作品タイトル不明
松阪の港の師範代催しは他に任せて博之自身は郊外の和尚さんのところに前回の炊き出しの感想を聞きに行く。前の飯のほうがうまかったという子供をたしなめる和尚さん
次の師範代催しは、一週間後に港でやることになった。
その話が出た途端、松坂本店の料理番たちはまた色めき立った。
「旦那様、今度は何の品目で」
「私、前回出られなかったので」
「港飯なら、濃い味で勝負できます」
博之は、手を振って止めた。
「いや、本店のやつは今回はちょっと遠慮せえ」
「ええっ」
「郊外には郊外の料理番がおる。港には港の料理番がおる。本店のやつばっかり出たら、
地方の腕が見えへんやろ」
ヨイチも頷いた。
「今回は港での運用確認です。本店料理番は補助に回る者を絞ります」
「そうそう。運用が順調にできて初めて、会は続くんや。わしがおらな回らん、
松坂本店のやつがおらな回らん、では意味がない」
お花が言った。
「旦那様は港へ行かないのですか」
「今回は行かん。俺なしでやってもらう」
「珍しいですね」
「仕組みとして回さなあかんからな。俺が毎回おったら、みんな俺の顔色見るやろ」
博之は少し考えてから続けた。
「その代わり、わしは郊外へ行く。和尚さんとこに炊き出し持って行って、
前回の師範代の焼き魚がどうウケたか聞きたい」
そうして、博之は弁当と炊き出しを持って、松阪郊外の寺へ向かった。
寺へ着くと、和尚さんはにこにこしながら迎えた。
「また面白いことを始めましたね、旦那」
「いや、まあ、また増えました」
「師範代ですか」
「そうです。この前、焼き魚で竹串をようけ集めたやつを、こっちの炊き出しに出したら、
結構ウケたって聞きまして」
和尚さんは笑った。
「聞きましたも何も、皆よう言うてますよ。『この前の魚はうまかった』って」
「やっぱりですか」
「ええ。魚の焼き加減だけで、ああも違うのかと驚いている者もおりました」
博之は少し嬉しそうにした。
「本人も張り切ってましたからね」
「腕のある者を外へ出すのは、よいことですな」
「そう思います」
博之は弁当を広げながら言った。
「ただ、のれん分けみたいな話になると、ちょっと難しいんですよね。うちは仕入れが強い。
原価も抑えられる。伊勢松坂屋の看板と物流があって成り立ってる飯も多いんです」
「一人で店を出すとなると、同じ味でも同じ値では出せない」
「そうです。だから、俺としては、独立よりもまずはまとめ役になってほしい。
拠点を見て、人を教えて、飯を整える。そっちの方がありがたい」
「なるほど」
「でも、のれん分けが嫌なわけでもないです。師範代くらいまで上がったなら、
焼印を渡してやってもいいかなとは思ってます。ちゃんと筋を通すなら」
和尚は感心したように頷いた。
「旦那様は心が広いですね」
「いや、うまいやつが外で評価されるのは悪いことじゃないですから。城の料理人に
雇われることだってあるでしょうし」
「それはありますな。伊勢松坂屋で師範代を取ったとなれば、十分な箔になります」
そんな話をしているうちに、炊き出しが始まった。
今日の飯も、決して悪くはない。
汁は温かく、握り飯もあり、少しの魚もついている。普通に考えれば、かなり上等な炊き出しだった。
だが、子どもたちの中に、ぽろりと言う者がいた。
「この前の魚の方がうまかったな」
「師範代の兄ちゃん、また来てくれへんの?」
「今日のもおいしいけど、この前の方がすごかった」
博之は、それを聞いて少し苦笑した。
すると、和尚さんがすっと前へ出た。
「こらこら」
子どもたちは、きょとんと和尚さんを見る。
「ええですか。炊き出しが美味しいのは、当たり前ではありません」
和尚さんの声は穏やかだったが、芯があった。
「本来の炊き出しというのは、おかゆを少し配るだけ、
薄い汁を飲ませるだけ、そういうことも多いのです。本当に食うものに困った人が、
今日をつなぐために受けるものです」
子どもたちは、少し黙った。
「この寺も、伊勢松坂屋さんが関わる前から炊き出しはしていました。
