作品タイトル不明
白子の港で一休みしていたら料理番から松坂の師範代の催し出たいけど距離が・・・と言われ、各地で開催を決定。師範決めは節目でやろう。
白子の港で一休みしながら、博之は茶をすすっていた。
目の前には、白子の海が広がっている。鳥羽ほど南の荒々しさはないが、
北伊勢の港らしい、荷と人が行き交う落ち着いた忙しさがあった。
つみれ汁には任せ印を出した。焼き魚も悪くない。港の者たちは緊張しながらも、
どこか誇らしげだった。
「で、困ってることないか」
博之が聞くと、白子のまとめ役は少し考えてから答えた。
「大きな不満というほどではありませんが、やはり雨の日です。荷を置く場所、
客を待たせる場所、魚をさばく場所が少し足りません」
「雨か。どこ行っても出るな」
「はい。港は特に湿気もありますので、布団や古布は置きにくいです」
お花がすぐに頷いた。
「布団はここで保管しない方がいいですね。船から上げたら、乾いた倉か、
すぐ干せる場所へ回した方がいいです」
「そうやな。濡れた布団を配ったら支援やなくて嫌がらせや」
ヨイチが帳面に書き込む。
「白子、布団保管は不向き。乾いた倉と干し場が必要。雨よけ増設。荷置き場不足」
白子の若い料理番が言った。
「あと、港の者は濃い味を好みますが、城下から来る方は少し薄めを好まれます」
「港向けと城下向けで味を分ける必要があるな」
「はい」
「つみれ汁も、港向けは酒と味噌を少し強め。城下向けは出汁を立てて薄め。料理札に二通り書こう」
料理番たちは顔を明るくした。
「ありがとうございます」
「いや、礼言うほどのことやない。現場で困ってることは、聞かな分からんからな」
そこで、別の若い料理番が、少し遠慮がちに口を開いた。
「あの、旦那様」
「なんや」
「松坂で、師範代の催しをされると聞きました」
「ああ、まだ試しやけどな。料理人が飯を出して、客が竹串で評価して、上位を奥で見るやつや」
「めちゃくちゃ行きたいです」
「おお」
「ただ、白子から松阪となると、距離が……店も空けにくいですし」
「ああ、そうやな」
博之は茶を置き、少し考え込んだ。
「松阪だけでやるのは偏るな」
ヨイチがすぐに顔を上げた。
「旦那様、また何か始まりそうですね」
「始まるな」
お花が軽くため息をつく。
「白子で困りごとを聞いていただけなのに、また仕組みが増える流れですか」
「でも、これは自然や」
博之は白子の料理番たちを見た。
「白子には白子の飯がある。鳥羽には鳥羽の焼き魚がある。津には津の肉あんがある。
伊勢にはうなぎがある。松坂に来られるやつだけが師範代に近づけるっていうのは、ちょっと違う」
「では、各地でやると?」
ヨイチが筆を構える。
「そうや。師範代焼印会は、地方でもやれるようにしよう。松阪、伊勢、鳥羽、津、白子。
まずはこの辺からやな」
白子の料理番たちの顔が一気に明るくなる。
「白子でも、ですか」
「できるやろ。港飯として、つみれ汁、焼き魚、塩魚、酢の和え物。白子ならではの品目がある」
まとめ役が身を乗り出した。
「それは、皆かなり張り合いが出ると思います」
「やろ」
博之は指を折って説明し始めた。
「客は二百五十文。竹串五本を渡す。小皿か小椀で五品食べてもらう。
うまいと思った料理の箱に竹串を入れる。五品に一本ずつでもええし、
一番うまかったものに五本全部でもええ」
「一刻ごとの入替制ですね」
ヨイチが確認する。
「そう。朝から一刻ごとに札を分ける。前売り札にして、客を入れ替える。混んだら終わるからな」
「混みます」
お花が即答した。
「やっぱりか」
「白子でも絶対に来ます。港の者、城下の者、常連、料理人の身内。二百五十文は高いですが、
“伊勢松坂屋の腕試し飯が五品食べられる”となれば来る人はいます」
「白子でそんなに来るか」
「来ます」
ヨイチも頷いた。
「特に白子は、港の飯と城下の飯の違いがあるので、客側も面白がるでしょう」
「なるほどな」
博之は少し楽しそうに笑った。
