作品タイトル不明
伊勢神宮から戻って1月前半の帳簿つくり。いやいややるも93万文。喜ぶどころか逆に怖い。飯屋が国取り始めるwww
伊勢神宮から戻ると、博之はかなり手応えを感じていた。
神宮の敷居は高い。いきなり横丁を作るような場所ではない。だが、完全に閉ざされている
わけでもない。
伊勢郊外を固める。港を押さえる。九鬼様の口添えを得る。港飯を名物にする。
そこまで筋道が見えたら、神宮の端で一軒二軒、名物飯を出す道はある。
「収穫はあったな」
そう呟きながら本店に戻ると、奥の部屋で書記の者たちが待っていた。
帳面の束を前に、にこりともせずに一人が言う。
「旦那様」
「……なんや」
「楽しい楽しい、帳簿の時間ですよ」
博之は心底嫌そうな顔をした。
「いや、本当にね、参拝と挨拶だけしときたいよね」
「そうはいきません」
「神宮の話、めっちゃ大事やったで」
「それはそれ、これはこれです」
書記の者は帳面を叩いた。
「本体はちゃんと見ていただかないと困ります」
「本体て」
「伊勢松坂屋本体です」
博之は畳に腰を下ろし、深いため息をついた。
だが、以前と違い、帳簿の前に集まる者たちの顔つきは少し変わっていた。
採用の数字、店ごとの売上、湯浴み、港横丁、街道沿い、伊勢郊外の様子。細かいところは、
古参や書記の者がある程度まとめてくれている。
「今回は、採用や細かい集計は、こちらで見つくろっております」
「ほう」
「旦那様には大きな数字を見て、指示を出していただければ動けるようにしています」
「えらい成長したな」
「旦那様が逃げるので」
「逃げてない」
「逃げてます」
部屋に笑いが起きる。
「それに、拠点作りの心得も、ちゃんと形にしてきております」
書記の者が紙を出した。
寺社に挨拶すること。
近所に飯を配ること。
最初の半月は黒字を急がぬこと。
仕入れたものは、誰から、いくらで、どれだけ買ったか書くこと。
土地に銭を落とすこと。
困っている者を探すこと。
伊勢松坂屋の者として偉そうにしないこと。
博之はそれを見て、少し満足げに頷いた。
「こういうのが要るんや」
「伊勢と津へ行くなら、なおさらですね」
「伊勢の国でやる限りは、わしが行かなあかんな」
博之は言った。
「尾張とかになったら、もう行く気ないけどな」
ヨイチが即座に突っ込む。
「尾張まで行けるわけないでしょう、まだ」
「まだ、や」
「言い方が怖いんですわ」
また笑いが起きた。
そして、帳簿に戻る。
「ざっくり言うと、今回は店を増やしておりません」
「そこが救いやな」
「はい。ですので、横丁、港、街道、伊勢郊外、握り飯屋、天ぷら、親子丼、すり身串、
それに湯浴みを合わせて、利益が五十万文ほどです」
博之は腕を組んだ。
「相変わらずでかいな」
「でかいです」
「人件費は?」
「今回は変えておりません」
ヨイチが少し眉を上げた。
「上げへんのですか」
「今回はなしや」
博之は即答した。
「前にだいぶ上げた。古参に至っては、下手したら武士並みに物資も銭ももろとるやろ」
「まあ、確かに」
「飯、寝床、湯浴み、布団、手当。全部含めたら、かなりええはずや」
書記の一人が少し苦笑する。
「でも、みんなかわいそうちゃいますか」
「かわいそうではない」
博之は首を振った。
「むしろ、金を使う場所を教えた方がええ」
「使う場所ですか」
「そうや。給金を上げるだけやと、皆ため込む。飯も寝床もあるからな」
ヨイチが頷く。
「確かに、うちの者、あんまり使わないですね」
「せやろ」
博之は言った。
「たまには外で使え。町で買い物しろ。布団でも着物でも、湯浴みでも、小物でもええ。
たまには団子屋でも酒屋でも使え。外に銭を落とさなあかん」
「でも、内々で集まってしまいますね」
「それがあかんねん」
博之は少し声を強めた。
