作品タイトル不明
博之44才9月1週目。帳簿を締める前に手紙を書く拠点にまこう。①師範代催し会2回やったよ。②船に関する情報もっと欲しいよ
帳簿を締める前に、博之は畳の上でごろごろしながら言った。
「なあ、ヨイチ。帳簿の前に、各拠点へ手紙を書いてくれ」
ヨイチは筆を止めて顔を上げた。
「帳簿ではなく、手紙ですか」
「そうや。数字も大事やけど、今回は先に伝えとかなあかんことがある」
お花が茶を置きながら言う。
「珍しく真面目ですね」
「珍しく言うな」
「では、何を書くんですか」
博之は指を二本立てた。
「一つ目は、師範代催し会の話や」
「ああ、各拠点向けですね」
「そう。松坂本店で第一回をやった。次に港でもやった。二回やって、ちゃんと回った。
そこで分かったことを、一枚物にまとめて各拠点へ配ってくれ」
ヨイチはすぐに筆を取った。
「会の概要。前売り札制。一刻ごとの入替。料理人十人、客三十人。
小皿・小椀で五品。竹串五本。品目別評価。城下町向け薄味、港飯向け濃味。これらですね」
「そうそう」
「それから、師範代になった者の扱いが変わったこと」
「そこが大事や」
博之は起き上がった。
「師範代になったやつが、郊外の炊き出しで焼き魚を振る舞ったら、めちゃくちゃウケた。
料理教室へ行ったやつは、女衆に囲まれて冷や汗かいてた。つまり、焼印はただの褒美やなくて、
人に見られる印になったんや」
お花が頷く。
「料理番たちの目の色が変わりましたね」
「そうや。各拠点にも伝えとかなあかん。師範代を取ると、飯を作るだけやなく、
炊き出しで実演したり、料理教室で教えたり、後進の見立てをしたりする立場になる。
偉そうにする印やない。人に教えるための印や、ってな」
ヨイチが淡々と書いていく。
「師範代心得も入れますか」
「入れてくれ。偉そうにしない。下働きに怒鳴らない。失敗を隠さない。客の反応を見る。
原価を見る。人に教える言葉を持つ。飯で店の名を背負う」
「承知しました」
「あと、港の会で分かったことも入れといてくれ。港飯は濃い味が強い。城下町向けは薄味で整える。
客の竹串は大事やけど、人気だけで師範代を決めるわけやない。品目の役割も見る、って」
「評価基準の話ですね」
「うん。そこを伝えとかんと、竹串だけ集めるために派手な飯ばっかりになる」
お花が言った。
「酢の和え物のような地味な飯も必要ですからね」
「そうや。夏場や年寄り、女衆、子ども向けには、派手やない飯が効く。
そういう飯もちゃんと評価されるって書いといてくれ」
ヨイチは頷いた。
「一枚物にして、各拠点の料理場へ貼れるようにします」
「それがええ」
博之は、もう一本の指を立てた。
「二つ目は、船の話や」
お花が少し顔を引き締める。
「海運の件ですね」
「そう。九鬼水軍には話を通した。二百石船一つ、百石船四つの大きい話は、九鬼に頼む。
ただ、それだけやと足りん」
ヨイチが顔を上げる。
「小舟や小荷船を探す、ということですか」
「そうや。各港へ書いてくれ。伊勢松坂屋として、船を作れる者、船を直せる者、
小さい荷船を扱える者を探している、と」
「百石船ではなく」
「百石船を作れとは言わん。十石でも二十石でもええ。小さい船でええねん。荷を置いておいたら、
ちょっとでも動かせる状態にしておくのが大事や」
博之は地図を指さした。
「蟹江、常滑、津島、安城。この辺は特に見てほしい。九鬼水軍の影響が少し弱いところもあるやろ。
そこにいる船大工や船頭、修理できる者を拾いたい」
「蟹江、常滑、津島、安城。小型船、修理、船頭、荷運び」
「そう。あと白子、津、鳥羽にも書いてええけど、そこは九鬼の筋を通しながらな」
「もちろんです」
「大きな船は九鬼。小回りは地元。そうしておけば、戦や騒乱の時にも、
米や味噌や布団を少しずつでも動かせる」
お花が言った。
「難民対応にも使えますね」
「そうや。行きは食料、帰りは人。大船が出せん時でも、小舟なら動けることがある。
十石、二十石でも、何艘かあれば全然違う」
ヨイチは筆を走らせる。
「つまり、今回の手紙は二系統ですね。料理人としての視点と、物流としての視点」
「まさにそれや」
博之は少し得意げに頷いた。
「旦那様、なんか真面目なこと言ってますね」
お花が言う。
「そうやろそうやろ」
「いえ、最近は真面目に考えることが増えすぎているだけです」
「それはある」
