作品タイトル不明
京都へ踏み入れる当日。朝廷の山科言継との面談。問答のあと、穏やかな会話がある。今後何をして何をしないかが京都では大事
京都郊外の寺を出る朝は、いつもの巡回とはまるで違っていた。
博之は、まだ薄暗いうちから起こされた。
「旦那様、今日は正式なご挨拶です。いつもの格好では駄目です」
「分かってる。分かってるけど、これどっちが前や」
お花がため息をつき、ヨイチが無言で紐を直す。
「旦那様、じっとしてください」
「じっとしてるやろ」
「していません」
「首が苦しいんや」
「苦しくありません。慣れていないだけです」
普段は飯屋の旦那として、動きやすい格好ばかりしている。荷車に乗り、港を歩き、
調理場に入り、寺で弁当を広げる。そんな博之にとって、改まった装束はどうにも落ち着かない。
「これで飯作れへんやろ」
「今日は飯を作りに行くのではありません」
「でも、飯屋やし」
「今日は大膳亮として行くんです」
ヨイチが淡々と言った。
その言葉で、博之は少し黙った。
大膳亮。
だいぜんのすけ。
北畠の推挙を受け、朝廷からいただいた官途である。自分ではいまだにしっくり来ない。
けれど、今日はその礼を言いに行く日だった。
朝の支度を終え、荷を整える。
寄進の銭。
伊勢の小物。
木綿。
瀬戸の焼き物。
布団。
古布。
道中で整えた品々。
全部を一度に見せるのではなく、礼の品、寄進の品、継続支援の意思として分ける。
昨夜、京都郊外の住職に教えられた通りだった。
一行は寺を出て、京都へ向かった。
昼前には都の中へ入る。
博之は思わず足を止めた。
「……これが京都か」
道は広い。人が多い。荷も多い。商人、僧、職人、武士、公家の使いらしき者、
物売り、子ども、病人、旅人。あらゆるものが混じっている。
華やかではある。
だが、きれいなだけではなかった。
湿気がある。
人が多いせいか、道の端にはすえた匂いもある。町の勢いはあるが、
端の方には困っている者の姿も見える。小さく座り込む老人。痩せた子。
荷を担ぎきれずに休んでいる男。寺の前で施しを待つ者。
「盛り上がってるけど、困ってる人もおるな」
博之が小さく言うと、お花が頷いた。
「都でも、食べるものに困る人はいます」
ヨイチが低い声で言った。
「ここでは、目立ちすぎないようにしてください」
「分かってる」
「本当に分かってください」
「今日は余計なこと言わん」
「それを信じたいです」
やがて、一行は取次を通じて、山科言継――やましなときつぐ――との面会に向かった。
山科家は、都の事情に明るく、人と人をつなぐ家として知られている。
朝廷への礼や寄進の筋を通すにあたり、最初に会う相手としては申し分ない。
むしろ、ここで見られることが、京都での第一歩だった。
座敷へ通されると、山科言継は静かに博之を見た。
年を重ねた公家らしい落ち着きがあり、目は柔らかいが、奥が鋭い。
博之は深く頭を下げた。
「伊勢国松坂より参りました、博之にございます。官途、大膳亮を賜りましたこと、
厚く御礼申し上げます」
「遠方より、よう参られた」
山科言継は穏やかに言った。
「伊勢の大膳亮殿、ということになりますかな」
博之は少し背中がむずがゆくなった。
「恐れ多いことでございます。私自身は、ただの飯屋でございますので」
「ただの飯屋」
山科言継は、少しだけ笑った。
「ただの飯屋が、なぜ大膳亮を名乗るに至ったのか。それは、こちらとしても、
はなはだ興味深いところであります」
博之は、少し困った顔をした。
「そこは、私もいまだに不思議に思っております」
「不思議に思う者が、銭と品を持って都まで参るのですか」
「礼を欠くわけにはいきませんので」
山科言継は、博之を促した。
「経緯を聞かせていただきたい」
博之は一度息を整えた。
「もともと、私は松坂で飯屋を始めました。朝の炊き出し、豚汁、握り飯、弁当。最初は、
本当に食うに困った者へ飯を出すところからでした」
「ふむ」
「そこから、人が集まり、店が増え、伊勢の中で物を運ぶようになりました。
米、味噌、魚、木綿、小物。飯屋を続けるには、仕入れと道が必要でしたので」
「飯屋が物流を持ったわけですな」
「はい。飯を止めないために、そうなりました」
山科言継の目が少し細くなる。
「飯を止めないため、ですか」
「はい」
博之は続けた。
「その後、織田と北伊勢のあたりで騒ぎがありました。小競り合い、避難、住民の逃げ。
戦そのものより、民が逃げることの方が、私には近く見えました」
「その間に立ったのが、伊勢松坂屋であったと」
