作品タイトル不明
織田信長、美濃攻略のため東美濃を削りに行きたいがうまくいかずいらだつ。博之がうなぎ屋を松坂で始めたのに自分の耳に入らないことにイラつく
信長は、この一年で東美濃のあたりを少しずつ削り取るつもりでいた。
一気に稲葉山へ攻めかかるには、まだ早い。
美濃の斎藤は、まだ弱りきっていない。国人衆も簡単には寝返らない。城も道も川もあり、
無理に攻めれば尾張側の傷も大きくなる。
だから、まずは小競り合いを続ける。
境目を揺らす。
国人衆に探りを入れる。
寺社へ寄進し、民に飯を出し、織田の方がまだましだと思わせる。
そうやって少しずつ美濃の端を削る。
理屈では分かっていた。
だが、信長は苛立っていた。
「銭が足らん」
その一言に、座にいた者たちが黙る。
「米も足らん。人もいる。小競り合いを続けるにも銭がいる。炊き出しをするにも米がいる。
寺社へ寄進するにも物がいる。何をするにも銭や」
信長は、指で膝を叩いた。
「さっさと取りたいのに、まだ美濃は堅い」
木下藤吉郎秀吉は、少し身を低くして答えた。
「斎藤方も、まだ力を残しております。無理に押せば、こちらも痛みまする」
「分かっとる」
信長は不機嫌そうに言った。
「分かっとるが、待つのは性に合わん」
「今しばらくは、東美濃の国人衆に飯と銭の流れを見せるのがよいかと。小競り合いで疲れさせ、
炊き出しで民の心を拾い、寺社に筋を通す。伊勢松坂屋にも、そのやり方をいろいろ聞いております」
「博之か」
信長の眉が少し動いた。
「はい。あの者は飯屋ですが、妙に人の腹を見ます。腹を空かせた者に何を出せば動くか、
寺社に何を通せば角が立たぬか、そのあたりは見ております」
「なら、さっさと銭を湧かせろ」
藤吉郎は苦笑しかけて、慌てて顔を引き締めた。
「一日二日で、銭がばかばか湧き上がるわけではございません」
「分かっとる」
「ただ、熱田、瀬戸、津島の流れを整えれば、少しずつ入り込む術は増えます。
市を立て、飯を出し、瀬戸物や小物を回し、寄進の形を作る。これが続けば、
東美濃へ向かう道にも、織田の名が柔らかく入りまする」
信長は黙って聞いていた。
だが、その指はまだ膝を叩いている。
「待てん」
「殿」
「いつまでも飯を配って様子を見るだけでは、こちらが腐る。どこかのタイミングで状況を聞き、
手を打たねばならん」
「承知しております」
藤吉郎は頭を下げた。
「ただ、今はまだ種まきでございます」
「種まきか」
信長は鼻で笑った。
「わしは刈り取りたい」
その時、側にいた者が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、松坂で妙な飯が流行っているとか」
「妙な飯?」
信長がそちらを見る。
「うなぎでございます」
「うなぎ?」
「はい。伊勢松坂屋の博之が、うなぎを開いて焼き、飯に乗せて出しているとか。
松坂の殿も食されたと聞きます」
信長の表情が変わった。
「……あいつは熱田のことを任されておきながら、松坂で何をしておる」
藤吉郎が慌てて補足する。
「いえ、それは熱田の名物作りの一環らしく」
「熱田の名物?」
「はい。熱田は伊勢神宮とは違いますゆえ、熱田らしい飯と楽しみを作る必要があると。
そこで、川筋や海に近い土地柄を見て、うなぎを試しているようでございます」
「ほう」
信長は少しだけ興味を示した。
「うなぎを開いて焼くとは、どういうことだ」
「ぬめりを取り、骨を外し、焼いて蒸して、また焼くとか」
「面倒なことをするな」
「その分、骨が気にならず、飯に合うそうです」
「誰が食った」
「松坂の殿。あと、郊外の市でも評判だとか。湯浴み付きの二階座敷で食わせ、
昼寝までさせるという話も……」
信長は、しばらく黙った。
それから、急に不機嫌そうな顔になった。
「なんで、その話がこちらに来ておらん」
藤吉郎は目を伏せた。
「まだ試しの段階ゆえ」
「試しでも、うまいなら持って来るべきであろう」
「殿」
「わしの熱田の話で作っておる飯なら、まずわしに食わせるのが筋ではないか」
信長は、完全に機嫌を損ねていた。
「博之め。松坂でうなぎを焼いて、わしには風の噂か」
「すぐに文を出しまする」
