作品タイトル不明
博之44才7月1週目。3億5,000万文→3億7,600万文。うなぎ屋の立ち上げ費用が全部回収できてしまう。焼く修行が急務
七月一週目の末。
伊勢松坂屋では、また帳簿締めの日が来ていた。
博之は畳の上にごろりと転がりながら、帳面を見る前から少し嫌そうな顔をしていた。
「……また数字か」
ヨイチは、いつものように帳面を揃えながら言った。
「今回は、前期と同じ見方でいきましょう」
「前期と同じ?」
「はい。細かい拠点ごとの数字は、あとで改めて集計します。今回は大枠で見ます」
博之は、少しだけ安心した顔をした。
「それは助かる。もう拠点が多すぎて、全部見てたら頭が割れる」
「ですので、今回は拠点利益を一千五百七十万文。買い付け利益を一千百万円文。
合わせて二千六百七十万文で見ます」
「前期とほぼ同じか」
「はい。かなりざっくりですが、今の段階ではそれが一番現実に近いです」
ヨイチは筆で数字を書いた。
前期残高。
三億五千万文。
今回増加分。
二千六百七十万文。
合計。
三億七千六百七十万文。
「桁がでかすぎるねん」
「旦那様が増やしたんです」
「それを言われると弱い」
お花が横で笑う。
「でも、すごいですね。三億七千六百七十万文ですか」
「ざっくり三億七千万文でええやろ」
ヨイチが筆を止めた。
「六百七十万文を消さないでください」
「帳面では残してくれ。わしの頭では三億七千万文や」
「では、旦那様の頭の中では三億七千万文。帳面上は三億七千六百七十万文で残します」
「それで頼む」
ヨイチはため息をつきながらも、帳面にきっちり数字を残した。
「で、うなぎ屋はどうなんや」
博之が聞くと、ヨイチは別の帳面を開いた。
「松坂、津島、伊勢周辺で試したうなぎ屋ですが、かなり強いです」
「強い?」
「はい。湯浴み場や二階座敷を整えるのに銭をかけましたが、数日分の売上と利益で、
かなり相殺できています」
博之は、思わず起き上がった。
「なんじゃそりゃ。せっかく金かけたのに、もう回収できたんかい」
「全部ではありませんが、当初想定より早いです。少なくとも、今回の帳簿で
大きな赤として扱うほどではありません」
「うなぎ、そんなに売れるんか」
「売れます。高いですが、売れます」
ヨイチは淡々と言った。
「二階の湯浴み付きも、数を絞れば埋まります。うな重とう巻は、酒にも飯にも合う。
さらに“殿様も食べた”“信長公にも出した”という噂が効いています」
「噂、怖いな」
「商売では力です」
お花が頷く。
「下で普通に食べる人。上で湯浴みして休む人。別々に客が取れていますね」
「下は飯。上は時間やな」
博之が言うと、ヨイチも頷いた。
「その形は、かなり見えてきました」
ただし、うなぎを広げるには問題もあった。
人である。
「うなぎ屋をやれる人材は、まだ急務です」
ヨイチはそう言った。
「やっぱりか」
「はい。うなぎは、捌けるだけでは足りません。ぬめりを取り、開き、骨を外し、
軽く焼き、蒸し、また焼き、タレを塗る。この手順が揃わないと味が落ちます」
「豚汁みたいに、鍋を大きくしたらええって話ではないからな」
「はい」
博之は腕を組んだ。
「なら、伊勢松坂で修行させる。松坂で覚えさせて、徐々に伊勢の国へ広げる。
熱田神宮周りは絶対やる。あと、伊賀の山間部やな」
「伊賀ですか」
「海がないところで、川魚を使えるのは大きい。マグロや海鮮焼きは海沿いや港町が強い。
でも山間部で高単価の飯を作れるなら、うなぎは貴重な収益源になる」
ヨイチは帳面に書き込んだ。
「うなぎ職人育成。松坂本店で修行。伊勢全域、熱田、伊賀山間部へ展開候補」
「そんな感じやな」
博之は頷いた。
「ただし、うちはうなぎ屋やない。元は豚汁屋や」
