作品タイトル不明
伊勢の準備に手間どるが焦らない博之。いずれ全国の食を押さえると話爆笑されるも鯛のあら汁と小魚のすり身の団子串を見て空気が変わる
伊勢へ出す話は、思ったより簡単には進まなかった。
五万文を持たせる。紋付き袴を五枚渡す。伊勢の郊外に横丁を作る。言葉にすれば簡単だったが、
実際には誰を行かせるかが難しい。
博之は古参を集めて、そう話した。
「伊勢はな、急いだらあかん」
火鉢の前で、博之は腕を組んで言う。
「行く人数を見繕わなあかん。古参やからって、みんながみんな伊勢へ行けるわけでもないし、
行きたいわけでもないやろ」
ヨイチが頷いた。
「そらそうや。松坂で暮らしたいやつもおる」
「せや」
博之は続ける。
「ここで嫁さんもろたり、婿に入ったり、店を任されたいってやつもおる。それはそれでええ」
お花も静かに言った。
「無理に外へ出すと、かえって崩れますね」
「そうや。伊勢は大事やけど、人選は焦らん」
だが、そこで博之は少し声を変えた。
「ただな、先々の話はしておく」
皆が顔を上げる。
「伊勢だけやない。津にも行く。四日市にも行く。蟹江、名古屋にも行く」
場が静まった。
「名古屋?」
侍の一人が聞き返す。
「そうや。長野様、北畠様、その北の豪族たち。その先はおそらく尾張の領分になる」
博之は紙を広げ、線を引くように指を動かした。
「尾張に入る。そこから松平、今川の方も見える。けど、今の中間目標は尾張や」
ヨイチが目を丸くする。
「旦那、伊勢どころか尾張まで見とるんか」
「見とる」
博之はあっさり答えた。
「伊勢は伊勢でやる。絶対に大事や。伊勢神宮がある。人が集まる。飯は売れる」
ただし、伊勢は手ごわい。
神宮があり、寺社があり、昔からの商いがある。松坂のように、ボロ小屋から勢いだけで
広げられる土地ではない。
「だから、伊勢の郊外からやる」
博之は言った。
「松坂の郊外でやったのと同じや。飯が食えへん子、身寄りのない者、未亡人、流れ者。
そういう者を集める」
そこで住む場所を用意し、飯を食わせ、読み書きを教え、横丁で働かせる。
「養鶏場も、いずれ伊勢の方でやる。椎茸もやるかもしれん。漬物も地元で仕込む。
松坂から全部運ぶわけにはいかんからな」
地元の者と仲良くする。
地元で仕入れる。
地元で人を育てる。
それをしなければ、伊勢では根を張れない。
「松坂を拠点にするのは変わらん」
博之は言った。
「ここが本店や。けど、ここから津へ伸ばす。港へ伸ばす。伊勢へ伸ばす。最終的には尾張まで行く」
そこで、ふっと笑う。
「中間目標は尾張や。最終的には、全国津々浦々やけどな」
その瞬間、部屋の空気が止まった。
そして次の瞬間、皆がどっと笑った。
「全国て!」
「旦那、とうとう言い出しましたな」
「ほんまに大名より大きいこと言うてるやん」
ヨイチは腹を抱えて笑っている。
博之も少し笑いながら、しかし真面目な声で言った。
「笑うやろ」
「笑いますよ」
「でもな、松坂をここまでやるのに一年かかってへん」
その言葉で、笑いが少しだけ弱まった。
三月のボロ小屋。
最初の豚汁。
十文の給金。
拾った子どもたち。
そこから、今は百四十人の所帯になっている。
郊外、城下、港、街道。
湯浴み、布団、弁当、親子丼、天ぷら、握り飯。
確かに、一年も経っていない。
「これやったら、わしが死ぬまでにやれそうな気もせんでもない」
また笑いが起きた。
「旦那、長生きせなあきませんな」
「その前に帳面で死ぬわ」
博之がそう言うと、また場が和む。
だが、博之はそこで手を上げた。
「けどな」
皆が静まる。
「これが笑いで済まへんかもしれん飯ができた」
「飯?」
お花が首を傾げる。
「そうや。笑うだけやと済まんやつや」
博之は立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
そう言って、飯場の方へいそいそと向かう。
残された面々は顔を見合わせた。
「また何か作ったんか」
「旦那があの顔する時は、だいたい変な飯や」
「でも、うまいんですよね」
しばらくして、博之が戻ってきた。
手には大きめの皿が二つ。
一つには、団子のようなものが並んでいた。丸く、小ぶりで、表面は油で揚がって薄く色づいている。
三つずつ串に刺したものもある。
もう一つは、大きな椀だった。
鯛の頭や骨まわり、大根が、味噌だまりと出汁で炊かれている。湯気とともに、生姜とねぎの
香りが立った。
「これは何ですか」
お花が椀を覗き込む。
「鯛のあら大根や」
博之はまず椀を置いた。
「鯛の頭、骨まわり、かま。臭いところは取って、生姜とねぎで炊いた。大葉も少し入れてる」
侍の一人が感心したように言う。
「鯛のあらなら、港でも出ますな」
「出る」
博之は頷いた。
「ええ身は焼いて高く売ればええ。けど、頭や骨まわりも飯になる」
そして、もう一つの皿を指した。
「こっちは、魚のすり身団子や」
「すり身?」
「アジとイワシを叩いて、すり鉢ですって、塩で練った。小麦粉を少しだけつなぎに入れて、
生姜と大葉も混ぜた。それを小さく丸めて揚げた」
ヨイチが一つつまんで、まじまじと見る。
「団子みたいやな」
「せや。三つ串に刺して売れる」
「魚を団子にするんか」
「売れにくい小魚や端の身を使う」
博之の声が少し熱を帯びる。
「港で余る魚を買う。臭いところを取る。すり身にする。揚げる。串に刺す」
皆が黙って聞いていた。
「今まで値がつきにくかった魚が、飯になる。水軍さんは売れる。うちは名物ができる。
客は腹が満たせる」
博之は笑った。
「これが当たったら、港の横丁は強い」
ヨイチはすり身団子を口に入れた。
少し噛む。
目を見開く。
「……なんやこれ」
「まずいか」
「違う。魚やのに、団子や」
侍も食べる。
「これは面白い。魚臭さも少ない」
お花も一口食べ、静かに頷いた。
「大葉の香りが良いですね。生姜も効いています」
「これは正月の九鬼水軍への振る舞い飯の目玉にする」
博之は言った。
「鯛のあら大根と、浜すり身串や」
部屋の空気が変わった。
さっきまで全国だ尾張だと笑っていた者たちが、今は目の前の皿を真剣に見ている。
この飯は、ただうまいだけではない。
港の余りものに値をつける飯だった。
魚を丸ごと銭に変える飯だった。
ヨイチが、ぽつりと言った。
「旦那、これは笑いで済まへんかもしれんな」
博之はにやりと笑った。
「やろ」
湯気の向こうで、皆がもう一つ、すり身団子に手を伸ばした。