

白い花は、まだ祭壇の脇に残っている。

署名台も、そのままだ。

本来なら、そこに私とディオン様の名が並ぶはずだった。

けれど今、署名台に残っているのは、青い封蝋の押された婚約不成立確認書の控えだけだった。

白い花と、青い封蝋。

その取り合わせが、妙に冷たく見えた。

私は礼拝堂の隣にある小さな事務室へ移された。

父と母も同席している。

向かいには、ハーグレイヴ侯爵夫妻とディオン様。

少し離れた椅子には、神殿医師の診察を終えたセシリア・ロイス男爵令嬢が座っていた。

彼女のそばには侍女がいる。

ロイス男爵本人は、神殿からの急使を受けて、こちらへ向かっているらしい。

部屋の中央には、王家婚姻登録院の監督官であるヴィクトル様。

その横に、立会神官と公証人。

そして王妃宮の女官長ミレーヌ。

誰も声を荒げない。

だからこそ、この場がただの口論ではなく、正式な確認の続きなのだとよく分かった。

「まず、本日の記録を整理します」

ヴィクトル様が言った。

公証人が紙を整える。

「第一に、ディオン・ハーグレイヴ侯爵令息は、聖アリア神殿での正式婚約式に定刻までに到着しませんでした」

ペンが走る。

「第二に、待機可能時間である半刻を過ぎたため、アリシア・エルヴェイン公爵令嬢は延期ではなく婚約不成立確認を選択しました」

また、ペンが走る。

「第三に、不在理由は、セシリア・ロイス男爵令嬢の体調不安により、ディオン令息がロイス男爵邸へ向かったためです」

ディオン様の肩が、わずかに強張った。

セシリア様は、白いショールを握っている。

「第四に、神殿医師の診断では、セシリア令嬢は急性の発作ではなく、強い不安による過呼吸傾向。命に関わる状態ではありませんでした」

部屋の空気が、少し重くなる。

セシリア様の目から、また涙がこぼれた。

「わたくし、本当に苦しかったのです」

彼女は小さく言った。

「嘘ではありません」

「嘘だとは記録していません」

ヴィクトル様の声は先ほどと全く変わらなかった。

何度も訴えかければいずれ情に絆される……という機構がそもそも組み込まれていないのかと思わせる。

同じ弁明には同じ回答を。

その正確さには、機械仕掛けのような印象が残った。

「苦しかったことと、正式婚約式の誓約者を私的に呼び出すことは、別の問題です」

セシリア様は、唇を噛む。

その顔を見て、私は胸の奥が少しだけ痛んだ。

彼女が苦しかったことは、本当なのだろう。

でも、本当の苦しさがあれば、他人の時間を奪ってよいわけではない。

そこを曖昧にすれば、また同じことが起きる。

「セシリア・ロイス令嬢」

ヴィクトル様が彼女の名を呼んだ。

「はい」

「あなたは本日、ディオン令息へ直接の来訪を求めました」

「……はい」

「その際、ロイス男爵家の主治医、神殿医師、または王妃宮の救急連絡を通しましたか」

「通しておりません」

「なぜですか」

セシリア様は、すぐには答えなかった。

侍女が不安げに彼女を見る。

ディオン様も何か言いたそうにしたが、ハーグレイヴ侯爵が鋭い視線で止めた。

「ディオン様が来てくだされば、落ち着くと思ったからです」

