作品タイトル不明
博之44才8月1週目。帳簿締め。4億1,122万文→4億4,234万文。うなぎと穴子と海鮮焼き分の売り上げあがる。問題は人
「旦那様、とりあえず締めておきましょうか」
ヨイチが帳面を抱えて、静かに声をかけてきた。
博之は畳の上で横になったまま、嫌そうに顔をしかめる。
「来たか。楽しくない帳簿の時間」
「楽しい帳簿の時間です」
「楽しくないから、適当にやろう」
「適当にやったら店が潰れます」
「ヨイチ、最近そういう返し早いな」
「旦那様が毎回同じことを言うからです」
お花が横で茶を置きながら笑った。
「旦那様、諦めてください。帳簿からは逃げられません」
「逃げたいんやけどなあ」
そう言いながらも、博之はむくりと起き上がった。
前回、伊勢松坂屋は全拠点を洗い出した。
松坂、伊勢、津、鳥羽、白子、伊賀、熱田、津島、瀬戸、京都、堺、大和、近江。
飯屋、横丁、市、炊き出し、買い付け、うなぎ、穴子、海鮮焼き。
もう「飯屋です」と言い張るには、だいぶ無理がある規模になっていた。
「今回は、前回の洗い出しを基準にして、ざっくり増えた分だけ見ます」
ヨイチが言った。
「減った分はないんかい」
「ありません」
「ないんか」
「新しい大きな拠点を作ったわけではありませんし、既存拠点で大きく落ちたところもありません」
「それはええことやな」
「はい。今回は、新規の立ち上げというより、既存拠点に商品が増えた分の上乗せです」
ヨイチは帳面を開いた。
「まず、津、鳥羽、白子、八木、高田。このあたりは、うなぎ、あるいは穴子の店を増やしたことで、
利益が出ています」
「津と鳥羽は分かる。白子も海沿いやしな。八木と高田は、うなぎか」
「はい。特に八木は、三輪そうめんや流しそうめんの催しもあり、人の流れが良くなっています。
そこにうなぎを少し置くと、思ったより売れました」
「高い飯を食う流れができてきたんやな」
「そうです。高単価の飯が、一部の拠点で回り始めています」
ヨイチは次の紙をめくった。
「次に、津島と堺です。こちらは、海鮮焼きですが、それを増やしたことで利益が出ています」
「あれは匂いが強いからな」
「はい。焼ける匂いで人が寄ります。堺の港横丁では、すり身揚げ、マグロ煮に加えて、
海鮮焼きがかなり効いています」
「藤井寺から鉄板持ってきたやつか」
「それです」
「やっぱり鉄板は強いな」
「強いですが、鉄板代もかかっています」
「そこは聞きたくない」
「聞いてください」
ヨイチは淡々と続けた。
「津、鳥羽、白子、八木、高田、津島、堺。これらの上乗せ分を合計して、
半月で百九十万文の増加です」
「百九十万文か」
博之は腕を組んだ。
「もう、いちいちびっくりするのも飽きたわ」
「飽きないでください」
「いや、昔なら百九十万文とか聞いたらひっくり返ってたやろ」
「今でも十分大きいです」
「それはそうやけど、桁がおかしくなってきた」
ヨイチは無視して計算を進める。
「前回の拠点ベースが二千四百七万文でした」
「うん」
「そこに今回の増加分、百九十万文を足します」
「二千五百九十七万文か」
「はい。拠点利益は、二千五百九十七万文です」
お花が小さく息を吐いた。
「本当に大きな店になりましたね」
「飯屋やけどな」
「飯屋の規模ではありません」
「そこはもう言わんといてくれ」
ヨイチはさらに帳面をめくった。
「次に買い付けです。今回の買い付け利益は、一千七十五万文です」
「前と同じくらいか」
「はい。瀬戸物、信楽焼、常滑焼、伊勢小物、干物、布団、古布、各地の食材が安定して回っています」
「布団も買い付けに入ってきたな」
「冬支度寄進分は、別で引きます」
「そうやったな」
「買い付け利益一千七十五万文から、まず遊び代三十万文を引きます」
「半月三十万文の遊び金な」
「はい」
「これ、ほんまに遊び代でええんかな」
「流しそうめん、西瓜割り、季節催し、各拠点の試作に使われています。十分、意味はあります」
「そう言われると救われるな」
「次に、布団代三十万文を引きます」
博之は少し頷いた。
「冬支度寄進やな」
「はい。全拠点で半月一万文程度。安い布団、藁布団、枕、枕布、古布、敷物を買っています」
「これは削らんでええ」
「承知しています」
「冬までに、ある程度揃えたいからな」
「はい」
ヨイチはさらに続けた。
「そして今回、鉄板代や諸々の雑費として、五百万文を引きます」
博之が固まった。
「雑費五百万文ってなんやねん」
