作品タイトル不明
朝飯後、挨拶が途切れない。しばらくすると延暦寺の使者が来て近所で商いするなら出すもの出せ。仏罰が来ると脅されるもやんわり断るwww
朝飯が終わると、博之はまた座敷で人と会っていた。
京都に来てからというもの、挨拶は途切れない。
小さな寺の取次。町の顔役。商人の使い。公家筋の下働き。どこから聞きつけたのか、
伊勢松坂屋が一千万文相当の寄進をしたという話は、内々に広がっているらしかった。
博之は、そのたびに同じように答えた。
「まずは炊き出し一回から始めましょう」
「小さな市を開けるなら、一度だけ試しましょう」
「売り上げの一部は寄進に回します」
「ただし、大きな話は、こちらとそちら、そして京都の人に利があるかを見てからです」
夜市は横で淡々と記録し、お花は相手の表情を見ていた。
大きな口を叩く者もいた。
ただ銭を欲しがる者もいた。
けれど、ちゃんと人の流れや困っている者の話をする者には、博之も丁寧に応じた。
そんな中で、寺の門前がにわかに騒がしくなった。
若い僧が、少し青い顔で座敷へ来る。
「大旦那様。比叡山の方から、使いの方が来られております」
「比叡山?」
博之の顔が、わずかにしかめられた。
やがて現れたのは、僧形の男と、その後ろに控える数人の僧兵だった。
ただの使いというには、あまりに物々しい。
太刀を帯び、腕も太い。寺の使いというより、半ば威圧である。
博之は内心でため息をついた。
「我々、ただの飯屋なんですけどね」
使いの僧は、にやりと笑った。
「ただの飯屋が、官位をいただき、一千万文を動かし、都で商いをしようというのは、
なかなかすごいことやと思うがな」
「官位をいただいた礼と、京都に筋を通すために参りました」
「筋を通すなら、うちにも通してもらいたいな」
「うち、というのは」
「延暦寺や」
座敷の空気が、少し重くなった。
お花がわずかに息を呑む。ヨイチは表情を変えないが、筆を止めた。
博之は、できるだけ穏やかに言った。
「延暦寺さんは、確かに京都に近うございます。ただ、今回の道すがらではございません。
私どもは京都郊外の寺社を中心に、炊き出しや小市を小さく始めるつもりです」
「近くで商いをするのやろう」
「商いと申しましても、飯と小市と炊き出しです」
「その飯と小市で銭が動く。人が集まる。なら、うちに顔を出してもええやないか」
博之は、相手の目を見た。
これは相談ではない。
要求だ。
「協力できることであれば、一度、炊き出しから始めさせていただきます。
困っている所があれば、飯を持って伺います。そのうえで、ご縁ができれば、
売り上げの一部を寄進することは、これまでと同じです」
使いの僧は鼻で笑った。
「うちの領分でやらんでもええ。だが、うちの近くで商いをするなら、出すものは出してもらわんとな」
「出すもの、ですか」
「分かるやろ」
博之は、少しだけ目を細めた。
「それは、寄進ではなく、みかじめのように聞こえます」
空気が一気に張り詰めた。
後ろの僧兵の一人が、わずかに動いた。
お花が、博之の横で身構える。夜市は静かに帳面を閉じた。
使いの僧は、笑みを深めた。
「あまり仏様をお馬鹿にするような真似はせん方がええぞ」
「ここもお寺さんですけどね」
「格式が違う」
「それは存じております」
「格式ある寺を無下にすると、仏罰が下るかもしれんからな」
博之は、静かに息を吐いた。
「本来であれば、恐れ多くて、すぐにでもお支払いしたいところです」
使いの僧の口元が少し緩む。
しかし、博之は続けた。
「けれど、私どものやり方は変えられません。まずは炊き出し一回、一日一回からです。
困っている者に飯を出し、人の流れを見て、関係を作る。その後に、売り上げの一部や、
物資の一部を寄進させてもらう。これが伊勢松坂屋の筋です」
「筋、筋とうるさい飯屋やな」
「飯屋だからこそです。筋を曲げると、飯が濁ります」
「無理にでも寄進を求められたらどうする」
「無理に寄進を求めるのは、少し筋が違うのではないでしょうか」
使いの僧の目が、わずかに冷えた。
「強気やな」
「怖がりです」
「怖がりが、僧兵を前にしてその口か」
「怖いからこそ、最初に変な銭を出せません。一度出せば、次も、その次も、
同じように求められるでしょう」
「ほう」
「それは、私どもにとっても、京都の寺社との付き合いにとっても、よくない。
