作品タイトル不明
巡回や九鬼水軍への筋を通して松坂本店へ帰宅。ゴロゴロしたい。ただ夕飯が品評会になる。師範代催しはいつですかとせっつく料理番
津の九鬼水軍で大筋の話をつけたあと、博之は松坂へ戻るなり、念のため松阪側の
九鬼水軍のまとめ役にも顔を出した。
相手は慣れた様子で笑った。
「なんや旦那、また穴子でも食わしてくれるんか」
「今日は穴子やなくて、船の話です」
「……ああ、とうとうそっちへ行ったか」
博之は、津で話した内容を簡潔に伝えた。
二百石船を一艘、百石船を四艘。
伊勢湾、尾張、三河方面を四艘で回し、一艘は紀州方面を見る。
建造と運用、人材育成を九鬼水軍に頼み、ひとまず一千万文を見ている。
まとめ役はしばらく黙り、それから大きく息を吐いた。
「旦那の話、最近ほんま笑い話にならんな」
「自分でもそう思います」
「一千万文を“ひとまず”って言う飯屋、どこにおるんや」
「ここに」
「開き直るな」
それでも、まとめ役は拒まなかった。
「まあ、話は分かった。津の方と合わせる。船大工、材木、船頭、水夫、倉、干し場。
こっちでも必要なものを洗い出す」
「助かります」
「ただし、船は作って終わりやないぞ」
「分かっています」
「修理、縄、帆、港の顔役、天気待ち、荷傷み。銭はどんどん食う」
「必要な分は出します。ただ、帳面に載せたいので、額だけはちゃんと出してください」
ヨイチも頷いた。
「建造費、運用費、育成費、港整備費、修理積立、荷傷みの備え。分けて記録します」
まとめ役は苦笑した。
「抜かりないな。太っ腹というより、もう商会やな」
「飯屋です」
「船五艘作る飯屋な」
その場に笑いが起きた。
博之は、少し真面目な顔で言った。
「北伊勢が荒れた時、陸だけでは詰まります。飯と布団を送るにも、人を逃がすにも、
海の道が欲しいんです。もちろん酒や油の商いもありますけど」
「儲けと人助けが混ざってるな」
「混ざってますね」
「まあ、それが旦那らしいわ」
まとめ役は頷いた。
「分かった。松阪側にも話は通ったと思ってくれ。津と合わせて段取りする。ただし、海を舐めるな」
「そこは九鬼さんに教えてもらいます」
「布団は濡らすなよ」
お花が即答した。
「そこは私が見ます」
「頼もしいな」
こうして、船の話は松阪側にも通った。
博之は帰り道でぽつりと言った。
「同じ話を何回もするの、しんどいな」
ヨイチが答える。
「筋を通すとは、そういうことです」
「まあな」
お花が少し笑った。
「でも、これで海の話は一歩進みましたね」
「うん。銭を船に替える準備やな」
伊勢松坂屋の海の道は、まだ始まってもいない。
だが、津と松阪、両方の九鬼水軍に筋を通したことで、船五艘の構想は、
ただの思いつきから現実の段取りへ変わり始めていた。
その日の夕方、博之は松阪本店へ戻ると、畳の上にどさりと転がった。
「あかん。もう今日は終わり」
お花が呆れた顔で見る。
「旦那様、まだ夕飯があります」
「夕飯は食う。でも仕事は終わり」
ヨイチが帳面を抱えたまま言った。
「船の話は、あとで正式に帳面へ移します」
「あとでな。今日はもうゴロゴロする」
「旦那様の“あとで”は信用できません」
「今日はほんまに疲れたんや」
博之は畳の上で、ごろりと寝返りを打った。
津、白子、九鬼水軍、船五艘、一千万文。
考えるだけでも腹が重い。
しかし、夕飯の時間になると、別の意味で腹が重くなった。
座敷に膳が並び始めたのである。
焼き魚。
つみれ汁。
肉あん。
白子風の酢の和え物。
港飯を真似た塩魚。
さらに、津で食べた混ぜ飯を改良した小椀。
博之は膳を見て、うめいた。
「また試食会やんけ」
料理番たちは、妙に目を輝かせていた。
「旦那様、白子ではつみれ汁に任せ印が出たと聞きまして