お花がすぐに言った。
「もう何屋か分からなくなってますよ」
「それは言わんといてくれ」
一方で、京都の話も出た。
「京都ですが、ようやく中に一軒だけ入れました」
ヨイチが言った。
「肉あん屋か」
「はい。肉あんだけです。焼いた皮で肉あんを包む形なので、既存の飯屋とは少し違います。
まずは様子見です」
「京都は怖いからな」
「はい。老舗、寺社、町衆、問屋。どこに触れても難しいです。単価の安い店も、
土地代で苦しくなります」
「肉あんで様子を見るぐらいがええな」
「堺はまだです」
「堺も怖い」
「はい。堺も様子見です。焦らない方がよいかと」
「まあ、焦ってもしゃあない」
ほかの拠点についても、立ち上がりは進んでいた。
ただ、新しく立ち上げたところは、だいたい人件費で相殺されている。
大きく黒でもない。
大きく赤でもない。
「要するに、既存の強い拠点と買い付けで稼ぎ、新しい拠点は人件費と立ち上げ費で
トントンに近い、という感じです」
ヨイチがまとめた。
「なるほどな」
博之は少しだけ安心した。
「うなぎは強い。京都は肉あん一軒。堺はまだ。熱田はこれから。伊賀はうなぎ候補。そんな感じか」
「はい」
「こう見ると、余裕あるな」
「油断はしないでください」
「分かってる」
「分かってない顔です」
「なんで分かるんや」
お花が笑った。
その後、話は遊び金の報告に移った。
半月ごとに三十万文。
各拠点に渡している、試しと遊びの銭である。
「今回は、遊び金で何をしたかを、紙一枚か二枚でまとめて出してもらう形でよさそうですね」
夜市が言った。
「三十拠点全部は読めんからな」
博之は頷いた。
「面白かったやつだけ拾う。あとは概要でええ」
「今回、目を引くのは二つです」
「大和八木の流しそうめんと、松坂郊外の西瓜割りやな」
「はい」
大和八木の郊外では、宮そうめんの産地に近い湧き水を使い、竹を割って水を流し、
そうめんを流して食べる遊びを試した。
子どもが喜び、女衆が笑い、若い者も盛り上がった。
「これは面白かった」
博之は嬉しそうに言った。
「飯というより、涼しさと笑いを売ってる」
「衛生面は要注意ですが」
「そこはちゃんと書く。水を替える。下に落ちたものは客に戻さん。井戸水か湧き水を使う。
竹は洗って干す」
ヨイチが頷く。
「もう一つは西瓜割りですね」
「尾張から来た西瓜を井戸水で冷やして、目隠しして割る。あれも盛り上がった」
「普通に売るより、遊び代が乗ります」
「そうや。割れなくても西瓜は食える。当たればうなぎ券。見てる人も笑う。子どもも親も楽しい」
お花が呆れたように言う。
「旦那様、遊びを商売にするのが本当に上手ですね」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「少ないな」
ヨイチは帳面をまとめた。
「遊び金報告。大和八木、流しそうめん。松坂郊外、西瓜割り。詳細は別紙。
その他拠点は概要のみ」
「それでええ」
博之は畳に寝転がった。
数字だけを見れば、三億七千六百七十万文。
うなぎは思ったより早く形になり、京都にも小さく入れた。
遊び金からは、流しそうめんや西瓜割りのような芽が出ている。
まだまだ面倒は多い。
人も足りない。
拠点も増える。
だが、伊勢松坂屋は確かに回っていた。
「……なんか、余裕やな」
博之がぽつりと言うと、ヨイチが即座に言った。
「余裕と言うと、すぐ何か増やすのでやめてください」
お花も頷く。
「旦那様の余裕は危険です」
「ひどい言われようやな」
「事実です」
博之はしょぼんとしながらも、少し笑っていた。
七月一週目末の帳簿締め。
伊勢松坂屋は、また一段大きくなっていた。