作品タイトル不明
重い話のあと伊勢松坂屋の心得会をやろうと。お花さん4分の1,ヨイチ4分の1、博之半分。飯の道の会開催。
蟹江の国人衆と一向宗の代表たちが帰っていく時、その背中は来た時よりも少し重かった。
だが、沈んでいるだけではない。
「……結局のところ、俺たちも腹くくらなあかん時に来てるっちゅうことやな」
国人衆の一人が、ぽつりと言った。
一向宗の代表も頷く。
「城を取り返しただけでは、人は戻らん。飯を出すだけでも足りん。頭を下げて、町を戻して、
先の形まで考えなあかん」
「織田につくか、北畠につくか、北伊勢で固まるか……」
「どれも楽ではないな」
「けど、何も決めんまま一年過ごしたら、その時は終わりや」
そう話しながら、彼らは松坂を後にした。
見送った博之は、しばらく門の前で立っていた。
重たい話だった。
蟹江の復旧だけなら、まだ飯屋の範囲で済む。炊き出し、市、仕事、寝床、湯浴み。
そこまではできる。
だが、その先にあるのは、国の選択である。
織田につくか。
北畠につくか。
北伊勢としてまとまるか。
それを飯屋が決めるわけにはいかない。
「……疲れた」
博之は屋敷に戻るなり、畳に転がった。
お花が茶を置く。
「旦那様、重たい話が続きましたね」
「続きすぎや。わし、飯屋やぞ」
ヨイチが帳面を抱えながら言う。
「その飯屋が、今や国人衆に進路相談されております」
「最悪や」
「でも、逃げられません」
「分かってる」
博之は天井を見上げ、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……ちょっと重たい話続きやったから、とりあえず心得の話をしようか」
お花が顔を上げる。
「心得会ですね」
「そう。そろそろ本気でやらなあかん」
ヨイチが筆を取る。
「どういう形にしますか」
博之は体を起こした。
「一刻ぐらいでええやろ。三人で喋る」
「三人?」
「お花さん、ヨイチ、わし」
博之は指を折った。
「四分の一は、お花さんが給仕や女衆、現場の空気を見る話をする。どう声をかけるか。
飯場で荒れた人をどう落ち着かせるか。子どもや女衆をどう扱うか。そういう話や」
お花は少し困った顔をした。
「私ですか」
「お花さんしかできん」
「普段やっていることを話すのは、意外と難しいですよ」
「だから四分の一でええ」
広行は次にヨイチを見る。
「もう四分の一はヨイチ。帳簿の見方、銭の流れ、買い付け、使いすぎ、貯めすぎ、
こういうところや」
ヨイチは即座に眉をひそめた。
「帳簿の話を四分の一で済ませるんですか」
「むしろ四分の一でも長い」
「ひどいですね」
「いや、数字を並べたらみんな寝る」
お花が少し笑う。
博之は真面目な顔で続けた。
「帳簿の細かい勉強は、別の会でやればええ。現場に入れて教えるとか、交換で拠点を回らせるとか、
そういう形や。みんなを集めて茶飲みながらやる会で、延々と数字やったら死ぬ」
「まあ、それはそうです」
ヨイチも渋々頷いた。
「で、残り半分はわしが話す」
「旦那様が半分ですか」
お花が目を丸くする。
「長いです」
「長いけど、いる」
博之は苦笑した。
「伊勢松坂屋がどうできたか。根無し草で、五百文持って松阪で飯屋を始めたところからや」
「信長公に送った手紙のような話ですね」
「そう。それを一通り話す」
博之は少し遠くを見る。
「布団二百組の話。地侍に身代金を要求された話。伊賀から信楽へ道ができた話。
長野家の若侍に信楽焼を買わせた話。奈良の坊さんに百五十万文投げた話。蟹江の話。
織田信長と飯食った話」
「だいぶ多いですね」
「多い。けど、それがうちの筋や」
ヨイチが筆を止めた。
「筋、ですか」
「うん」
博之は頷く。
「掟だけ作ってもあかん。“炊き出しをしろ”“寄進をしろ”“地元と仲良くしろ”って書いても、
なんでそうするか分からんかったら形だけになる」
「話として残すわけですね」
「そう」
博之は少し笑った。
「しかも、面白おかしくや」
「旦那様の馬鹿話ですね」
「馬鹿話でええ」
博之は開き直った。
「むしろ馬鹿話の方が残る。偉そうな教訓より、“旦那がまたやらかした”の方が覚えやすい」
お花が頷いた。
「確かに、新しく入った者には伝わりやすいかもしれません」
「で、聞いた者たちは、それぞれの拠点に戻って小話みたいに話す」
ヨイチが書き留める。
「本店で聞いた話を、蟹江、桑名、四日市、伊勢、鳥羽、津島、常滑へ持ち帰る」
「そう。そしたら、面白かった話だけが残る」
博之は指で円を描いた。
「“あの話は受けた”“あれは誰も覚えてへん”“このくだりは泣くやつがいた”“これは笑いが取れる”。
そういうのを吸い上げる」
「そして本にする」
「そうや」
広行は少し照れくさそうに言った。
「最初から立派な本にしようとせんでええ。まず話して、残った話だけを本にする」
お花が微笑む。
「おはこの話だけを残すわけですね」
「そう。わしの持ちネタ集みたいになるけどな」
「旦那様、語り部ですね」
「嫌やなあ」
ヨイチが少し真面目な顔で言った。
「ただ、三人で一刻となると、旦那様が半分は妥当かもしれません」
「やろ」
「私が帳簿を三分の一話すとなると、聞く側が苦しみます」
「自覚あるんや」
「あります。数字なしで帳簿の話はできませんし、数字を出すと眠くなります」
お花も苦笑する。
「私も、現場の話を長くしすぎると、たぶん説教臭くなります」
「だから四分の一ずつでええ」
博之は頷いた。
「お花さんは“人を見る”。夜市は“銭を見る”。わしは“なぜそうなったか”を話す」
「三者三様ですね」
「それでええ」
そして、博之は大きく息を吐いた。
「仕事終わった後の夜やな」
「夜ですか」
「昼は無理や。店が動いとる」
「では、交代で」
「うん。茶でも飲みながら、硬くならんように」
「布団を並べますか?」
お花が冗談めかして言うと、博之は反応した。
「それええな」
「冗談です」
「なんでや。みんなでゴロゴロしながら聞いたらええやん」
「寝ます」
「寝るか」
「寝ます」
ヨイチも即答した。
「では、座敷に集めて、茶と少し甘いものを出しましょう」
「甘いものいる?」
「いります。眠気対策です」
「なるほど」
博之は少し笑った。
「ほな、一回やってみよう」
お花が頷く。
「第一回、伊勢松坂屋心得会」
「名前、堅いな」
「旦那様の昔話会」
「軽すぎる」
ヨイチが淡々と言う。
「では、“飯の道の会”で」
博之は少し黙り、そして笑った。
「……まあ、それでええか」
重たい国の話の後で、彼らはまた飯屋の中へ戻っていく。
けれど、その飯屋はもう、ただ飯を出すだけでは足りない場所になっていた。
人を育てる。話を残す。
心得を染み込ませる。
誰か一人が倒れても、飯が炊けるようにする。
そのための最初の夜会が、静かに始まろうとしていた。