ようやく、セシリア様が答えた。

その声は細い。

けれど、部屋には十分届いた。

「いつも、そうでしたから」

いつも。

その言葉で、私の胸の奥が少しだけ冷えた。

やはり、これは今日だけではなかった。

ディオン様が駆けつけることが、彼女の中で当たり前になっていたのだ。

そして私も、その当たり前の外側で待たされていた。

「いつも、というのは」

ヴィクトル様が問う。

「これまでも、ディオン令息をご自宅へ呼ばれていたという意味ですか」

「……はい」

「ディオン令息が、アリシア令嬢との予定を持っている日にも?」

セシリア様の顔が白くなる。

「知らなかった日もあります」

「知っていた日も?」

「……あります」

公証人のペンが走る。

その音が、今の答えを逃がさず残していく。

「責めないでください」

ディオン様が、とうとう口を開いた。

「セシリアは、本当に弱いんです。幼い頃から、少しの不安で息ができなくなることがあって」

「ディオン様」

私は彼を見る。

「あなたが彼女を心配することは、否定していません」

「なら」

「でも、そのたびに私が待つことを当然にしないでください」

ディオン様は黙った。

私はセシリア様へ視線を戻す。

「セシリア様」

「……はい」

「あなたのお身体が弱いことは、あなたの罪ではありません」

彼女は、ほんの少し顔を上げた。

「不安になることも、苦しくなることも、あなたが好きで選んでいるわけではないのでしょう」

「はい」

「けれど、あなたの不安を落ち着かせるために、私の式や予定を使ってよいわけではありません」

セシリア様の目が揺れる。

私は言葉を選びながら続けた。

「病弱であることは、誰かの時間を奪う許可ではありません」

確認室が、静かになった。

その沈黙は、責めるための沈黙ではない。

たぶん、今まで誰もはっきり言わなかったことを、初めて言葉にしたから生まれたものだった。

「わたくしは」

セシリア様が小さく言う。

「そんなつもりでは」

「ええ」

私は頷いた。

「あなたは、そういうつもりではなかったのでしょう」

「なら」

「でも、私は待たされました」

彼女の唇が止まる。

哀れみを誘う表情だ。

糾弾……というにもささやかな、単なる事実確認をすることに、ある種罪悪感をもたせるような。

きっと、弱さだって、振りかざせば暴力なのだろう。

「つもりがなければ、なかったことになるわけではありません」

それは、ディオン様にも向けた言葉だった。

彼もまた、私を傷つけるつもりはなかったと言った。

けれど、つもりがなくても、私は傷ついた。

今日の婚約式は、戻らない。

ミレーヌ女官長が、静かに一枚の書面を机の上へ置いた。

「王妃宮より、ロイス男爵家へ送付する注意書の草案です」

セシリア様が息を呑む。

「注意書……」

「処罰ではありません」

ミレーヌ女官長は言った。

「今後、正式儀式当日に体調不良または強い不安が生じた場合、主治医、神殿医師、または王妃宮指定の連絡役を通すこと。誓約者本人への私的な呼び出しは控えること。その確認です」

