作品タイトル不明
挨拶頻度が減った伊勢神宮と伊勢の城主に挨拶。若干拗ねられたものの料理に満足いただける。
伊勢神宮と、伊勢で世話になっている城主のところへ、そろそろ挨拶に行かないといけない。
博之は、そう思っていた。
信長公を伊勢神宮へ案内してからというもの、熱田、瀬戸、津島、松坂、九鬼水軍と、
あちこちを走り回っている。うなぎを作り、穴子を試し、瀬戸物を買い付け、熱田の門前を整え、
気づけば伊勢への挨拶が後回しになっていた。
「これは、さすがにあかんな」
博之はそう言って、伊勢へ向かう支度を始めた。
ただ顔を出すだけではない。
うな重とうなぎ巻。
それから、最近試し始めた穴子の白焼きと天ぷら。
それらを作れるよう、材料と料理人を連れていく。伊勢の港で魚を整え、調味料や卵、
米も用意し、伊勢神宮と伊勢の城主のところへ、きちんと筋を通すつもりだった。
「挨拶やからな。手ぶらでは行かれへん」
博之が言うと、お花が横で笑った。
「旦那様の場合、挨拶というより試食会になりがちですけどね」
「それは向こうが食べるからや」
「食べたくなるものを持って行くからです」
「それを言われると弱い」
そうして博之は、まず伊勢神宮へ向かった。
伊勢神宮の関係者たちは、博之の顔を見るなり、どこかほっとしたような、少し拗ねたような顔をした。
「ようやく来ましたな」
「申し訳ございません。あちこち呼ばれておりまして」
「こちらでも、うなぎ屋を始めたという噂は聞いております」
「はい。まだ育てている最中ですが」
「しかし、全然顔を見せられぬので、少し寂しかったですぞ」
そう言われて、博之は苦笑した。
「本当に申し訳ありません。熱田や尾張の方で、話が大きくなりまして」
まずは、うな重とうなぎ巻を出した。
炭火で焼いたうなぎに、甘辛いタレを塗る。飯に乗せれば、香りだけで場が静かになる。
う巻は、出汁を含ませた卵でうなぎを巻き、酒にも茶にも合うように整えてある。
一口食べた神宮の者は、素直に頷いた。
「相変わらず、うまいですな」
「ありがとうございます」
「伊勢でも、これは受けるでしょう」
「はい。こちらでも少しずつ出していきたいと思っています。ただ、
職人を育てるのに時間がかかります」
「熱田でも、これを?」
「はい」
博之は少し肩を落とした。
「そもそも、信長公に言われたんです。熱田神宮を、伊勢神宮のようにできないかと」
その場が、どっと笑いに包まれた。
「それは、すぐにはできませぬな」
「おっしゃる通りです」
博之も苦笑した。
「見に行きましたけど、熱田は熱田で格式はあります。ただ、伊勢と違って、門前の熱がまだ薄い。参って帰るだけの人も多い。その分、余白はあります。やりようはある。ただ、一気には無理です」
「余白がある、ですか」
「はい。肉あん、蜂蜜柚子湯、常設市、寝転び処。そういうものを少しずつ置いています。
その柱に、うなぎを据えようとしています」
「それで、うなぎですか」
「熱田は川筋にも近いですし、津島からも動かせます。場所に合う飯を作るなら、
うなぎは強いと思いました」
博之は、そこで少し顔をしかめた。
「ただ、それを松坂で試していたら、信長公に“風の噂で聞いたぞ”と言われまして」
「怒られましたか」
「怒られました。というか、拗ねられました」
また笑いが起きた。
「それで、うなぎを持って行ったんです。食べてもらったら、かなり召し上がっていただけました」
「よかったではありませんか」
「よかったんですけど、今度は穴子が危ないんです」
「穴子?」
「九鬼水軍から、“うなぎができるなら穴子もなんとかならんか”と言われまして」