博之は畳にまた転がった。
「師範代催しも、次は郊外でやらなあかん空気になってるしな。港でもやった。本店でもやった。
次は郊外やろってなるやん」
「なりますね」
「俺の飯は、毎日品評会やし」
ヨイチが冷静に言う。
「それは旦那様が焼印制度を始めたからです」
「飯で困るってなんやねん」
お花が笑う。
「飯屋らしい悩みではあります」
「飯屋でも、食わされすぎたら困るねん」
そこへ、女衆の一人が茶を持ってきながら口を挟んだ。
「でも、師範代の方が料理教室に来た時は、すごかったですよ」
「すごかった?」
「女衆がきゃあきゃあ言うてました」
博之はにやりとした。
「やっぱり料理できる男は強いな」
「私も、あの人いいなと思ってたんですけどね」
女衆は少し不満げに言った。
「師範代になった途端、周りの女の子たちの態度が変わって。複雑です」
「なんやそれ、嫉妬か」
「別にそんなんじゃないですけど」
「いや、完全に嫉妬やろ」
「違います。あんな師範代だけで態度をころころ変える女子もどうかと思います、って話です」
お花が笑いをこらえる。
「でも、師範代になったことで、見る目が変わったのは確かですね」
ヨイチも珍しく少し笑った。
「地位というより、能力が見えたのでしょう」
「そうそう」
博之は茶をすすりながら言った。
「飯が作れる。人に教えられる。怒鳴らない。客に評価されてる。そら見る目変わるわ」
女衆はさらにむくれた。
「旦那様、楽しんでますね」
「楽しい」
「最低です」
「ひどいな」
お花がたしなめるように言う。
「旦那様、あまり茶化しすぎないでください。師範代の人たちも、急に見られる立場になって
戸惑っていますから」
「それもそうやな」
博之は少し真面目な顔に戻った。
「だからこそ、手紙に書いといてくれ。師範代は、ちやほやされるための印やない。
飯で人を助けるための印や。炊き出し、料理教室、後進の指導、拠点の飯の底上げ。
そこまで含めて師範代やって」
ヨイチは頷いた。
「書きます」
「船の方も同じや。船を持つのは威張るためやない。米を動かす。味噌を動かす。布団を動かす。
人を逃がす。そのためや」
「それも書きますか」
「各港向けにはな。伊勢松坂屋は、船を使って儲けたいだけではない。騒乱が起きた時、
荷と人を動かす道を探している。だから小さな船でも情報が欲しい、と」
ヨイチは、二枚の文案を分けて書き始めた。
一枚目。
師範代催し会のお知らせ。
松阪本店と港で開催済み。
料理人の腕を客の竹串で見える形にした。
ただし、人気だけで師範代を決めるわけではない。
城下町向け、港飯向け、寺社向け、子ども・年寄り向けなど、飯の役割を見る。
師範代は、炊き出し、料理教室、後進指導に関わる。
偉くなる印ではなく、人に見られ、人に教える印である。
二枚目。
船と港の情報願い。
伊勢松坂屋は、海の荷運びを整えるため、船大工、船頭、小型荷船、修理できる者の情報を求める。
百石船でなくてよい。十石、二十石でもよい。
蟹江、常滑、津島、安城、そのほか港や川筋に心当たりがあれば知らせること。
米、味噌、酒、油、布団、古布を動かし、騒乱時には人の移動にも備える。
ヨイチが読み上げると、博之は満足そうに頷いた。
「ええやん」
「このまま写しを作ります」
「頼む。各拠点に回してくれ」
お花が言った。
「料理と物流。どちらも伊勢松坂屋の次の柱ですね」
「飯屋やのにな」
「飯屋だからです」
博之はまた畳にごろりと転がった。
「飯を出すには腕がいる。飯を運ぶには道がいる。腕と道、両方育てなあかん」
ヨイチはその言葉を帳面の端に書いた。
腕と道を育てる。
女衆が、まだ少し不満げに言う。
「でも、あの師範代の人、次の料理教室にも来るんですかね」
「気になるんやんけ」
「違います」
「絶対気になってるやん」
「違いますってば」
座敷に笑いが広がった。
帳簿を締める前に、また仕事が増えた。
けれど、今回の手紙は必要だった。
飯の腕を育てること。
海の道を探すこと。
どちらも、これからの伊勢松坂屋には欠かせない。
博之は笑いながらも、どこか真面目な顔で天井を見上げていた。
「さて、次は帳簿か」
ヨイチが静かに言った。
「逃げられません」
「分かってる」
飯の催し、船の話、各拠点への手紙。
帳簿の前に済ませるべきことは済ませた。
伊勢松坂屋はまた、少しだけ組織らしくなっていった。