「はい。炊き出しをし、飯を出し、逃げてきた者に寝る場所を探し、寺社や町の者と相談し、
必要なところへ米や味噌を動かしました」
山科言継は静かに頷いた。
「なるほど」
「ただ、これは本来、ただの飯屋がやることではありません」
博之は苦笑した。
「大名家や国人衆から見れば、目障りにも見えたと思います。勝手に人を集め、飯を出し、
民の不満や不安の間に入るわけですから」
「よく分かっておられる」
「分かっております。分かっているから怖いのです」
その言葉に、山科言継は少し興味を持ったようだった。
「怖いと」
「はい。私は武士ではありません。兵も持ちません。けれど、飯と荷と人の流れを持ってしまった。
よかれと思ってやったことでも、見方によっては、誰かの支配を揺らすように見えることもあります」
部屋の空気が静かになった。
山科言継は、博之をじっと見た。
「それで、北畠殿の推挙があった」
「はい」
博之は深く頭を下げた。
「北畠様には、伊勢の中で私のやっていることを認めていただきました。飯を出し、民を落ち着かせ、
物を回し、寺社へ寄進する。それを、無位無官の飯屋のまま続けるより、
何らかの名分を与えた方がよいとお考えになったのだと思います」
「それが、大膳亮」
「はい。食に関わる名として、大膳亮を賜りました」
山科言継は、ゆっくりと頷いた。
「大膳亮。確かに、飯をもって民を安んずる者には、奇妙なほど合っておりますな」
「私には過分です」
「過分かどうかは、これからの働き次第でしょう」
博之は、思わず背筋を伸ばした。
山科言継は、さらに尋ねた。
「此度の上洛は、その礼と寄進のためと聞いております」
「はい。官途をいただいた礼と、都への寄進をしたく参りました。すべてが銭ではありません。
伊勢の小物、松阪木綿、瀬戸の焼き物、布団、古布、道中の寺社支援の品もございます」
「一千万文相当と聞きましたが」
博之は、少し目を伏せた。
「はい。ただし、一度にすべてを積み上げるつもりはありません。礼、寄進、継続支援の意思として、
分けて扱いたいと考えております」
山科言継は、そこで初めてはっきり微笑んだ。
「昨夜、どなたかに知恵を授けられましたかな」
「京都郊外の住職に、だいぶ叱られました」
「よい住職です」
「はい。出しすぎるな、引きすぎるな、と」
「その通りです」
山科言継は、少し身を乗り出した。
「都は、銭を欲しがります。しかし、銭だけを出す者は、銭袋として見られます。
品だけを出す者は、商人として見られます。志を語る者は、時に信用を得ますが、時に試されます」
「試される、ですか」
「ええ。大膳亮殿は、すでに飯屋だけではない。飯屋であり、物流を持つ者であり、
寺社に寄進する者であり、民の間に立つ者である。都に入れば、必ず見られます」
博之は静かに頭を下げた。
「肝に銘じます」
「ただし」
山科言継の声が少し和らぐ。
「私は、面白いと思っております」
「面白い、ですか」
「飯を炊く者が、民を安んじ、道を整え、布団まで配る。大膳亮という名に、
これほど飯の匂いがする者も珍しい」
博之は困ったように笑った。
「褒められているのか、変わり者と言われているのか」
「どちらもですな」
お花が小さく笑いをこらえた。
ヨイチは無表情で帳面に記している。
山科言継はそれに気づき、ヨイチを見た。
「そちらも記すのですか」
「必要ですので」
「ならば、こちらも記すことになりましょう」
博之は顔を上げた。
「記されるんですか」
「都では、珍しき者は記されます」
「怖いですね」
「大膳亮殿は、もう十分珍しい」
座敷に、静かな笑いが広がった。
それでも博之は、心の中で少しだけ腹をくくった。
京都に来た。
山科言継に会った。
ただの飯屋では済まない場所へ、とうとう足を踏み入れた。
だが、自分が持ってきたものは変わらない。
飯。
布団。
小物。
木綿。
銭。
そして、困った者に何かを回したいという気持ち。
山科言継は最後に言った。
「大膳亮殿。まずは礼と寄進の筋を整えましょう。その後、都で何をし、
何をせぬかを考えねばなりません」
「何をせぬか、ですか」
「都では、それが肝要です」
博之は深く頷いた。
「分かりました。飯屋として、出す飯と出さない飯を間違えぬようにします」
山科言継は少し笑った。
「やはり、飯に戻りますな」
「飯屋ですので」
こうして、博之の京都での最初の会談は始まった。
相手は、都の実務と人の流れをよく見る公家、山科言継。
そして博之は、伊勢の大膳亮として、静かに都の目に留まり始めていた。