博之は、穴子の白焼きを出した。
蒸してふっくらさせ、薄くタレを塗って軽く炙ったものだ。
神宮の者たちは、最初は珍しそうに見ていたが、一口食べると表情を変えた。
「これは、うなぎとは違いますな」
「はい。うなぎは香ばしさと脂で押します。穴子は、蒸してふわっとさせた方がよいです」
「酒に合いますな」
「飯にも合います。ただ、本命は天ぷらかもしれません」
続いて、穴子の天ぷらを出した。
本来は、野菜天と一緒に丼にして、穴子の半身をどんと乗せるつもりである。
今回は挨拶なので量を抑え、天ぷらだけで出した。
衣をまとった穴子を、つゆにくぐらせる。
一口食べた者が、思わず目を細めた。
「……これは、うまい」
「穴子も、侮れませんな」
「うなぎはうなぎ。穴子は穴子で、別の楽しみがあります」
「ますます楽しみが増えますな」
「松坂のお殿様にも、同じことを言われました」
博之は苦笑した。
「ただ、楽しみが増えるたびに、私の仕事も増えるんです」
神宮への挨拶を終えると、博之は伊勢の城主のところへ向かった。
こちらも、伊勢松坂屋が伊勢で商いを続ける上では欠かせない相手である。
博之は深く頭を下げた。
「ご無沙汰してしまい、申し訳ございません」
城主は、少し呆れたように笑った。
「噂ばかりが先に来ておるぞ。熱田、瀬戸、うなぎ、穴子、信長公。どこまで行くつもりや」
「私にも分かりません」
「分からんまま進んでおるのが、お前らしい」
城主にも、うな重とうなぎ巻、穴子の白焼き、穴子の天ぷらを出した。
食べながら、城主は静かに頷いた。
「うまい。だが、これは簡単ではないな」
「はい」
博之は即答した。
「うなぎは、ぬめりを取って、開いて、骨を外して、軽く焼いて、蒸して、また焼いて、
タレを塗る。蒸し時間、焼き加減、タレの濃さ、全部で味が変わります」
「穴子もか」
「穴子は穴子で違います。蒸し具合、水気の飛ばし方、衣の厚さ、つゆの濃さ。
うなぎの真似をすると違うものになります」
「なるほどな」
「高い飯は、特に難しいんです」
博之は続けた。
「安い飯なら、多少ぶれても“まあ、こんなもんか”で済むこともあります。でも高い飯は違います。
客は味だけでなく、気分や優越感も買いに来る。少しの違いで文句が出ます」
城主は、ゆっくり頷いた。
「食は食で、難しさがあるな」
「そうなんです。伊勢神宮前なら、財布の紐は緩みます。でも、緩むからといって、
下手なものを出せば評価は落ちます」
「そこを分かっておるならよい」
城主は、少し穏やかな顔になった。
「だがな、博之。お前がうなぎだ穴子だと広げることで、仕事も増える。
職人も育つ。従業員も食いっぱぐれずに済む」
「それを言われると弱いですね」
「弱くてよい。背負うものが増えたということや」
「重いですね」
「従五位下、大膳亮。飯に関わる名をいただいた以上、飯で人を養い、飯で場を作る。
それも、お前の業や」
博之は、少し困った顔をした。
「官位まで持ち出されると、逃げ場がないです」
「逃げるな」
城主は笑った。
「ただし、一気にやるな。伊勢神宮も、一日で今の形になったわけではない。
熱田も、うなぎも、穴子も、職人も、少しずつ育てよ」
「はい」
博之は深く頭を下げた。
伊勢神宮と伊勢の城主への挨拶は、叱られるというより、笑われ、励まされる場になった。
うなぎの甘い香り。
穴子天の香ばしい匂い。
そして、伊勢の人々の落ち着いた言葉。
博之は帰り際、ぽつりと呟いた。
「ほんま、飯の道は終わらんな」
お花が横で笑う。
「旦那様が終わらせないからですよ」
「それを言われると弱い」
そう言って、博之も少しだけ笑った。