作品タイトル不明
博之巡回2日目。鳥羽の城下町から陸路で郊外→伊勢郊外→伊勢城下町。道々で話を聞きお寺を回り顔出すだけでも様子がわかるしみんなの気持ちが乗る
鳥羽の城下を出たのは、朝の空気がまだ少し湿っている頃だった。
前の日に港を見て、朝には鳥羽の若い料理番たちの飯を食べ、焼き魚や肉あんに焼印を出した。
博之としては、少し見て、少し食べて、少し話しただけのつもりだったが、鳥羽の者たちにとっては
大きな出来事だったらしい。
見送りに出てきた若い衆は、皆どこか背筋が伸びていた。
「旦那様、また来てください!」
「今度までに、もっと魚の焼き方を詰めておきます!」
「すり身も、もう少し崩れないようにします!」
「お、おう。無理せん程度にな」
博之がそう返すと、皆が一斉に頭を下げた。
その様子を見て、博之は少しだけ首をかしげる。
「俺、そんな緊張するような人間かな」
横を歩くお花が、すぐに答えた。
「松坂の人は見慣れているだけです」
「そんなもんか」
「はい。松坂では畳でごろごろしている旦那様を皆見ていますから」
「それは言わんでええ」
ヨイチも淡々と言った。
「鳥羽や伊勢の外れの拠点から見れば、旦那様は伊勢松坂屋の大旦那です。
どえらい物流と銭と飯を動かしている方です」
「大旦那って言われると、むずがゆいな」
「実際そうです」
「松坂でも、たまにはそういう扱いしてくれてもええんやで」
お花がにこりと笑った。
「旦那様がだらしなさすぎるので、それは無理です」
「ひどいな」
「本当のことです」
鳥羽の郊外へ出ると、港の喧騒は少しずつ遠ざかった。
道沿いには小さな集落があり、伊勢松坂屋の小さな飯場や茶の出し場がぽつぽつと置かれている。
大きな横丁ではない。旅人や船待ちの者、近くの農民や漁師が、少し休める程度の場所だった。
博之たちは、その一つ一つに顔を出した。
「旦那様!」
茶を出していた女衆が、慌てて立ち上がる。
「そのままでええ、そのままで」
「いえ、あの、お茶を」
「お茶はもらう。けど、固くなるなって」
そう言いながら座ると、周囲の者たちは少しずつ緊張をほどいた。
博之は茶を飲み、焼きおにぎりを一口食べ、店の様子を見た。
「困ってることあるか」
「今のところ、大きなものはありません。ただ、雨の日に客を逃がす場所が少し狭いです」
「屋根か。ヨイチ、書いといて」
「はい」
「飯の方は?」
「鳥羽の港から来る干物がよく売れます」
「ええな。鳥羽で焼き魚の印を出したから、こっちにも焼き方を伝えてもらえ」
「はい!」
別の小さな飯場では、つみれ汁を出していた。
そこでも、博之が来ると一瞬場が固まった。
「いや、だからそんな緊張せんでええって」
「無理です」
若い男が即答した。
「旦那様に直接見られることなんて、そうありませんから」
「そういうもんか」
「そういうものです」
お花が横から言う。
「旦那様、普段見られない方が来ると、皆こうなります」
「松坂やと、わしが見ても誰も固まらへんのにな」
「松坂では、旦那様が寝転がっている横で仕事していますから」
「それはそれで問題やな」
皆が少し笑った。
そうやって、一つの拠点ごとに少しずつ足を止める。
茶を飲む。
飯を一口食べる。
焼き加減を見る。
客の流れを見る。
布団寄進や冬支度の話をする。
大きな指示を出すというより、ただ顔を出して、声をかけて、足りないものを聞いていく。
それだけで、現場の空気は少し明るくなった。
途中、道沿いの小さな寺にも寄った。
伊勢松坂屋が炊き出しで世話になっている寺で、住職は博之を見るなり、深く頭を下げた。
「これは旦那様。よくお越しくださいました」
「通り道やったので。最近、足りないものありますか」
「飯の方は、本当に助かっております。粥や汁だけでなく、時々つみれや焼きおにぎりまで
出していただけるので、来る者の顔つきが変わりました」
「それはよかったです」
「ただ、最近お話に出ている寝床の件。あれは、もし進むなら大変ありがたいです」
「布団と枕ですね」
「はい。特に冬場は、年寄りと幼い子が冷えます。飯を食べても、夜に冷えてしまう者がおります」
博之は頷いた。
「今、全拠点で半月一万文くらいずつ、安い布団や古布、枕布を買うつもりでいます。
高級なものではないですけど、雑魚寝用とか、子どもや年寄り向けに使えればと」
住職の顔が明るくなった。
「それは、本当に喜ばれるでしょう」
