作品タイトル不明
松坂郊外の和尚さんにお弁当と寄進を持っていって最近の悩みを聞いてもらう。悩みを吐き出せる場所をたくさん作った方がいいよ!
博之は、松坂郊外の寺へ向かう前に、弁当をいくつか包ませた。
それから炊き出し用の米と味噌も少し持たせる。
お花がそれを見て、すぐに察した。
「旦那様、また和尚様のところへ相談に行くんですね」
「……顔に出てるか」
「お弁当を持って行く時は、だいたい悩み相談です」
「みんな言い方がきついな」
そう言いながらも、博之は否定しなかった。
向かった先は、いつも世話になっている郊外の寺だった。
和尚さんは、博之の姿を見ると、にこりと笑った。
「おや、旦那様。今日はずいぶん立派なお弁当ですな」
「たまにはええでしょう」
「旦那様がお弁当を持ってこられる時は、だいたい悩み相談ですな」
「和尚様までそれ言いますか」
博之は苦笑しながら、座敷へ上がった。
弁当を広げ、炊き出し用の米と味噌も渡す。
和尚さんは手を合わせた。
「ありがたいことです。こちらも助かります」
「その代わり、ちょっと話を聞いてください」
「ええ。聞きましょう」
博之は、しばらく黙ってから、信長との一連の流れを話し始めた。
うなぎを出したこと。
穴子を出したこと。
話家見習い会を見せたこと。
買い付け係が、大和、堺、京都、近江、尾張の話をして、客が竹串を入れる仕組み。
それを信長が面白がったこと。
そして、東美濃で炊き出しや話家を使えば、人の心に染み込ませられるのではないかと言われたこと。
「要はですね」
博之は湯呑みを見つめながら言った。
「私が、よかれと思ってやってることが、軍事利用できるって話になったんです」
和尚さんは黙って聞いている。
「国境のあたりで人を雇う。炊き出しをする。土地の料理を聞く。一緒に作る。尾張は豊かや、
織田は銭払いがええ、そういう話を少しずつ広げる。で、不満の芽を見つける。そこへ軍勢を出して
荒らしに行く。二段構えやと」
「なるほど」
「信長公からすれば、領土を刈り取りに行くには、すごく理にかなってるんやと思います。
多分、時間はかかるでしょうけど」
博之は、深く息を吐いた。
「でも、私はそれが嫌なんです」
和尚さんは、静かに頷いた。
「嫌ですか」
「嫌です」
博之は、はっきり言った。
「私は、楽しくやれればええなと思ってたんです。話家会も、買い付け係の話を聞いたら
面白いやろうと。普段の寄進も、昔お世話になったからやってるだけです」
「はい」
「格式高い寺にだけ銭を積みたいわけやないんです。身の回りで暮らせへん人と仲良くやって、
炊き出しして、ちょっと変わった市を出して、みんなが“今日はええ日やったな”と思って帰る。
そういうのがええなと思ってたんです」
和尚さんは、弁当の蓋を閉じず、じっと博之を見ていた。
博之は続けた。
「それが、伊勢や松坂では許されてたんかなって。北畠様の器が広かったのか、伊勢や松坂の
城主様が面白がってくれてたのか。あるいは、ここは比較的安定していて、
そういうものを軍事利用しなくても済んでいたのか」
「ふむ」
「北伊勢はふわふわしてますけど、少なくとも松坂や伊勢では、私が炊き出しをしても、
話家会をしても、すぐ“それをどう攻めに使うか”とは言われませんでした」
「そうですな」
「でも、尾張で信長公と話すと、全部が戦に繋がる。飯も、話も、炊き出しも、寄進も」
博之は苦笑した。
「もちろん、あちらは戦国の大名ですから、当たり前なのかもしれません。でも、なんか、冷めました」
「冷めた」
「はい。自分のやってることが、そっちへ持っていかれるのが、本意じゃないんです」
和尚さんは、少しだけ目を細めた。
「それは、嫌なものは嫌なのではありませんか」
「そうなんですかね」
「そうでしょう」
和尚さんは、静かに言った。
「ただ、その本意ではないということを、殿様に伝えても、結局は無駄なところもありましょうな」
「無駄ですか」
「殿様ですから」
和尚さんは、少し笑った。
「信長公は、信長公の目で世を見ます。飯が人を集めるなら、戦にも使えると見る。
