作品タイトル不明
数日後、松坂城主が見舞いに来る。料理人を連れて。城と伊勢松坂屋で料理勝負しよう。師範つくりも兼ねて
松阪本店に戻って数日も経たないうちに、松阪のお殿様が伊勢松坂屋へやって来た。
しかも、料理人を連れてである。
博之は、奥から出てきて目を丸くした。
「いやいやいや、お殿様。城主自らお見舞いに来られるとは、どういうことですか」
城主は、にやにや笑っていた。
「心配してたんやで」
「本当ですか」
「本当や。噂を聞いてな。京都へ官位の礼に行ったと思ったら、比叡山と揉めて、
大津で神輿と僧兵に催しを荒らされ、首に薙刀を当てられて血を流しながらも、
一千万文を三好と六角に撒くと言い放ったとか」
「話が大きくなりすぎです」
「大きくなりすぎというか、面白すぎて仕方なかったわ」
「お殿様、私たち友達ですか」
「まあまあ、ここまで育てたってんから、ちょっとぐらい面白い話を聞かせてくれてもええやろ」
「育てられた覚えはありますけども」
「あるやろ」
お殿様は、連れてきた料理人たちを見やった。
「でな。見舞いもあるんやけど、今日はもう一つある」
「何ですか」
「勝負しよう」
博之は少し身構えた。
「勝負? いやいや、私は刀も持ってませんよ」
「そんな勝負、俺とお前でやるわけないやろ」
「それはそうですね」
「料理や」
博之は、そこで少し目を細めた。
「料理ですか」
「うちの料理人と、お前のところの料理番で催し会をやらんか」
お殿様は楽しそうに言った。
「城の庭を貸してもええ。売り上げの寄進がどうこうは知らん。そこは好きにしたらええ。
けどな、練習の場がいるやろ」
博之は黙って聞いた。
「お前のところは、師範代だの催し会だの、竹串だの、よう考えとる。うちにも下働きや
若い料理人はおる。けど、あいつらは腕を見せる場がない。城の料理人は、
殿様や家臣の膳を作る。失敗はできんが、勝負も少ない」
「なるほど」
「そこでや。第一部は、うちの下働きと、お前のところの見習いの勝負や。竹串の入れ合いやな」
「見習い戦ですか」
「そうや。次に、認め印を持つ者と、うちの若手の中でまあまあ頑張ってる者との勝負」
「中堅戦ですね」
「それや。第三部は、師範代とうちの料理人。俺の飯を出してる料理人も混ぜる」
「お殿様の料理人と師範代ですか」
「そうや。最後に、師範を決める戦いや。近隣で師範代を持った者を集めて、
これは師範にしてもええやろという者を決める」
博之は思わず笑った。
「めちゃくちゃしっかりした構成を考えてますね。お殿様、ノリノリじゃないですか」
「ノリノリなのが半分」
「半分?」
「お前の身を案じてるのが半分や」
その言葉に、座敷の空気が少し変わった。
お殿様は、博之の首筋の布をちらりと見た。
「今回の件で思った。お前は、首がつながってない場合がある」
「物騒なことを言いますね」
「事実やろ。比叡山に薙刀当てられて帰ってきたんや。次も生きてる保証はない」
お花が横で静かにうつむいた。
ヨイチも帳面を閉じた。
お殿様は続けた。
「だから、早う師範を作れ。お前の飯の考え方、料理の見方、人の育て方を、早う広げとけ」
「一応、焼印制度は作ってます」
「それでも足らん」
お殿様は即座に言った。
「お前がおる伊勢松坂屋は、百点、百二十点を出せる。お前がいなくなったら、最低限は回るやろ。
飯も出る。帳簿も動く。人も働く。けど、おそらく八十点で止まる」
博之は何も言えなかった。
「八十点なら十分やと思うかもしれん。けど、お前がここまで作ったものは、
八十点に落ちた瞬間に、面白みが抜ける。伊勢松坂屋は残っても、妙な熱が消える」
「そんな大層な」
