作品タイトル不明
博之、津、白子周辺の巡回旅にでる。各所、緊張しているものの、しっかりしている。見習い印、任せ印を押しながらじっくり回る。長野の殿様のその後
津、白子方面へ向かう朝、博之は少しだけ真面目な顔をしていた。
松阪から出て、街道沿いの拠点を見て、港外の飯場を回り、城下町に入って、最後に港を見る。
城下町で一泊し、翌日はまた別の筋を見ながら戻る。
ただの巡回と言えば、ただの巡回である。
けれど、博之の中では、鳥羽や伊勢を回った時とは少し違う重みがあった。
「先々、京都まで見ること考えたら、この辺の巡回も気を抜かれへんな」
そう言うと、ヨイチが頷いた。
「はい。津や白子は、伊勢湾沿いの道としても重要です。港、街道、北伊勢への流れ、
尾張や近江へ向かう道。どこが詰まるか、見ておく必要があります」
お花は、荷の確認をしながら言った。
「それに、旦那様が行くと現場が喜びますから」
「それ、最近よく言われるな」
「事実です」
「松坂やと、そんな感じないんやけどな」
「松坂は見慣れているだけです」
博之は苦笑しながら、ゆっくりと歩き始めた。
道中、最初に寄ったのは、街道沿いの小さな飯場だった。
旅人、荷運び、近隣の農民が立ち寄る場所で、焼きおにぎりと汁、少しの肉あんを出している。
博之が顔を出すと、店の者たちは一瞬で背筋を伸ばした。
「旦那様!」
「そんな固くならんでええって」
「いえ、まさか本当にお越しになるとは」
「来るって言うてたやろ」
「聞いてはおりましたが、やはり実際に来られると」
博之は椀を受け取り、汁を一口飲んだ。
「うん。味はええな。ちょっと塩が強いけど、街道沿いやからこれはありや」
料理番の顔が少し明るくなる。
「ただ、雨の日はどうしてる?」
その一言に、店の者たちが少し顔を見合わせた。
「やはり、そこが悩みでして」
「やっぱりか」
「雨が降ると、客が軒下に固まります。火も扱いにくく、荷物を置く場所も足りません」
夜市がすぐに帳面に書く。
「雨よけ、荷置き、火元の位置」
博之は飯場の周りを見て、少し考えた。
「小さい屋根を足すだけでも違うな。あと、濡れた客が入ってくるなら、床が滑るやろ」
「はい」
「そこも見とけ。雨の日に転ばれたら、飯以前の問題や」
「承知しました」
次の拠点では、焼き魚を出していた。
津の方から入る魚を使っているらしく、鳥羽とはまた違う焼き方だった。
博之は小さな皿で受け取り、一口食べた。
「これはええな」
料理番が息を呑む。
「本当ですか」
「皮が焦げすぎてへん。身も残ってる。任せ印でええんちゃうか」
ヨイチが少し目を細める。
「旦那様、軽く出しすぎでは」
「いや、これはええ。街道飯場で出す焼き魚としては十分や」
お花も一口食べて頷いた。
「私もよいと思います。塩もきつすぎません」
「ほら」
木札に焼印が押されると、店の者たちは小さく湧いた。
博之はその様子を見て、改めて思った。
「やっぱり歩く意味あるな」
ヨイチが顔を上げる。
「はい」
「帳面だけやと、雨の困りごととか、焼き魚の加減とか、現場の顔は見えへん」
「そのための巡回です」
「これ、面倒やけど定期的にやらなあかんな」
お花が少し笑った。
「旦那様がそう言うようになっただけでも、大きな進歩です」
「褒めてるんか、それ」
「もちろんです」
昼を過ぎる頃には、港外に近い飯場へ着いた。
ここは、街道と港の間にあるような場所で、荷運びの者が多い。干物、つみれ汁、
焼きおにぎりがよく出るという。
「港に近いと、魚は入りやすいか」
「はい。ただ、日によってばらつきます」
「そらそうやろな」
「あと、湿気が強いので、布団や古布を置くには向きません」
お花がすぐに反応した。
「それは大事です。布団は置かない方がよいですね」
「一時置きでも危ないか」
「雨の日や湿気の強い日は、避けるべきです」
ヨイチが書く。
「港外は布団保管に不向き。乾いた倉が必要」
博之は頷いた。
「船で布団を運ぶにしても、港に着いたらすぐ干せる場所がいるな。津や白子でそれを見とかなあかん」
そう話しながら、博之はつみれ汁を食べた。