「で、各刻が終わったら竹串を集計する。品目別や。焼き魚の部、つみれ汁の部、肉あんの部、
焼きおにぎりの部、港飯の部。白子なら白子用に分けてもええ」
「夜の部が終わった後に、上位者を奥で再審査ですね」
「そう。客に受けたかどうかと、店の味として任せられるかは別やからな。
わしらか、古参衆か、師範格の者が小皿で食べる。そこで良ければ師範代印や」
若い料理番が緊張した声で聞いた。
「師範代になったら、どうなるんですか」
「その料理をかなり任せられる者、という扱いやな。見習いや任せ印の者に手順を見せる。
師範の補助もする。いきなり師範ではないけど、教える側に近づく」
「師範は?」
別の料理番が聞く。
博之は少し真面目な顔になった。
「師範は、節目に決める」
「節目、ですか」
「そうや。年一とか月一とか、無理に決めん。不定期でええ。大きな拠点が増える時。京都へ行く前。
うなぎや穴子を大きく広げる時。港飯が一段育った時。師範代が十分増えて、
そろそろ上を決めてもええと思った時。そういう節目に、師範決めの会をやる」
お花が頷く。
「その方が自然ですね。無理に毎年やると、人数合わせになってしまいます」
「そう。師範は数合わせで出したらあかん」
博之は白子の者たちに向き直った。
「師範は名誉や。うまいだけではあかん。人に教えられる。怒鳴らない。材料が変わっても
調整できる。原価も見られる。下働きや女衆からの評判も悪くない。そこまで見て押す」
白子のまとめ役は、深く頭を下げた。
「では、普段は地方で師範代を育て、節目に師範を決める、ということですね」
「そうや」
ヨイチが帳面に大きく書いた。
「普段は師範代を育てる。節目に師範を決める」
「それやな」
お花が少し笑った。
「旦那様、今回は珍しく慎重ですね」
「師範は軽く出したらあかんやろ」
「そこは安心しました」
「でも師範代は、各地でどんどん育てたい。白子のつみれ汁なんか、かなり可能性あるで」
白子の料理番たちは、ぱっと顔を上げた。
「本当ですか」
「本当や。港の魚をちゃんと使ってる。酒の使い方も悪くない。あとは味を二通りに分けることと、
雨の日でも味が落ちないようにすることやな」
「はい!」
白子の者たちの士気は、明らかに上がっていた。
最初は、雨の日の荷置きや港と城下の味の違いという不満の話だった。
それが、いつの間にか白子でも師範代を目指せるという話になっている。
博之は、少し苦笑した。
「また仕組み増えたな」
夜市が淡々と言う。
「必要な仕組みです」
「そう言われると逃げられへん」
「逃げないでください」
お花が港の方を見ながら言った。
「でも、白子の人たちには良い話になりましたね」
「そうやな」
博之は茶を飲み干した。
「不満を聞きに来たら、腕の道も見えてきた。やっぱり歩く意味あるわ」
ヨイチが帳面を閉じる。
「白子のまとめとしては、雨よけ、荷置き、布団保管、港向けと城下向けの味分け、
そして地方師範代会の候補地、ですね」
「多いな」
「白子は重要です」
「北伊勢の海の口やからな」
白子の海風が吹いた。
料理番たちは、もう次のつみれ汁をどう改良するか話し始めている。焼き魚で出る者、
酢の和え物で挑む者、港飯の部を作ってほしいと言う者まで出てきた。
博之はその様子を見て、ぽつりと言った。
「飯の腕も、道やな」
「道ですか」
「うん。松坂だけにあってもあかん。白子には白子の腕がいる。鳥羽には鳥羽の腕がいる。
津には津の腕がいる。そうやって育てていかな、わし一人が食って焼印押してたら腹が持たん」
お花が笑った。
「最後はそこですか」
「大事やろ」
ヨイチは、帳面の端にまた書いた。
白子――港飯の師範代候補地。
普段は師範代を育てる。
節目に師範を決める。
博之は白子の港で、もう一杯だけ茶をもらった。
困りごとを聞きに来たはずが、また一つ、伊勢松坂屋の新しい仕組みが生まれた。
だが、それは白子の者たちにとっても、確かに希望になる話だった。