藤吉郎は、すぐに筆を取らせた。
文面は丁寧だった。
熱田の件について、殿も大いに関心を持っておられること。
松坂でうなぎを用いた飯を試していると聞いたこと。
それがどのようなものか、ぜひ一度届けてほしいこと。
可能であれば、うな重とうなぎ巻を持参してほしいこと。
さらに、熱田の名物として考えているなら、その考えも聞きたいこと。
藤吉郎は最後に少し迷ったが、信長の顔を見て、もう一文加えた。
「殿が、なぜ先に知らせぬのかと、少々お怒りでございます」
文はすぐに伊勢松坂屋へ送られた。
数日後。
松坂の伊勢松坂屋で、その文を受け取った博之は、しばらく黙っていた。
横にはお花とヨイチがいる。
「木下藤吉郎秀吉様からです」
ヨイチが読み上げた。
「松坂でうなぎを用いた飯を試していると聞く。それはどのようなものか。殿が興味をお持ちである。
できれば届けてほしい。なお、殿は、なぜ先に知らせぬのかと、少々お怒りである……とのことです」
博之は、文を見たまま固まった。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「……わしゃ飯屋か」
お花が即座に言った。
「飯屋です」
「いや、そうやけど」
「伊勢松坂屋です」
「そうやけど、そういう意味やない」
博之は文を振った。
「信長公から、うなぎ持って来いみたいな文が来るのおかしいやろ」
ヨイチが冷静に言う。
「熱田の名物として試している以上、織田様に話が行くのは自然です」
「自然か?」
「自然です」
「なんや、友達か」
お花が笑った。
「松坂の殿様にも、九鬼水軍にも呼ばれてますし、だんだん飯を作ったら呼ばれる人になってますね」
「嫌な肩書きやな」
「でも、行くんでしょう」
博之は畳に倒れ込んだ。
「行くけど」
「行くんですね」
「行かんわけにいかんやろ。信長公が怒ってるんやぞ」
「では、うな重とうなぎ巻を用意します」
「まだ味の調整中やのに」
「調整中でも、持って行かないともっと怒られます」
「それは分かる」
博之は天井を見上げた。
「東美濃の銭と米が足らんって話をしてるはずやのに、なんでうなぎの話で呼ばれるんや」
ヨイチは少し考えて答えた。
「飯も銭も、人を動かすものですから」
「綺麗にまとめるな」
「事実です」
お花がにやりと笑う。
「旦那様、また信長公に飯を食べさせるんですね」
「やめろ。話がでかくなる」
「もう十分でかいです」
博之は深くため息をついた。
それでも、頭の中ではすでに段取りを考え始めていた。
うなぎは生きたものを持っていくか。
焼き立てを食わせるなら、料理人と炭とタレを持っていく必要がある。
うなぎ巻は作って持っていける。
うな重は、飯の蒸れ方が大事だ。
信長に出すなら、瀬戸物の小皿も添えたい。
熱田の話も聞かれるだろう。
湯浴み。
うな重。
昼寝。
市。
寄進。
そこまで説明しなければならない。
「……もう完全に飯と仕組みの人やんけ」
博之がぼそりと言うと、お花が笑った。
「それが旦那様です」
「わしはモテたかっただけや」
「その話、まだ引きずってるんですか」
「引きずるわ」
ヨイチは帳面を開いた。
「では、信長公向けの献立を書き出します」
「うな重、うなぎ巻、蜂蜜柚湯、瀬戸の小皿、熱田の半日案」
「はい」
「あと、木下さんに返事や」
「何と書きますか」
博之は少し考え、苦い顔で言った。
「うなぎはまだ試しですが、殿のお口に合うよう、できる限り整えて持参します。
なお、飯屋なので戦の銭は一日二日では湧きません、と書いといてくれ」
ヨイチが筆を止める。
「最後の一文は消します」
「なんでや」
「怒られます」
「分かってる」
博之はまた畳に倒れた。
外では、うなぎを焼く甘辛い匂いが、台所から流れてきていた。
東美濃はまだ遠い。
銭も米も足りない。
信長は苛立っている。
その中で、なぜか博之は、うなぎを抱えて織田のもとへ向かうことになった。
「ほんま、わしゃ飯屋か友達か、どっちなんや」
お花が笑う。
「飯屋です」
ヨイチも静かに続けた。
「そして、呼ばれるだけの飯屋です」
「それが嫌なんや」
そう言いながらも、博之の顔は、少しだけ楽しそうだった。