作品タイトル不明
師範代を取った後の自覚と周囲の変化になじみ始める1日。炊き出しと料理教室で目に見えて反応が違う
翌週、初めて師範代になった料理番たちは、明らかに顔つきが変わっていた。
焼印をもらった瞬間は、ただ嬉しかった。
だが、一晩経ち、二晩経つと、じわじわと重みが出てきた。
もう「うまい飯を作れる者」だけではない。
人に見られる。
人に教える。
店の名を少し背負う。
そういう立場になったのだと、本人たちもようやく分かり始めていた。
その中でも、焼き魚で二十五本の竹串を集めた料理番は、さっそく郊外の炊き出しへ
行かされることになった。
「師範代になった記念や。郊外でうまい焼き魚、振る舞ってこい」
博之にそう言われた時、本人は一瞬固まった。
「いきなりですか」
「いきなりや。偉そうにする暇があったら、飯で返せ」
そうして、郊外の寺での炊き出しの日。
彼はいつもより早く現場へ入った。
炭の具合を見る。
魚の水気を拭く。
塩を振る。
皮目から焼くか、身から焼くかを考える。
火が強すぎないか、風はどうか、客へ出す時に冷めないか。
普段なら店の奥でやっていることを、今日は人の前でやる。
郊外の者たちは、少し遠巻きに見ていた。
「あれが、師範代になった人か」
「この前、本店で催しやったんやろ」
「竹串ようけ集めたらしいで」
「焼き魚やろ。郊外でそんな変わるもんかいな」
魚にそこまで期待していない者もいた。
郊外では、汁や握り飯、肉あんの方が喜ばれることも多い。魚は港や城下町のもの、
という気分が少しあった。
だが、炭の上で魚が焼け始めると、空気が変わった。
皮がぱり、と音を立てる。
脂が炭へ落ち、じゅっと煙が上がる。
塩と魚の香りが、寺の庭へ広がる。
「……ええ匂いやな」
「これは、ちょっと違うな」
見物していた者たちの目が、だんだん真剣になる。
焼き上がった魚を、師範代は一つずつ丁寧に皿へ置いた。
「今日は少しずつですが、振る舞わせてもらいます」
彼はそう言って頭を下げた。
最初に口にした年寄りが、ゆっくり噛んで、目を細めた。
「うまいわ」
その一言で、周囲がざわついた。
次に食べた男が、ほくほくの身を箸で崩しながら言った。
「なんやこれ。魚って、焼き加減だけでこんな違うんか」
子どもも、熱い熱いと言いながら食べる。
「これ、もっとちょうだい」
「今日は数が限られてるから、みんなで少しずつや」
師範代は少し照れながら答えた。
すると、別の者が笑って言った。
「兄ちゃん、毎回炊き出しに来てくれへんか」
「いやいや、そんなわけにはいかないです」
「でも、今日は格段にうまい気がするわ」
「もともと、松坂は鮮度のええ魚も入りますから。それを活かしてるだけです」
「それにしても、普段店で食う魚より一段うまい気がするぞ」
「他の者も頑張ってますし……私も、師範代にしてもらったばかりですから」
言いながら、彼の顔は赤かった。
誇らしい。
だが、恥ずかしい。
自分の飯で人が喜んでくれるのは嬉しい。
けれど、皆に囲まれて「すごいな」「おめでとうな」と言われると、どうしていいか分からない。
「師範代って、偉いんか」
子どもが聞く。
彼は慌てて首を振った。
「偉いんやなくて、もっとちゃんとせなあかん人や」
「ちゃんと?」
「うまい飯を作って、人に教えられるようになる人やな」
「ほな、兄ちゃん先生なん?」
「先生の手前くらいや」
周りが笑った。
彼も笑った。
その日、郊外の炊き出しは、いつもより少し華やかだった。
焼き魚の匂い。
師範代の緊張した顔。
それを見て喜ぶ人たち。
博之が言った「飯で返せ」という意味が、少し分かった気がした。
一方、別の師範代は、料理教室へ顔を出していた。
こちらは、博之に半ば茶化されるように言われたのがきっかけだった。
「師範代になったんやから、料理教室でも行って冷やかされてこい。料理の腕がよかったら
嫁捕まえられるかもしれんぞ」
「旦那様、やめてくださいよ」
そう言いながらも、彼は結局、料理教室へ向かった。
すると、予想以上の反応だった。
「あの人、この前の催しで師範代取った人やって」