「大層や。お前は自覚が薄いけどな」
お殿様は、少し笑った。
「お前がいなくなった後の松坂屋は、たぶん弱くなる。終わるとは言わん。
けど、弱くなるのは目に見えとる」
博之は首筋に手をやった。
「だから、師範を増やせと」
「そうや。別に妥協して師範を乱発しろと言うてるんやない。むしろ厳しくてええ。
けど、切磋琢磨の場を増やせ。伊勢松坂屋の中だけで固めるな」
「他流試合ですか」
「そうや。うちの料理人ともやれ。伊勢の城主とも仲がええんやろ。なら、伊勢でもやればええ。
尾張の殿様筋に話があるなら、そこでもやれ。飯者修行や。違う飯、違う口、違う料理人とぶつけろ」
ヨイチが小さく頷いた。
「伊勢松坂屋の内側だけで評価を固めると、味が閉じるということですね」
「その通りや」
お殿様はヨイチを見て笑った。
「お前は分かっとるな」
「旦那様の帳面をつけていますので」
「大変やな」
「はい」
「即答すな」
博之が突っ込むと、少し笑いが起きた。
お殿様はまた博之へ向き直った。
「とにかく、俺は心配しとるんや。付き合いどんだけあると思ってんねん」
「めちゃくちゃ心配してくれてるじゃないですか」
「当たり前や。お前が死んだら、松坂がつまらん」
「そこですか」
「そこや。少なくとも、お前やわしに軽口を叩けるやつが二十人ぐらい育ってからにしてくれ」
「私は死ぬ予定で動いてません」
「首切られかけた奴が言う台詞ちゃうわ」
お花が強く頷いた。
「本当にそうです」
博之は味方がいないことを悟って、諦めたように息を吐いた。
「分かりました。やりましょう。城の庭で、料理の催し会。見習い、認め印、中堅、師範代、
最後に師範決め」
「そうこなくてはな」
「ただし、運用はしっかり組みます。前売り札、竹串、客の入替、火の管理、逃げ道、全部必要です」
「逃げ道まで考えるのが今のお前らしいな」
「最近、必要性を痛感しましたので」
お殿様は苦笑した。
博之は続けた。
「売り上げは全部、お殿様のところに寄進します」
「全部か?」
「庭を貸してもらうし、城の料理人も出してもらう。こちらとしては、
師範育成と他流試合の場をもらえる。それで十分です」
お殿様は、満足そうに笑った。
「そういう太っ腹なところが、わしは好きやな」
「褒められてるんですかね」
「褒めてる。だから、まだ仲良うしといてくれよ」
「こちらこそです」
「とりあえず師範を育てて、方々に撒くまでは、お前はまだ死なんといてくれ」
「撒くって言い方」
「師範を撒くんや。松阪、伊勢、白子、桑名、草津、大津、京都郊外。あちこちに、
お前の味と考え方を分けた者を置く」
お殿様の声は、思ったより真面目だった。
「お前一人が面白いだけでは、もったいない。伊勢松坂屋そのものが面白くならんとあかん」
博之は少し黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かりました。師範を作ります。料理人を育てます。外にも出します」
「うん」
「ただ、私も生きてやります」
お花が横で静かに言った。
「それが一番大事です」
お殿様は笑った。
「よう言うた。ほんまに、まずは生きとけ」
こうして、松阪城の庭を使った大きな料理催しの話が決まった。
見習いと下働きの竹串勝負。
認め印持ちと若手料理人の勝負。
師範代と城の料理人の勝負。
そして、近隣師範代による師範決め。
伊勢松坂屋の料理人たちにとって、それはただの催しではない。
外の料理人とぶつかる、初めての大きな他流試合だった。
そして博之にとっては、自分がいなくても伊勢松坂屋が面白くあり続けるための、
次の仕組みでもあった。