「わたくし、そんなに悪いことを」

「悪いことかどうかではありません」

ヴィクトル様が言った。

「再発防止です」

再発防止。

事務的な言葉だ。

だが、必要な言葉だ。

誰かの善意や我慢に任せるのではなく、次に同じことが起きないように形を作る。

それが、今この場にいる人々の仕事なのだ。

「ハーグレイヴ侯爵家にも、別途通達を出します」

ヴィクトル様は続けた。

「正式儀式当日に、誓約者が私的な呼び出しを受けた場合、本人が直接向かう前に、家の責任者、神殿、王家婚姻登録院へ報告すること」

ハーグレイヴ侯爵が深く頷いた。

「当然だ。受け入れる」

「ディオン令息には、当面、婚姻登録に関する家の代理権を停止していただきます」

ディオン様が顔を上げた。

「代理権を?」

「正式婚約式に出席しなかった者に、次の婚姻登録判断を任せることはできません」

ヴィクトル様は、淡々と告げる。

「期間は、ハーグレイヴ侯爵家と王家婚姻登録院で協議します」

ディオン様は何か言おうとした。

けれど、ハーグレイヴ侯爵が先に答えた。

「受け入れる」

「父上」

「当然だ」

侯爵の声は低かった。

「お前は今日、家の代表としての資格を失ったのだ。取り戻すには時間がいる」

ディオン様の顔が歪む。

けれど、反論はできなかった。

できるはずがない。

その資格を失わせたのは、彼自身なのだから。

コン、コン。

その時、確認室の扉が叩かれた。

神殿職員が顔を出す。

「ロイス男爵がお着きです」

「通してください」

ヴィクトル様が答える。

少しして、ロイス男爵が入ってきた。

小柄な男性だった。

顔色は悪く、額には汗が浮かんでいる。

彼は入室するなり、娘の姿を見てほっとしたような顔をした。

「セシリア」

「お父様」

セシリア様は立ち上がりかけたが、侍女に支えられて座り直す。

ロイス男爵は彼女のそばへ行こうとして、ヴィクトル様の視線に気づき、足を止めた。

「レオニス大公子殿下」

「ロイス男爵」

「このたびは、娘がご迷惑を」

「事実確認中です」

ヴィクトル様は、机の上の記録へ視線を落とした。

「あなたは、本日、娘君がディオン・ハーグレイヴ令息へ直接使いを出したことを知っていましたか」

「いえ、私は外出しておりまして」

「屋敷の管理責任者は」

「妻です」

「では、夫人も後ほど確認対象となります」

ロイス男爵の顔がさらに白くなる。

「娘は身体が弱いのです」

「はい」

「幼い頃から、ディオン殿が来ると落ち着くことが多く」

「その慣習が、本日の婚約式不成立につながりました」

男爵は言葉を失った。

セシリア様が小さく肩を震わせる。

「ロイス男爵」

ミレーヌ女官長が、注意書の草案を差し出した。

「王妃宮より、正式儀式当日の私的呼び出しについて注意書を送ります」

「注意書……」

「娘君の体調を軽んじるものではありません。むしろ、正式に医師と神殿を通すことで、必要な治療と配慮を受けられるようにするためのものです」

男爵は、紙面を見つめた。

そこには、責め言葉はない。

だが、線ははっきり引かれている。

「今後、娘の不安時には、まず医師を呼ぶ」

「はい」

「正式儀式や公的予定の最中に、誓約者本人を直接呼び出さない」

「はい」

「必要があれば、神殿または王妃宮へ正式に連絡する」

「その通りです」

ロイス男爵は、深く頭を下げた。

「受け入れます」

「お父様」

セシリア様が弱い声を出した。

男爵は娘を見た。

その目には、愛情と疲れが混じっていた。

「セシリア」

「わたくしは、本当に苦しくて」

「分かっている」

「ディオン様が来てくだされば、楽になると思って」

「それも分かっている」

「では、なぜ」

「分かっていることと、許されることは違うのだ」

その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。

今日、何度も形を変えて出てきた言葉だった。

分かることと、許すことは違う。

苦しいことと、人を呼び出してよいことは違う。

嫌っていないことと、大切にしていることは違う。

そう。

理解することと、免責することは違うのだ。明確に。

男爵は続けた。

「お前は、苦しい時にディオン殿を呼ぶことに慣れすぎた。私たちも、それを止めなかった」

「……」

「それが、今日、アリシア様の婚約式を壊した」

セシリア様の目から、また涙が落ちる。

けれど今度の涙は、少し違って見えた。

自分が可哀想で流す涙ではなく、自分が何をしたのかを初めて見た涙のように。

「アリシア様」

ロイス男爵が、私へ向き直った。

「娘の父として、正式にお詫び申し上げます」

「お受けします」

私は答えた。