話が人に染みるなら、調略にも使えると見る。それは、止められぬでしょう」
「やっぱりそうですよね」
「ですが、本意ではない使われ方をされるたびに旦那様が消耗していくと、本来の目的を見失います」
その言葉に、博之は黙った。
和尚さんは続けた。
「旦那様は、新しい飯を作る。交通網を広げる。新しい品を手に入れる。それを順々に買い付け、
回し、みんなが少し楽しく暮らせるようにする。私は、そちらの方が好きですな」
「私も、そっちがいいです」
「みんなが旅をして、伊勢神宮参りに行ってよかったなと思える。茶を飲み、土産を買い、
帰り道にまた誰かへ話す。そういう日々が増える方が、私はよいと思います」
和尚さんは、少し遠くを見るような顔をした。
「もちろん、それには政治が安定し、天下が安定することも必要なのでしょう。理想と現実は
難しいものです」
「はい」
「だから、折り合いをつけていかねばなりません」
博之は、湯呑みを両手で包んだ。
「どう折り合いをつけたらええんですかね」
「それは、旦那様の胸の内にしか分かりません」
和尚さんは、あっさり言った。
「ここまで大きな店になれば、旦那様が判断せねばならぬことも多いでしょう。
誰と付き合うか。どこまで協力するか。何は断るか。気苦労も多いと思います」
「多いです」
「でしょうな」
和尚さんは少し笑った。
「ですから、まずは溜め込まないことです」
「溜め込まない」
「ええ。綺麗な言葉でなくてもよい。腹の底から出る言葉でもよい。ぼろっと吐き出せる場所を、
たくさん作っておきなされ」
博之は、ゆっくり顔を上げた。
「吐き出せる場所ですか」
「そうです。お花殿でも、夜市殿でも、松坂のお殿様でも、伊勢の城主でも、
私のような坊主でもよい。旦那様が“これは嫌だ”“これは怖い”“これは違う”と言える場所を、
いくつも持っておくことです」
和尚さんは、穏やかに続けた。
「答えは、聞く者が出すものではありません。最後は旦那様が決める。ただ、
吐き出さずに抱え込むと、決める前に心が擦り切れます」
博之は、しばらく黙っていた。
それから、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。和尚様と話すと、気持ちが楽になります」
「それはよかった」
和尚さんは、そこで弁当を一つ開けた。
「それに、こちらもありがたいですぞ。こうしてお弁当を持ってきてくださる。炊き出しも
してくださる。寄進もある。おかげで寺の懐は軽くなります」
博之は思わず笑った。
「うまい返しですけど、俗物的ですね」
「ええ。私は俗物です」
和尚さんは、悪びれずに笑った。
「きれいごとだけでは寺は回りません。米も味噌も薪も要ります。伊勢松坂屋様様です」
「和尚様、それ言うたらありがたみが薄れますよ」
「ありがたいから言うております」
和尚さんは弁当を一口食べて、満足そうに頷いた。
「うまい。悩み相談の弁当は、いつも少し豪華ですな」
「そこ見抜かんといてください」
「なんぼでも来てください。弁当付きなら、特に歓迎いたします」
「ほんま俗物ですね」
「俗物で結構」
二人は笑った。
笑いながらも、博之の胸の重さは少しだけ軽くなっていた。
信長公のこと。
話家会のこと。
炊き出しが戦に使われること。
それを全部すぐに解決できるわけではない。
だが、自分が嫌だと思っていることを、嫌だと言えた。
それだけで、少し息がしやすくなった。
帰り際、和尚さんは博之に言った。
「旦那様」
「はい」
「飯は薬にも毒にもなる、とおっしゃったそうですな」
「はい」
「ならば、旦那様自身にも、薬になる飯と話を忘れぬことです」
博之は、少し笑った。
「それ、ええ言葉ですね」
「では、次の弁当にその分を上乗せしておいてください」
「やっぱり俗物やないですか」
また二人で笑った。
寺を出る頃、空は少し赤くなっていた。
博之は、少しだけ背筋を伸ばして歩き出した。
答えはまだ出ていない。
けれど、溜め込まずに話せる場所がある。
それだけでも、今は十分ありがたかった。