「これはうまい。魚の臭みが少ない」
「酒を少し使っています」
「摂津の酒か?」
「はい。少量ですが」
「やっぱり酒は効くな」
博之は少し嬉しそうに言った。
「酒は飲ませるだけやない。こういうところで効く」
港へ向かう道では、荷車が行き交っていた。
米、味噌、干物、木材、小さな甕、古布。すべてが一度に大量というわけではないが、少しずつ、
確実に流れている。
博之は道端で立ち止まり、荷の流れを見た。
「この流れも相場板に入れなあかんな」
「はい。津、白子、港外の相場は別に見る必要があります」
「街道の値と港の値は違うやろうしな」
「違います」
「同じ津でも、城下町、港、郊外で値が違うかもしれん」
「そこまで見られれば、かなり強いです」
そんな話をしながら、一行は夕方前に津の城下町へ入った。
城下町の店は、松坂本店ほど大きくはないが、整っていた。人の流れもあり、街道客、地元の者、
城下の使い走り、職人たちが入ってくる。
博之が来ると、やはり店の空気が引き締まった。
「旦那様、ようこそお越しくださいました」
「今日は泊まるからな。普段どおり見せてくれ」
「はい」
店で出された飯は、堅実だった。
肉あん、焼き魚、つみれ汁、焼きおにぎり、少しのうなぎ飯。派手さはないが、安定している。
「城下町の店やな」
博之はそう言った。
「港の荒さとも違うし、街道沿いの腹にたまる飯とも違う。ちょっと整ってる」
ヨイチが頷く。
「城下町では、見た目も少し必要です」
「そうやな。ここは任せ印持ちを増やした方がええ」
食後、店の者たちと話していると、長野の殿様の話が出た。
「あの方、最近どうしてるんや」
博之が聞くと、店の者たちは少し苦笑した。
「基本は、あまり表には出てこられません」
「布団から出てこーへんのか」
「はい。ですが、時々お小遣いを持って、うなぎ屋に来られます」
「うなぎ屋に?」
「はい。静かに来られて、うなぎを食べて、“うまいな”と仰って、また帰られます」
博之は少しだけ笑った。
「そうか」
いろいろあった。
長野のことも、北畠のことも、蟹江のことも、織田のことも。飯屋で済ませるには、
あまりに多くのものに巻き込まれてきた。
それでも、あの人が今、ふらりとうなぎを食べに来て、うまいと言って帰る。
それは、悪くなかった。
「なんやかんやあったけど、うちの飯を気に入ってくれてるなら、よかったな」
お花が静かに頷いた。
「飯が残るのは、よいことです」
「ほんまやな」
夜、博之は城下町の店の奥に用意された寝床に入った。
特別な屋敷ではない。
普通の城下町の店の奥の一室である。畳も少し古い。壁も薄い。外からは、店仕舞いの音や、
夜の通りの声が聞こえる。
けれど、こういう場所で一泊することにも意味がある。
博之が泊まる。
それだけで、現場は緊張し、また励みにもなる。
「旦那様、寝床は大丈夫ですか」
お花が聞いた。
「十分や」
「布団、置きますか」
「置きたいけど、増えすぎるな」
ヨイチが淡々と言う。
「必要なら管理します」
「管理されるほど俺の布団が増えていくの、なんか嫌やな」
「もう増えています」
「それはそう」
博之は布団に横になった。
津の城下町の夜は、松坂とも鳥羽とも違う。
港の匂いは少し遠い。
城下の落ち着きと、街道の気配が混じっている。
明日は港をもう少し見て、白子方面へ向かう。
その先には、さらに北伊勢、近江、京都がある。
気を抜ける旅ではない。
けれど、今日一日歩いただけでも、雨の悩み、港外の湿気、城下町の飯、長野のその様のうなぎ話、
いろいろ拾えた。
「歩く意味は、やっぱりあるな」
博之が呟くと、隣の部屋からお花の声が返ってきた。
「あります。だから、明日も歩いてください」
「ほどほどにな」
「ほどほどに、しっかりです」
「難しいこと言うな」
店の奥に、小さな笑いが落ちた。
博之は目を閉じた。
松坂本店でごろごろしているだけでは、見えないものがある。
津には津の飯があり、津の困りごとがあり、津の人がいる。
それを見て、聞いて、食べて、寝る。
それが、今の博之に必要な仕事だった。