作品タイトル不明
京都郊外で博之の身を案じる京都郊外の和尚さん。三好のまとめ役も面白がり500万文をうけ、要望を聞き入れる。
京都郊外の寺の住職は、その朝からずっと落ち着かなかった。
大津での騒動は、すでに耳に入っていた。
比叡山延暦寺の僧兵が神輿を担いで押し入り、大津の催し会を荒らした。
飯を踏み、器を割り、客を逃がし、最後には伊勢松坂屋の大旦那――大膳亮である博之の首筋に
薙刀の刃を当てた。
そして、博之は引かなかった。
「いやいやいや……仏罰が本当に昨日の今日に起こるとは思いませんでしたわ」
住職は、独り言のように呟いた。
昨日、比叡山の使いが来た時点で、厄介なことになるとは思っていた。だが、まさかすぐに
大津へ出て、催しを荒らすとは思っていなかった。
しかも、その後の話の伝わり方がすさまじい。
「大旦那、薙刀を首に当てられても一歩も引かなんだらしい」
「飯を踏む者は許さんと言うたらしい」
「一千万文を比叡山には出さず、三好と六角に撒くと言うたらしい」
「武器を持たない飯屋の怖さを思い知らせる、と言うたらしい」
どこまでが正確で、どこからが尾ひれなのか分からない。
だが、噂とはそういうものだ。
住職は、深く息を吐いた。
「噂とは怖いものですなあ……」
そんなところへ、伊勢松坂屋の者が文を持ってやって来た。
顔は疲れている。だが、目は妙に据わっている。
「住職様。大旦那よりお願いがございます」
「何でしょう」
「三好方の取りまとめ役へ、こちらの文をお渡しいただきたいとのことです」
住職は文を受け取り、内容を聞いた。
そこには、大津での騒動の報告、伊勢松坂屋が戦を求めるものではないこと、
ただし京都郊外および三好方の影響下で飯場や市を荒らす者があれば、
治安維持として取り締まりをお願いしたいことが書かれていた。
そして、その協力金として――
「五百万文……」
住職は思わず声に出した。
伊勢松坂屋の者が頷く。
「はい。奈良、大和八木、宇治方面から順々に、荷と合わせて京都の三好方へ流す段取りにございます」
「話が大きくなってきましたな、大旦那は」
「私どもも、正直ついていくのが精一杯でございます」
住職は文を手に、しばらく黙った。
伊勢松坂屋が京都郊外へ入ってから、このあたりの暮らしは少しずつ変わっていた。
炊き出しがある。
小さな市がある。
伊勢の小物が届く。
松阪木綿が手に入る。
布団や古布も少しずつ回ってくる。
飯を食べ、話をし、笑う者が増えた。
それは、静かな変化だった。
派手ではない。
けれど、確かに日常が少し良くなっていた。
「この日常が壊れなければよいのですが」
住職は、ぽつりと言った。
「大旦那様も、それを守るために動いておられるのだと思います」
「分かっております。分かっておりますが……あの方は少々、火の中へ飯を持って入るようなところが
ある」
伊勢松坂屋の者は、苦笑するしかなかった。
「否定はできません」
住職は三好方への取次を引き受けた。
そして、その日のうちに文は三好方の取りまとめ役へ渡された。
三好方の取りまとめ役は、文を読み終えるなり、しばらく黙った。
それから、にやりと笑った。
「まさか、こんな棚ぼたで五百万文も入るとはな」
そばにいた者も笑う。
「比叡山が揉め事を起こしてくれたおかげですな」
「ほんまや。早速ええ揉め事を起こしてくれた」
取りまとめ役は、文をもう一度眺めた。
伊勢松坂屋は、比叡山を攻めてくれとは言っていない。
三好に仕えるとも言っていない。
ただ、三好方の影響下で飯場や市を荒らす者があれば、治安維持として取り締まってほしい。
そのための協力金として五百万文を出す。
筋は通っている。
しかも、銭が大きい。
「しかし、比叡山に出さずに、こっちへ投げるとはなかなか漢気がある」
「しかも、薙刀で首を切られかけても引かなかったとか」
「ただ者やないな、あの旦那は」
取りまとめ役は愉快そうに笑った。
「伊勢の田舎から来た飯屋と聞いていたが、ずいぶん面白い」
伊勢松坂屋の使いは、控えめに頭を下げた。
「大旦那は、あくまで飯屋として、皆様方の領内で静かに商いと炊き出しを続けたいだけでございます」
「静かに?」
取りまとめ役は吹き出した。
「静かに商いをしたい奴が、比叡山と喧嘩するか」
「喧嘩をしたいわけではございません」
「分かっておる。喧嘩ではない。飯場を荒らされ、飯を踏まれ、首に刃を当てられた。
だから治安維持を願う。そういう形やな」
「はい」
「ええ書き方や。こちらとしても、領内の乱暴狼藉を見過ごすわけにはいかん、という形で動ける」
取りまとめ役は、文を畳んだ。
「銭の方は分かった。奈良、大和八木、宇治方面から順に流すのやな」
「はい。荷に混ぜて、分散して運びます」
「大名家と距離を取りたいというのも分かった」
取りまとめ役は、少し真面目な顔になった。
「三好につくわけではない。六角にも同じように出す。治安維持だけ頼む。そういう筋やな」
「はい。伊勢松坂屋としては、どこぞの武家に丸ごと入るのではなく、それぞれ統治されている方々の
下で、飯と市をさせていただければと」
「ゆるゆるやらせてもらいたい、というわけか」
「まさに、そのように」
そこで、取りまとめ役は腹を抱えて笑った。
「ゆるゆるやらせてもらう奴が、比叡山と揉めるか!」
周囲も笑い出す。
伊勢松坂屋の使いは、もう失笑するしかなかった。
「私どもも、そこは何とも……」
「いや、ええ。面白い」
取りまとめ役は笑いを収め、文を懐に入れた。
「京都郊外は、こちらでも少し様子を見る。飯場や市を荒らす者があれば、治安維持のために動く。
もちろん、表向きは領内の揉め事への対処や」
「ありがとうございます」
「ただし、旦那に伝えろ」
「はい」
「比叡山は面倒や。銭を出せば済む相手でもないし、出さねば面倒が増える相手でもある。
おまけに、噂になればどちらも引きにくくなる」
「承知しました」
「それでも、こちらとしては、この話に乗る価値はある。銭もある。名分もある。
比叡山の振る舞いも近ごろ目に余る。しかも、飯屋の旦那が首を切られても引かなかった話は、
しばらく語り草になる」
取りまとめ役は、にやりと笑った。
「こちらも、少しは乗ってやろう」
伊勢松坂屋の使いは深く頭を下げた。
「大旦那に、しかと伝えます」
こうして、三好方にも筋が通り始めた。
比叡山が取れると思った銭は、三好と六角へ流れようとしている。
京都郊外の住職は、その流れを見ながら、ただ祈るしかなかった。
どうか、これ以上大事にならぬように。
どうか、飯を食べる日常が壊れぬように。
どうか、あの大旦那がまた首を差し出すような真似をせぬように。
だが同時に、住職は思ってしまう。
あの飯屋は、ただの飯屋ではない。
飯と銭と人の流れで、都の端を少しずつ動かしている。
そして今、その流れは、比叡山をも巻き込み始めていた。