「津では焼き魚がよかったとか」
「港向けと城下向けで味を分けると聞きました」
「それを本店でも試してみました」
博之は箸を持ちながら、ため息をついた。
「お前ら、耳早いな」
「そらそうです。焼印に関わる話ですから」
お花が少し笑う。
「皆、気になって仕方ないんですよ」
博之は一口ずつ食べた。
「この焼き魚はええな。津より少し上品や。城下向けやな」
「ありがとうございます!」
「こっちのつみれ汁は、白子の真似やろ。悪くないけど、酒が少し勝ってる。
港ならええけど、本店やと強い」
「はい!」
「肉あんは……うまい。けど重い。夜に出すなら小さめやな」
「はい!」
ヨイチが淡々と記録する。
「本店試食。焼き魚、城下向け良。つみれ汁、酒やや強し。肉あん、夜は小盛り」
博之は苦笑した。
「完全に評定やな」
そこへ、料理番の一人が身を乗り出すように言った。
「旦那様、師範代の催し、早くやりましょう」
別の者も続く。
「白子でもやるかもしれないと聞きました」
「各地で師範代会をするなら、本店が最初ですよね」
「一刻ごとの入替制、竹串五本、品目別ですよね」
「私、焼き魚で出たいです」
「私は肉あんで」
「つみれ汁も、本店の味を見せたいです」
博之は箸を持ったまま、目を丸くした。
「お前ら、せっつきすぎやろ」
料理番たちは、まったく引かなかった。
「だって、白子の者たちも張り切っているなら、本店が負けるわけにはいきません」
「師範代印、欲しいです」
「客に食べてもらって、竹串を入れてもらいたいです」
「自分の飯がどれくらい通じるか見たいんです」
お花が、少し嬉しそうに言った。
「旦那様、皆かなりやる気です」
「やる気なのは分かるけどな。準備いるやろ。前売り札、竹串、箱、係、器、洗い場、
火元、会場、寄進の割合。勢いだけでやったら大混乱や」
ヨイチが頷く。
「旦那様の言う通りです。ですが、早めに日取りだけ決めた方がよいかもしれません」
「ヨイチまで乗るんか」
「料理番たちの熱が高いうちに、形にした方がいいです」
博之は、少し困った顔で料理番たちを見た。
皆、真剣だった。
焼印がただの褒美ではなく、自分の道になる。
師範代になれば、拠点で人に教えられる。
いつか節目の師範決めの会に呼ばれるかもしれない。
その道が見えたからこそ、料理番たちは前のめりになっていた。
「分かった」
博之は観念したように言った。
「津と白子の帳面を整理して、船の一千万文を別枠にして、そのあと日取りを出す」
「本当ですか!」
「ただし、最初は小さくやる。前売り制。一刻ごとの入替。客は絞る。料理人も絞る」
「はい!」
「あと、俺を太らせるな。試食は小皿や」
「はい!」
返事だけは、やたら良かった。
お花が笑う。
「これは、当日かなりガチャつきそうですね」
「やっぱりか」
ヨイチが淡々と言った。
「だから準備します」
博之は、もう一口つみれ汁を飲んで、少しだけ笑った。
「まあ、これだけやる気があるなら、やる意味はあるな」
料理番たちの顔がぱっと明るくなった。
船五艘の大きな話を決めた日の夜。
松坂本店では、また小さな飯の熱が燃え上がっていた。
海の道を作る話も大事だ。
北伊勢の騒乱への備えも大事だ。
けれど、伊勢松坂屋の中心にあるのは、やはり飯だった。
誰がうまい飯を作るのか。
誰が人に教えられるのか。
誰が客に選ばれるのか。
その熱が、座敷いっぱいに満ちていた。
博之は畳に転がりながら、ぽつりと言った。
「飯屋は忙しいな」
お花がすぐに返す。
「船を作る飯屋ですからね」
「それ言うな」
ヨイチは帳面に静かに書いた。
師範代催し、早急に日取り検討。本店料理番、士気高し。
また一つ、松坂本店の夜が騒がしくなっていった。