飯を出すための銭が、ただ黙ってもらうための銭になる。それでは続きません」
しばらく、沈黙が落ちた。
外では、寺の者たちも息を潜めている。
やがて使いの僧は立ち上がった。
「分かった。今日のところは帰る」
「恐れ入ります」
「ただな、大膳亮殿」
その声には、薄い笑いが混じっていた。
「何かしら悪いことが起こるかもしれへんぞ。仏罰というものは、どこから来るか分からんからな」
博之は頭を下げた。
「その時は、その時に考えます」
「後悔せんことや」
使いの僧は、僧兵たちを引き連れて去っていった。
足音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
やがて、京都郊外の住職が深く息を吐いた。
「大旦那、厄介な相手を敵に回しましたな」
博之は苦笑した。
「敵に回したつもりはないんですけどね」
「向こうはそう取るかもしれません」
「でしょうね」
住職は、少し声を落とした。
「近ごろ、比叡山の評判はよくありません。もちろん、すべての僧がそうではありませんが、
僧兵を連れて威を借る者も多い。一定の金を渡して黙ってもらうという手も、
ないではありませんでした」
お花が不安そうに言う。
「その方が安全だったのでしょうか」
博之は首を振った。
「一度、わけの分からん金を出したら、延々と出し続けなあかんでしょう」
ヨイチが静かに頷く。
「しかも、それを見た他の寺社も同じことを言い始める可能性があります」
「そうや」
博之は腕を組んだ。
「うちは寄進はする。炊き出しもする。困ってる人には飯も出す。けど、脅されて銭を出すのは違う」
住職は言った。
「しかし、仏罰と称して何か仕掛けてくることもありますぞ」
「その仏罰とやらが、どんなものか一回見ます」
お花が眉を寄せた。
「旦那様」
「分かってる。無茶はせん。ただ、出す銭と出さない銭の線引きは必要や」
博之は、少しだけ声を低くした。
「もし実際に嫌がらせが起きるなら、そこに金を使う。警備を増やす。荷の道を変える。
寺社の味方を増やす。場合によっては、山科様や松坂の城主にも相談する」
ヨイチが帳面を開いた。
「対応案を整理します。
一、荷の見張りを増やす。
二、寺社・町の顔役に事前連絡。
三、炊き出し場所を分散。
四、比叡山筋からの要求はすべて記録。
五、山科言継様へ相談できる形にしておく」
「それやな」
お花は、それでも心配そうだった。
「でも、僧兵を連れて来る相手です。こちらは飯屋です」
「飯屋やからこそ、真正面から喧嘩はしない」
博之は静かに言った。
「でも、黙って銭袋になるつもりもない」
住職は、博之をじっと見た。
「大旦那は、怖いと言いながら、腹が据わっておられる」
「据わってません。めっちゃ怖いです」
「なら、なぜ断ったのです」
「怖いからです」
博之は苦笑した。
「怖い相手に、最初から言いなりになる方が、もっと怖い」
座敷に、重い沈黙が落ちた。
お花は博之の顔を見て、小さく息を吐いた。
「旦那様、今日は外へ出る予定を少し変えましょう。荷と人の確認を先に」
「そうやな」
夜市も言った。
「大津と草津の催しにも影響がないか、連絡を出します」
「頼む」
博之は、使いの僧が去っていった方を見た。
京都に来れば、こういうこともある。
銭を持っていると知られれば、寄ってくる者がいる。
飯を出して人を集めれば、警戒する者がいる。
筋を通そうとしても、別の筋を求められる。
「京都、ほんま怖いな」
博之が呟くと、夜市が静かに返した。
「だからこそ、記録と線引きが必要です」
お花も頷いた。
「そして、味方も必要です」
博之は少し考え、住職に向き直った。
「今日の件、山科様に伝えてもらうことはできますか」
「できます。ただし、言い方は整えましょう」
「はい。こちらから喧嘩を売った形にはしたくないです」
「分かっております」
住職は静かに頷いた。
「“延暦寺筋より挨拶あり。寄進の求めあり。大旦那はまず炊き出しから関係を
築きたい旨を述べた”とでも」
「それでお願いします」
その日の午前、京都郊外の寺の空気は、朝の品評会の明るさから一転して重くなった。
だが、博之の中では、むしろ少し方針がはっきりした。
寄進はする。
飯は出す。
困った人は助ける。
けれど、脅しにはすぐ銭を出さない。
それは、京都で伊勢松坂屋が生きるための、最初の線引きだった。