作品タイトル不明
伊勢から戻った信長が家臣を集め美濃を蟹江休戦1年で取れるだけ取る宣言。武と飯の交互でじっくり刈り取る。伊勢松坂屋を使う
尾張へ戻った信長は、すぐに家臣たちを集めた。
伊勢から戻ったばかりの信長の顔は、疲れてはいたが妙に冴えていた。藤吉郎も控えている。
滝川筋の者たちもいる。蟹江に関わった者たちも、伊勢を見てきた者たちも、見ていない者たちも、
皆そろっていた。
信長は地図を広げると、まず一言で告げた。
「美濃を取る」
広間が静まる。
「北伊勢は一年止まる。蟹江も一年休戦や。なら、この一年で美濃を取れるだけ取る」
武将たちの目が鋭くなる。
「武の方は、今まで通り鍛えろ。国境では小競り合いを重ねる。相手を疲れさせる。
取れるところは取る。必要なら一気に攻める」
そこまでは、いつもの信長だった。
だが、続く言葉は少し違った。
「ただし、焼け野原を欲しいわけではない」
家臣たちが顔を上げる。
「取った後に人が残らねば意味がない。税を納める者、飯を作る者、荷を運ぶ者、寺社を守る者、
商いをする者。そいつらが逃げるような取り方は下手や」
蟹江の件に関わった者たちは、顔を伏せた。
信長はそれ以上責めず、藤吉郎を見た。
「猿」
「はっ」
「お前は別働きや。伊勢松坂屋で見た炊き出し、寄進、飯場、横丁、
人の拾い方。あれを学ばせる者を選べ」
「承知しました」
「根無し草、身分の低い者、食うに困った者、寺社に入りやすい者、町人と話せる者。
そういう者を選んで、まず尾張で学ばせろ」
家臣の一人が眉をひそめる。
「そのような者を美濃へ?」
「そうや」
信長は即答した。
「炊き出しに並ばせる。手伝わせる。寺社へ顔を出させる。商人と話させる。
美濃へ入れて、不満の根を拾わせる」
「不満の根」
「斎藤に不満を持つ者、寺社が困っている場所、商人が詰まっている道、飯が足りていないところ。
そういうところへ寄進や炊き出しを少しずつ入れる」
藤吉郎が続ける。
「武で押すところは押し、裏では飯と寄進で染み込ませる。矛と盾ですな」
「そうや」
信長は頷いた。
「ただ、問題は銭や」
広間に緊張が走る。
「戦には銭が要る。飯が要る。兵も食わせねばならん。さらに炊き出しや寄進をやるなら、
もっと銭が要る」
武将たちはうなった。
「それは……難しいですな」
「我らは基本、土地を取り、そこから税を取る形でございます」
「先に銭を増やすとなると、商人の領分です」
信長は鼻で笑った。
「そこで伊勢松坂屋や」
また広間がざわつく。
「飯屋でございますぞ」
「飯屋に政をさせるのですか」
「なら聞く」
信長の声が少し強くなった。
「お前らの中に、十万貫作ってこいと言われて作れる者がおるか」
広間は静まり返った。
「一億文やぞ」
誰も答えない。
信長は笑った。
「伊勢松坂屋の旦那に冗談で聞いた。十万貫でも払えたんちゃうかとな。あいつ、
“ちょっと厳しいですね”と言いよった」
その場にどよめきが走る。
「無理です、ではなく?」
「そうや。ちょっと厳しい、や」
藤吉郎が苦笑する。
「本人は失言と思っておりました」
「まぬけなことにな」
信長は笑ったが、その目は鋭かった。
「だが、それで分かった。あいつは銭を持っているだけではない。銭の流れを作る」
信長は地図の尾張、蟹江、津島、常滑を指した。
「蟹江、津島、常滑では、すでに横丁と飯場を認めている。あいつは瀬戸物が欲しいと言っておる。
瀬戸物を買わせたら、たぶん馬鹿みたいな額を買うぞ」
「しかし、そんなに買って売れるのですか」
「売れる」
信長は断言した。
「伊賀、奈良、六角、松阪、伊勢、鳥羽、蟹江、津島、常滑。あいつの道はもういくつも伸びている。
売り先がある。仕入れたら売る。売れたらまた仕入れる。その間に、運ぶ者、売る者、作る者、
箱を作る者、飯を出す者が雇われる」
武将たちは黙って聞いた。
「税を無理に増やせば、一時は取れるかもしれん。だが不満が溜まり、一揆が起きる。
逃げる者も出る。だが、銭の流れを作れば、後から税の元ができる」
藤吉郎が頷いた。
「取る前に、育てる」
「そうや」
信長は今度、熱田の方を指した。
「それとな。伊勢神宮を見て思った。熱田神宮はどうなっとる」
家臣たちが顔を見合わせる。
「普通に参拝する場所でございますが……」
「だから何で普通なんや」
信長の声が飛んだ。
「伊勢神宮は、どえらい富を生んでおったぞ。茶一杯三十文の世界や」
「三十文!?」
広間にざわめきが広がる。
「どんな世界ですか、それは」
「そういう世界や」
信長は言い切った。
「伊勢神宮をそのまま真似ろとは言わん。熱田を伊勢並みにしろとも言わん。だが、
参拝に来た者が飯を食い、土産を買い、休み、銭を落とす仕組みをもっと考えろ」
家臣たちは、ようやく信長が何を言いたいのか理解し始めた。
「市を整え、飯場を作り、土産を置き、寄進を回す。少しずつでよい。じゅんぐりじゅんぐりや」
藤吉郎が小さく笑った。
「旦那の口癖ですな」
「使える言葉は使う」
信長は地図を叩いた。
「一年や。北伊勢が止まっている一年で、美濃を攻める。だが攻めるだけではない。
尾張で銭を増やす。熱田の周りも見る。蟹江、津島、常滑を回す。瀬戸物を伊勢松坂屋に扱わせる。
美濃へは武と飯と寄進で染み込ませる」
滝川筋の者が、静かに頭を下げた。
「蟹江の失敗、肝に銘じます」
「失敗で終わらせるな」
信長は言った。
「学べ。伊勢まで行った意味を考えろ。茶三十文を笑うだけなら、何しに行ったのか分からん」
広間は静まり返った。
信長は最後に、低く言った。
「美濃を取る。取れるだけ取る。だが、取った土地を痩せさせるな」
そして少し笑う。
「飯屋に教えられたと思うと腹立つがな」
藤吉郎が頭を下げたまま笑いをこらえる。
織田家の方針は決まった。
矛で攻める。
飯で染み込む。
銭の流れを作る。
熱田を見直す。
瀬戸物を動かす。
この一年で、美濃をどれだけきれいに取れるか。
蟹江の失敗と、伊勢の衝撃は、織田家の戦い方を少しずつ変え始めていた。