「肉あんの人?」
「いや、つみれ汁の人やない?」
「どっちにしても、料理うまいんやろ」
女衆たちの視線が集まる。
普段なら、料理教室は女衆が中心だ。そこへ、師範代の男料理番が来たのだから、
目立たないはずがない。
「師範代さん、こっち見てもらえますか」
「私、魚の火加減が分からなくて」
「つみれが固くなるんですけど」
「一緒にご飯作りませんか」
気づけば、彼の周りに女衆が集まっていた。
「いやいや、揉めないでください。私は順番に回りますから」
「えー、師範代、こっち先に」
「私のところも見てください」
「ちょっと、抜け駆けしないで」
黄色い声が飛ぶ。
彼は完全に困っていた。
「私は、そんな大したものでは」
「師範代なんでしょう?」
「焼印持ってるんですよね?」
「見せてください」
「いや、焼印は見せ物では……」
その様子を、周りの男衆が少し離れて見ていた。
「……俺らも頑張らなあかんな」
「あれ、料理できるだけであんな扱い変わるんか」
「師範代って、飯だけやないんやな」
「俺、焼きおにぎり真面目にやろかな」
男衆の中にも、妙な火がつき始めていた。
料理ができる。
人に教えられる。
女衆に頼られる。
それは、思った以上に目に見える力だった。
一方で、女衆の側にも複雑な空気があった。
「あの人、前からいいなと思ってたのに」
「急に人気者になったな」
「師範代になった途端、みんな見る目変わりすぎやろ」
「でも、実際やさしく教えてくれるし」
「そこがまた腹立つわ」
笑い混じりの嫉妬。
少し本気の焦り。
料理教室は、いつもよりずっと騒がしくなった。
師範代の男は、額に汗をかきながらも、一人ずつ見て回った。
「火は強すぎると外だけ焦げます」
「つみれは、こねすぎると固くなります」
「味噌は最初から入れすぎない方がいいです」
「魚は、ひっくり返しすぎると崩れます」
最初は冷やかし混じりだった女衆も、話を聞くうちに真剣になった。
「へえ、そうなんや」
「店で出してる人は、やっぱり見方が違うな」
「これ、家でもできそう」
彼は、少しだけ落ち着きを取り戻した。
ただ人気者になったのではない。
自分の知っていることを伝えると、誰かの役に立つ。
それもまた、師範代の仕事なのだと思った。
その夜、松坂本店へ戻った二人の師範代は、それぞれ疲れ切っていた。
郊外で焼き魚を振る舞った者は、皆に囲まれすぎて喉が枯れていた。
料理教室へ行った者は、女衆に引っ張られ続けて、魂が抜けたような顔をしていた。
博之はそれを見て、畳の上で笑った。
「どうや、師範代」
「思ったより重いです」
「思ったより怖いです」
「思ったより人が寄ってきます」
「ええことや」
博之は茶を飲みながら言った。
「飯の腕は、店の中だけで終わらん。炊き出しでも、料理教室でも、人に見られる。人に頼られる。
そこまで含めて師範代や」
お花が微笑む。
「二人とも、顔つきが変わりましたね」
ヨイチも帳面に書きながら頷いた。
「師範代取得後の役割として、炊き出し実演と料理教室補助は有効ですね」
「やろ」
博之は少し得意げに言った。
「あと、嫁取りにも有効や」
料理教室へ行った師範代が真っ赤になった。
「旦那様、それはやめてください」
「でも、黄色い声飛んでたんやろ」
「飛んでましたけど」
「ほらな」
お花がすかさず言う。
「旦那様、そうやって茶化すから嫌がられるんです」
「大事な話やと思うんやけどな」
「言い方です」
座敷に笑いが広がった。
だが、笑いの奥で、師範代たちは確かに何かを掴んでいた。
焼印は、ただの褒美ではない。
店の外へ出て、飯を振る舞い、人に教え、場を明るくするための印だった。
そして、その姿を見た他の料理番たちも、少しずつ変わり始めていた。
「次は俺も出たい」
「港飯で師範代取る」
「料理教室、ちょっと怖いけど行ってみたい」
「炊き出しで褒められるの、ええな」
松坂本店の調理場には、以前とは違う熱があった。
ただうまい飯を作るだけではない。
飯で人に喜ばれ、飯で人に教え、飯で自分の居場所を広げる。
師範代という仕組みは、料理番たちに新しい道を見せ始めていた。