「雑費です」
「雑すぎるやろ」
「旦那様が雑に増やしたものの費用です」
「ひどい」
「鉄板、型、料理札の試作、木札、焼印の準備、布団運搬、堺港横丁の追加整備、
海鮮焼きの器、穴子用の揚げ場、その他細々したものです」
「細々して五百万文か」
「辛めに見ています」
「辛めというか、もう小さい拠点一つ作れるやろ」
「だから雑費としてまとめて引いています。後で細かく分けます」
お花が苦笑した。
「旦那様、仕組みを増やすと見えない費用も増えます」
「分かってるけど、五百万文は心に来るな」
「でも、それを引いても利益は出ています」
ヨイチは筆で数字を示した。
「拠点利益二千五百九十七万文。買い付け利益一千七十五万文。合計三千六百七十二万文」
「うん」
「そこから、遊び代三十万文、布団代三十万文、雑費五百万文を引きます」
「五百六十万文引きか」
「はい」
「で?」
「三千百十二万文のプラスです」
博之は少し黙った。
「……雑費五百万文引いて、三千百十二万文残るんか」
「はい」
「なんかもう、怖いな」
「怖がってください」
ヨイチは冷静だった。
「そして、前回までの累計が四億一千百二十二万文です」
「四億一千百二十二万文やったか」
「はい」
「それに三千百十二万文足すと」
「四億四千二百三十四万文です」
座敷が少し静かになった。
博之は、しばらく天井を見た。
「四億四千二百三十四万文」
「はい」
「もう、四億四千万文くらいでええな」
「駄目です」
「細かいなあ」
「二百三十四万文を消さないでください」
「二百三十四万文も、昔なら大金やったな」
「今でも大金です」
「そうやな」
博之は、少し真面目な顔になった。
四億文を超える銭。
それは、ただの飯屋の金ではない。
炊き出しを続け、寺社に寄進し、寝具を買い、職人を育て、各地の品を回し、
人を雇い続けるための力だった。
「まあ、数字は順調なんやな」
「はい。拠点は順調です」
ヨイチは、そこで少しだけ表情を引き締めた。
「ただし、課題は人です」
「やっぱりそこか」
「はい。拠点を新しく出すだけなら、銭である程度できます。しかし、店をきちんと回すには
人が要ります。料理人、料理頭、帳場、女衆まとめ、現場まとめ。特に、焼印を持った者を
増やさないと、今後は厳しいです」
博之は頷いた。
「うなぎ任せ印、穴子任せ印、海鮮焼き任せ印。そういうやつやな」
「はい。今は旦那様の目が届く範囲で何とかしていますが、熱田、堺、京都、尾張方面まで増えると、
旦那様本人が毎回行くのは無理です」
「それはほんまにしんどい」
「なので、飯の本、料理札、焼印、料理話家会。この仕組み代は、今後さらにかかります」
「また引くんか」
「引きます」
「どれくらい」
「まだ見積もり中です」
「怖いな」
「怖がってください」
お花が静かに言った。
「でも、人を育てる費用は、削らない方がいいと思います」
「そうやな」
博之は素直に頷いた。
「店がでかくなっても、人が育ってへんかったら、砂の城や」
「はい」
「うなぎも穴子も海鮮焼きも、味が崩れたら終わりやしな」
ヨイチが帳面を閉じた。
「今回の締めとしては、資産は四億四千二百三十四万文。雑費五百万文を辛めに
引いた上でこの数字です。拠点は順調。ただし、次の課題は人材育成です」
「分かった」
博之は大きく息を吐いた。
「金はある。飯も回ってる。けど、人を育てなあかん」
「はい」
「料理頭、焼印、料理札、料理話家会。面倒やけど、やるしかないな」
お花が笑った。
「旦那様、また仕組みですね」
「ほんま仕組みばっかりや」
「でも、必要です」
「分かってる」
博之は畳にごろんと寝転がった。
「しかし、締めるたびに仕事が増えるな」
ヨイチが即答した。
「見えていなかった仕事が見えただけです」
「それが嫌なんや」
「見ないと潰れます」
「はい」
座敷に笑いが広がった。
四億四千二百三十四万文。
数字だけ見れば、とんでもない大商いである。
けれど、その裏には、まだ育ちきらない料理人、増え続ける拠点、冬支度の布団、
鉄板代、料理札、焼印、そして博之の思いつきがあった。
博之は目を閉じながら、ぼそりと言った。
「次は、人やな」
夜市が静かに頷く。
「はい。次は、人です」
お花も続ける。
「飯を残すには、人を残さないといけませんから」
博之は少しだけ笑った。
「飯屋も大変やな」
「今さらです」
「ほんま、今さらやな」
そう言いながらも、博之の顔には、少しだけ腹をくくったような色があった。