作品タイトル不明
酒宴の翌朝。朝食を食べ松坂の城主に挨拶し伊勢神宮がすごかった話と伊勢松坂屋に10万貫ある話をして松坂城主も頭をかかえる。信長一行帰宅
翌朝。
伊勢松坂屋の宿では、朝から炊きたての飯の香りが広がっていた。
膳には、混ぜ飯、味噌汁、焼き魚、漬物、少しの煮物。
昨日の疲れもあってか、一行は静かに飯を食っていたが、やがて誰かがぽつりと言った。
「……でも昨日は楽しかったな」
その一言で、場が一気に和む。
「いや、本当に」
「伊勢神宮、すごかったですな」
「横丁が異様やった」
「茶一杯三十文は未だに納得いってへん」
皆が口々に言う。
信長も飯を食いながら頷いた。
「今日で帰るんか」
「名残惜しいですな」
「まあ、また来ればええ」
博之が笑いながら言う。
「とりあえず今日は、松坂のお殿様に挨拶してから、港で船乗って帰っていただく形です」
「至れり尽くせりやな」
「旅は段取りが大事ですから」
朝飯を終え、一行は松坂城へ向かった。
城へ入ると、松坂の城主が笑顔で迎える。
「どうでしたか、伊勢神宮は」
信長は座るなり、大きく息を吐いた。
「いや、あれは行って良かった」
「ほう」
「門前町を歩いたが、お茶一杯三十文で銭が飛ぶ世界を初めて味わった」
城主が大笑いする。
「でしょうな!」
「しかも皆、嬉しそうに払っとる」
「払います。あそこはそういう場所です」
藤吉郎も頷いた。
「あと、伊勢松坂屋の店が本当に異様でした」
「異様?」
「海鮮焼きが、あの値段で、あの勢いで売れる」
信長は笑った。
「昨日見て思ったわ。百五十万文、安かったなと」
城主はニヤリと博之を見る。
「お前、またなんかやらかしたんちゃうやろな」
「いや、私は何も」
「昨日、酒の席でな」
信長が楽しそうに話し始める。
「十万貫でも払えたんちゃうかって冗談で言ったら、“ちょっと厳しいですね”って返してきた」
城主が固まった。
「……お前」
博之は慌てて手を振る。
「いや、違うんです」
「違わへん!」
城主が頭を抱える。
「なんでお前そんなに口が軽いねん!」
「私は“厳しい”って言っただけです!」
「その答えがおかしいんや!」
座敷が笑いに包まれる。
「普通は“無理です”や!」
「いや、でも無理かどうかで言われたら」
「言うな!」
博之は頭をかく。
信長は腹を抱えて笑っていた。
「ほんま、こいつは嘘がつけん」
「いや、旦那様は金の感覚がおかしいんです」
ヨイチが真顔で言う。
「十万貫の話に“ちょっと厳しい”と返す飯屋がおりますか」
「飯屋ですって」
「そこが怖いんや」
城主はため息を吐きながら言う。
「そんな金を持ってるアピールするやつは、守りきれへんぞ」
「だから回してるんですって」
博之は真面目な顔になった。
「寝かせたら危ないから、人雇って、飯炊いて、買い付けして、湯屋作って、
寄進して、動かしてるんです」
信長が頷く。
「そこは分かった」
「え?」
「お前は銭を貯めとるんやなくて、流れを作っとる」
「まあ……流れてくれんと死にますから」
城主は苦笑した。
「でも、こいつが金の流れを生み出すものや、ということは分かった」
そして信長を見る。
「尾張の方で、今、蟹江、津島、常滑あたりでやらせてるんでしたな」
「ああ」
「それを見て、さらに瀬戸物とかも入ってくると、こっちでもやってほしいなって気持ちはありますわ」
博之が慌てる。
「いやいや、無理のない範囲でですよ」
「でも嬉しいんやぞ」
城主が言う。
「瀬戸物なんて、信楽焼よりさらに上や。別に大名用の高いやつやなくても、小皿や湯呑みでも嬉しい」
「そうなんですよ」
博之も頷く。
「だから怖いんです。またバカみたいに仕入れ始める可能性ありますし」
「なるほどな」
信長が笑う。
「ほんまに欲しいんやな」
「欲しいです」
松坂側の者も口々に言う。
「伊勢松坂屋が運んできた、ってだけで価値ありますし」
「各地の品が集まると、人も集まる」
「人が集まると市が立つ」
「市が立つと銭が回る」
城主は満足そうに頷いた。
「まあ、無理せん範囲で徐々にやればええ」
「はい」
「休戦期間は一年やろ」
「そうです」
「その間に、どれだけ織田様と仲良くできるかやな」
博之が苦笑する。
「悲しいなあ。本当に」
「何がですか?」
「俺ら、いっつも一緒に飯食うてるのに、なんか織田様の方へ行ってしまうみたいな言い方される」
城主がゲラゲラ笑う。
「そういう問題ですか」
「そういう問題や」
信長も笑っている。
「まあ安心せえ。すぐ取って食ったりはせん」
「その“すぐ”が怖いんですって」
最後まで笑いが絶えないまま、一行は港へ向かった。
松坂の港には、九鬼水軍の船が待っている。
海風が吹き、旗が揺れる。
別れ際、城主が信長へ深く頭を下げた。
「この度は、伊勢までお越しいただきありがとうございました」
「いや、こっちこそ面白かった」
「またお越しください」
「また来るわ」
そして城主は博之をちらりと見る。
「お前は無茶しすぎるなよ」
「してないです」
「してる」
「してないですって」
「十万貫」
「うっ」
周囲がまた笑う。
信長は船へ乗り込みながら、最後に振り返った。
「博之」
「はい」
「瀬戸物、楽しみにしとるぞ」
博之は頭を抱えた。
「だから、皆さん期待値上げすぎなんですよ……」
だが、その顔はどこか嬉しそうでもあった。
船がゆっくり港を離れる。
松坂の港が少しずつ遠ざかっていく。
信長は船の上から港を眺めながら、小さく笑った。
「……ほんま、変な飯屋や」
藤吉郎も頷く。
「ですが、面白いですな」
「ああ」
信長は海風を受けながら言った。
「面白い。そして――ああいうやつが、天下の流れを変えるんやろうな」