けれど、今のように、魚があり、汁があり、飯があり、味まで考えられたものを毎回
出せていたわけではありません」
和尚さんは、炊き出しの鍋を見た。
「これは、旦那の功罪ですな」
「功罪って」
博之が苦笑する。
和尚さんは続けた。
「美味しい炊き出しが続くと、それが当たり前のように思えてしまう。けれど、当たり前では
ないのです。伊勢松坂屋さんに余裕があり、皆と仲良くしたいという気持ちがあり、
料理人たちが工夫してくれているから、こういう飯になっているのです」
子どもの一人が、小さく聞いた。
「じゃあ、この前の魚は?」
「あれは師範代になった人が、記念に腕を振るってくれたものです。毎回続くものではありません」
「そうなんや」
「いただけるだけでもありがたい、という心を忘れてはいけません。もちろん、
美味しいと言うのはよいことです。けれど、炊き出しの飯を品評会のようにして、
これは前より落ちた、あれの方がよかった、と言い始めたら、炊き出しは続きません」
子どもたちは、分かったような、分からないような顔をしていた。
それでも、和尚さんの言葉の重さは少し伝わったのか、次からは黙って椀を受け取り、
「ありがとうございます」と言う者が増えた。
博之は、その様子を見ながら複雑な顔をした。
「和尚さん、今の話、蟹江の炊き出しの時の皆に聞かせたいですわ」
「蟹江ですか」
「ええ。戦で荒れたところの炊き出しと、こうやって平和な郊外の炊き出しでは、
子どもたちの受け止め方が全然違うんやなと思って」
和尚さんは静かに頷いた。
「平和だからこその贅沢な悩みですな」
「そうですね。贅沢な悩みです。けど、ちょっと怖いです」
「怖い?」
「うちが飯を良くしすぎることで、ありがたみが薄れる。炊き出しなのに、もっと美味いものを
求められる。そうなったら、なんか違うなと」
和尚さんは少し笑った。
「だから、時々こうして言う者が必要なのです」
「和尚さんみたいに?」
「ええ。旦那は飯を出す。私は、いただく心を説く。役割分担です」
博之は深く息を吐いた。
「助かります」
「ただ、旦那が悪いわけではありませんよ」
「そうですかね」
「人は、良いものに慣れます。これは仕方がない。だからこそ、時々立ち止まって、
“これは当たり前ではない”と伝えるのです」
炊き出しの列は、ゆっくり進んでいく。
椀を受け取る子ども。
礼を言う年寄り。
汁をすすってほっとする女。
その姿は、やはり悪くない。
博之は、少しだけ安心した。
「港の師範代催し、俺なしで回るかな」
「回るでしょう」
「ほんまですか」
「旦那が全部見ていては、皆育ちません」
「それはヨイチにも言われました」
「でしょうな」
和尚さんは笑った。
「師範代の者たちも、炊き出しで腕を見せ、料理教室で人に教え、港で催しを支える。
そうやって育つのでしょう」
「のれん分けより、まずはまとめ役」
「ええ。それがよいと思います」
博之は、炊き出しの鍋から立ち上る湯気を見た。
美味い飯を出すこと。
それを当たり前にしないこと。
腕のある者を育てること。
しかし、腕に驕らせないこと。
どれも簡単ではない。
「飯屋って難しいですね」
博之が言うと、和尚さんは笑った。
「今さらですか」
「今さらです」
その日、郊外の寺での炊き出しは、少しだけ静かで、少しだけ考えさせられるものになった。
美味い飯は人を笑顔にする。
けれど、美味い飯に慣れすぎると、人はそれを当然と思う。
師範代の焼き魚は、確かに人を喜ばせた。
だが同時に、炊き出しの意味を問い直すきっかけにもなった。
博之は帰り際、和尚さんに頭を下げた。
「また、話聞いてください」
「もちろんです。飯も持ってきてください」
「結局そこですか」
「そこも大事です」
二人は笑った。
松坂本店では、港の催しの準備が進んでいる。
郊外では、炊き出しのありがたみを改めて伝える必要が出てきた。
飯が広がれば、喜びも広がる。
だが、悩みもまた広がる。
それでも博之は、飯を出すことをやめるつもりはなかった。