「紋付き袴で外を歩くやろ。金持ってると思われるやろ。ため込んでると思われたら、
ほんまに狙われるぞ」
部屋が少し静かになる。
「金は持つだけでは危ない。使い方も覚えなあかん」
ヨイチが苦笑した。
「でも、うちら一文無しの時期がありましたからね。ケチが抜けないんですよ」
「それは分かる」
博之も少し笑った。
「俺もそうや。無一文を知ってると、なかなか使えへん」
「だからこそ、旦那が使わせないと」
「そういう仕事まで俺か」
「そういう仕事まで旦那です」
皆が笑った。
帳簿の数字はさらに続く。
大きな出費は、今回それほど多くない。
ただ、伊勢神宮への寄進、伊勢郊外の領主への一万文、道中の支度、弁当、挨拶回り、
寺社への支払いなどがある。
「諸々差し引くと、今回は十三万文ほど利益が出ております」
「十三万文か」
「ただし、寺社への支払いが三万文あります」
「それは必要経費や」
「なので、ざっくり十万文増えた計算です」
前回の手元は八十三万九千文。
そこに十万文ほどが増える。
「九十三万五千文」
初期の者が読み上げた。
「ざっくり言えば、九十三万文です」
その数字に、場が少し静かになった。
「……百万文、届きそうじゃないですか」
ヨイチがぽつりと言った。
博之は露骨に嫌な顔をした。
「それが怖いんや」
「普通は喜ぶところです」
「こんなものを、この店で抱えてたらえらいことになるぞ」
博之は帳面を指で叩いた。
「北畠様の意に沿わんようなことをして、店没収ってなった時に、百万文取られてみいや」
「向こうがひっくり返りますね」
「ひっくり返るわ」
博之は真顔で言った。
「まさか、こんな飯屋がこんだけ蓄えてるとは思わんやろ」
書記の者も少し青い顔で頷いた。
「確かに、これは隠し持つには大きすぎます」
「隠し持ってるつもりがなくても、そう見られる」
「だから寄進して、店を出して、屋敷や湯浴みや布団や人に変えてるんですね」
「そうや」
博之は茶をすすった。
「金は金のまま持つと怖い。飯にする。人にする。屋敷にする。信用にする。港の口利きにする。
そうして散らさなあかん」
ヨイチがにやりと笑う。
「だんだん国取り大名みたいになってきましたね」
「やめろ」
「飯で国取りですわ」
「飯屋や」
「飯屋が九十三万文持ってるんですよ」
部屋に笑いが起きた。
だが、笑いながらも、誰もそれを軽くは見ていなかった。
百万文が見えてきた。
それはただの成功ではない。
危険でもある。
金があるということは、守らなければならないものが増えるということだ。
人も増えた。
拠点も増えた。
伊勢と津の港への話も見えた。
神宮の端で名物飯を出す可能性も出てきた。
だが、それらすべてに、挨拶、寄進、帳簿、人材、仕入れ、土地との関係が必要になる。
「次に増やすのは店やなくて、人やな」
博之が言った。
「帳簿を見る者。挨拶に行ける者。仕入れを判断できる者。料理を紙にできる者」
「つまり初期の仕事がまた増えると」
「そうなる」
「給金は?」
「上げたやろ」
「今回はなしでしたね」
「うるさい」
また笑いが起きる。
お花が静かに言った。
「でも、旦那様。ここまで来たら、誰かが旦那様の真似をできるようにしないといけませんね」
「そうやな」
博之は頷いた。
「俺が全部やったら終わる。飯も、帳簿も、挨拶も、金の散らし方も、皆で覚えなあかん」
「百万文より、それが大事ですね」
「そうや」
博之は帳面を閉じた。
「百万文持つ飯屋より、百万文をちゃんと飯と人と信用に変えられる飯屋にならなあかん」
ヨイチが笑う。
「旦那、たまにええこと言いますね」
「たまに言うな」
正月の前半。
伊勢松坂屋の手元には、九十三万文あまりが残った。
だが、博之の頭の中では、もうその銭の置き場所が問題になっていた。
伊勢。
津。
港。
神宮の端。
そして、人づくり。
飯屋は、また次の形へ変わろうとしていた。