「ただし、揉めたら止めます」
博之ははっきり言った。
「誰がもらった、誰がもらってないで揉めるなら本意じゃない。寺で帳面をつけてもらって、
年寄り、病人、子ども連れを優先して、残りは順番やくじでお願いします」
「承知しました」
「あと、受け取るだけやと施しになりすぎるので、できる人には掃除とか、炊き出しの手伝いとか、
布団干しとか、そういうことを一緒にやってもらえたら」
「よい形だと思います」
住職は少し笑った。
「強いて困っていることを言えば、飯がうまくなりすぎて困ることですな」
「それは困るな」
博之も笑った。
「急にうちがやめたら、不満が溜まりますね」
「ええ。前の粥には戻れん、などと言われたら困ります」
「そこはほどほどにします」
「ほどほどで、あれだけうまいのですから困るのです」
座に笑いが広がった。
また道を進む。
鳥羽の郊外から伊勢の郊外へ。
伊勢神宮には寄らず、今回は城下町側へゆっくり向かう。道中の拠点を見て回るのが目的だった。
お花は途中で言った。
「旦那様、こうして回るのは大事ですね」
「そうやな」
「帳面だけでは分からないことがあります」
「実際に見ると、鳥羽は鳥羽、伊勢の外れは伊勢の外れで違うな」
ヨイチも頷く。
「拠点ごとに必要なものが違います。港は魚と湿気。郊外は雨よけと寝床。城下町は人の流れと品揃え」
「全部同じではあかんな」
「はい」
夕方近く、伊勢の城下町側の屋敷へ着いた。
ここは鳥羽ほど潮の匂いは強くないが、人の流れは多い。参拝客、商人、職人、寺社の使い。
伊勢松坂屋の店も、鳥羽よりは整っている。
博之は屋敷に入るなり、荷から自分用の布団を出させた。
「これ、ここにも置いとくわ」
お花が呆れたように見る。
「鳥羽に続いて、伊勢にもですか」
「巡回するなら寝床がいるやろ」
ヨイチが静かに言った。
「旦那様、どんどん寝床が増えて嬉しそうですね」
「そら嬉しいやろ。自分の布団があると落ち着く」
「伊勢松坂屋の各拠点に、旦那様の寝床ができていきますね」
「それも運用や」
「本音は?」
「寝やすい」
お花が笑った。
「正直でよろしいです」
布団を置く場所を決め、湿気が来ないように風通しのいい部屋にした。女衆が布団を広げ、
枕を整える。
「ちゃんと干してな。濡れたら泣くからな」
「はい、旦那様」
「港と違ってここはまだましか」
「それでも湿気はあります」
「布団は大事や」
ヨイチが帳面に書いた。
「旦那様用布団、鳥羽、伊勢城下町に配置」
「そんなことまで書かんでええ」
「管理が必要です」
「俺の布団まで帳面に載るんか」
「伊勢松坂屋の備品です」
「備品扱いか」
お花が笑う。
「旦那様も、だいぶ店の一部ですから」
「いや、俺が店主や」
「店主兼備品です」
「ひどい」
その夜、伊勢の城下町側の屋敷でも、簡単な話し合いが行われた。
今日見た拠点の足りないもの。
雨よけ。
布団寄進の帳面。
焼印持ちの巡回。
鳥羽から来る魚の扱い。
伊勢城下で売れる飯の元。
話は多かったが、博之は不思議と疲れ切ってはいなかった。
各地の者たちが、自分たちなりに考えている。
自分の顔を見て緊張はするが、それでも「これを見てほしい」「これが足りない」と言ってくる。
それが嬉しかった。
「俺、やっぱり回らなあかんな」
博之が呟くと、夜市が頷いた。
「はい。毎回でなくても、たまには」
「松坂でごろごろしてるだけでは分からんことがある」
「その通りです」
お花が茶を出しながら言った。
「ただ、巡回先に布団を増やすのは、ほどほどにしてください」
「それは約束できへんな」
「でしょうね」
座敷に笑いが起きた。
鳥羽から伊勢へ。
たった一日のゆっくりした移動だった。
だが、博之にとっては、伊勢松坂屋が本当に各地で根を張り始めていることを感じる一日だった。
店は帳面の数字だけではない。
港の焼き魚。
郊外のつみれ汁。
寺の布団の話。
緊張する若い衆。
茶を出す女衆。
そして、少しずつ増えていく自分の寝床。
博之は伊勢の屋敷の布団に腰を下ろし、小さく笑った。
「まあ、悪くないな」
お花がすぐに言った。
「その笑い方は、少しましです」
「少しだけか」
「はい」
外では、伊勢の城下町の夜の音がしていた。
松坂へ戻るのは、明日でいい。
今夜はこの新しい寝床で眠る。
博之は布団に横になりながら、また一つ、自分の帰る場所が増えたような気がしていた。