「ただし、私への謝罪で終わりにしないでください」

「はい」

「今後、同じことが起きないよう、セシリア様を守る方法を変えてください」

男爵は、深く頷いた。

「必ず」

その返事に、すべてを信じたわけではない。

けれど、少なくともこの場では、彼は娘を甘やかす父ではなく、責任者として返事をした。

それは必要なことだった。

確認は、さらに続いた。

ハーグレイヴ侯爵家からは、神殿費用、参列者への詫び状、婚約不成立に伴う違約金について、後日正式な書面が出されることになった。

ロイス男爵家からは、王妃宮注意書への受諾書。

セシリア様には、今後しばらく、正式儀式当日の私的呼び出しを禁じる確認。

ディオン様には、婚姻登録に関する代理権停止と、王妃宮での再教育。

ひとつずつ、感情が書面へ変えられていく。

冷たく見えるかもしれない。

でも、私はその冷たさに救われていた。

確認室の空気が少しだけ緩んだ頃、ディオン様が私の前に立った。

彼は深く頭を下げた。

「アリシア」

「はい」

「申し訳なかった」

私はしばらく彼を見ていた。

その謝罪は、たぶん本心だった。

けれど、今の私には、それを抱きしめる役目はない。

「お受けします」

「私は、君がここまで傷ついていたと」

「それは、私への謝罪ではなく、あなた自身への確認です」

ディオン様が顔を上げる。

私は続けた。

「私へ謝るなら、今日あなたが婚約式に来なかったことを謝ってください」

「……」

「私を何度も後回しにしていたことを謝ってください」

「……」

「セシリア様の不安を理由に、私なら待つと決めつけていたことを謝ってください」

彼の顔が歪む。

でも私は止めなかった。

「私が傷ついていたと知らなかった、ではなく」

息を吸う。

「知ろうとしなかったことを、謝ってください」

ディオン様は、目を閉じた。

長い沈黙のあと、もう一度深く頭を下げる。

「君を、知ろうとしなかった。申し訳なかった」

その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。

でも、それだけだった。

戻りたいとは思わなかった。

「お受けします」

「やり直すことは」

「ありません」

彼の口が止まる。

私は静かに言った。

「謝罪を受け取ることと、関係を戻すことは違います」

今日、この部屋では何度も違うという言葉が出ている。

けれど、それだけ必要なのだろう。

似ているものを、似ていないと分けること。

それが線を引くということなのだ。

ヴィクトル様が、記録を確認し終えた公証人から書面を受け取った。

それから、私へ控えを差し出す。

「アリシア・エルヴェイン公爵令嬢」

「はい」

「本日の確認記録です」

私は受け取った。

紙は重かった。

実際の重さではない。

その紙の中に、私が今日終わらせたものが入っているからだ。

「あなたに瑕疵なし、という文言も記録済みです」

「ありがとうございます」

「明日、王妃宮にも正式報告します」

「はい」

「あなたは本日、感情ではなく手続きで自分を守りました」

私は顔を上げた。

ヴィクトル様は、静かな目で私を見ていた。

「その判断は、軽くありません」

「軽くないから、少し疲れました」

「でしょうね」

「否定しないのですね」

「疲れないはずがありません」

その返事が、なぜか少し可笑しくて。

私は、確認室の中でほんの少しだけ笑ってしまった。

ディオン様が驚いたようにこちらを見る。

セシリア様も。

けれど、私はもう気にしなかった。

泣くことも、笑うことも、私のものだ。

誰かの不安や期待に合わせて使うものではない。

「ヴィクトル様」

「何でしょう」

「今日は、帰ってもよろしいでしょうか」

「もちろんです」

「記録は」

「こちらで処理します。控えはすでに渡しました」

「では、帰ります」

父がすぐに立ち上がった。

母も続く。

私は確認室の扉へ向かう前に、一度だけ振り返った。

ディオン様は、まだ立っている。

セシリア様は座ったまま、ショールを握っている。

彼らがこの先どうなるのかは分からない。

でも、それはもう私が待って見届けることではない。

「失礼いたします」

私は一礼し、確認室を出た。

白い廊下は、先ほどより少し暗くなっていた。

窓の外では、夕方の光が神殿の石壁を薄く染めている。

婚約式の鐘は、今日鳴らなかった。

けれど、私の中で何かが静かに終わる音は、確かに聞こえた。

病弱であることは、誰かの時間を奪う許可ではない。

優しいことは、誰かを待たせる免罪符ではない。

そして、待つかどうかを決めるのは、私自身だ。

私はそのことを、青い封蝋の控えとともに胸へ抱いて、神殿をあとにした。