作品タイトル不明
伊勢松坂屋で酒宴。伊勢松坂屋の神宮でのバカみたいな売上。実は150万文はお前にとって高くなかったのでか?10万貫でも払えたやろwwwちょっと厳しいと答え、その答えが間違いで一同ドン引きする。
松阪へ戻ったその夜、伊勢松坂屋の宿では、自然と酒宴のような空気になっていた。
湯浴みを終え、疲れを流した一行の前に、膳が並ぶ。
混ぜ飯。
魚の汁物。
すり身揚げ。
肉あん。
伊勢で買ってきた小物の菓子。
そして少しよい酒。
信長も藤吉郎も、滝川筋の者たちも、昼間の伊勢神宮と横丁の熱気がまだ抜けていない。
「いや、一日疲れたが、面白かったな」
信長が杯を置きながら言う。
「聞いても分からん、というのは本当やった」
藤吉郎も頷いた。
「茶一杯三十文の世界は、行かねば分かりませんな」
「しかも払ってしまう」
「はい。高いと思いながら、払ってしまう」
そこで信長は、ふと博之を見た。
「しかし、お前」
「はい」
「海鮮焼きが二百文で馬鹿みたいに売れるわけやろ」
博之は嫌な予感がして、箸を止めた。
「……まあ、伊勢ではそうですね」
「お前にとって、百五十万文はそんなに重くなかったんちゃうか」
座が少し静かになる。
博之は慌てて手を振った。
「いやいや、重いですよ。重いです。重いですけど」
「けど?」
「海鮮焼きは三百個限定ですから」
「三百を限定と言うな」
藤吉郎が即座に突っ込む。
信長は指を折りながら計算する。
「店内二百文で三百個なら、一日六万文やな」
「持ち帰りもありますし、全部二百文ではないですよ」
「体験講座もあるやろ。四百五十文」
「それは完全予約で……」
「なら一日七万、八万文は売上がある」
「売上です。利益じゃありません」
「一月なら二百四十万文近い売上やな」
博之は黙った。
お花が横で小さく咳払いする。
ヨイチが帳面を抱えたまま、明らかに嫌な顔をしていた。
信長はにやにや笑う。
「店一つでそれや。なら百五十万文くらい、一月で出る計算になる」
「いや、だから売上であって」
「利益でも相当あるやろ」
「……まあ、ありますけど」
信長はさらに踏み込んだ。
「なんなら、お前、拠点を本気で回せば十万貫でも払えたんちゃうか」
博之は首をかしげた。
「十万貫って、何文でしたっけ。うち、桁が大きくなってもずっと文で計算してるんで」
ヨイチが青ざめた顔で答える。
「十万貫は一億文です」
「ああ」
博之は少し考えた。
「まあ、ちょっと厳しいですね」
座敷が凍った。
藤吉郎の箸が止まる。
滝川筋の者たちは、ほとんど目をむいている。
お花が慌てて声を上げた。
「旦那様」
ヨイチも低い声で言う。
「旦那様、それは言い方が悪いです」
博之はきょとんとした。
「え、変なこと言いました?」
信長は、しばらく博之を見つめ、それから大きく笑った。
「お前、ほんまに嘘がつけんやつやな」
「いやいやいや、厳しいって言いましたよ」
「普通は“一億文など無理です”と言う」
「無理は無理です」
「だが“ちょっと厳しい”と言った」
信長の目が細くなる。
「つまり、それだけのものが、すでに伊勢松坂屋には手持ちとしてある、ということや」
博之は顔を引きつらせた。
「いや、手持ちというか、回している銭です。寝床、飯場、買い付け、湯浴み、炊き出し、
人件費、寄進、全部含めてですから」
「それでも狙われたら怖いぞ」
「怖いです。本当に怖いです」
博之は正直に言った。
「だから今、後継者を育ててるんです。私いつ切られるか分からないんで」
座がまたざわつく。
博之は苦笑した。
「いや、本当にそうでしょう。北畠様に徴収されるとか、織田様に徴収されるとか、
そういう話になる前に、飯を炊く人間、帳簿を見る人間、買い付けを回す人間、
寄進を仕切る人間を増やさないと」
お花が小声で叱る。
「北畠のお殿様にも、そういうことは軽く言わんようにと言われていたでしょう」
「いや、別に種銭があるとは言ってないです」
「そういう意味ではありません。冗談で言われた額にちゃんと返せているのがおかしいんです」
ヨイチも頷く。
「十万貫の話に即座に“ちょっと厳しい”と返す飯屋はおかしいです」
「飯屋やのに……」
信長は楽しそうに杯を傾けた。
「末恐ろしいわ」
それから、少し身を乗り出す。
「だが、それを見ていると一つ思う。今、尾張の港で飯場や横丁をやらせておるが、
実はお前にある程度任せた方が、銭は集まるのか」
博之はすぐに首を振った。
「分かりません」
「分からんか」
「はい。ただ、我々は“これは十年売れるな”と思ったものを買います」
「十年?」
「例えば常滑焼、瀬戸物、信楽焼。殿様向けの高いものだけではなく、
小皿、湯飲み、壺、普段使いの器も買います。そういうものをまるっと買って、
いろんな拠点にばらまく」
信長は黙って聞く。
「買い付けの費用に、運ぶ手間賃、目利き代、壊れた時の損、寄進に回す分、
利益を乗せます。高くなりますけど、遠方のものはそれでも売れます」
「大量に買うから、産地も喜ぶ」
「はい。信楽焼もそうでした。殿様向けの高い品だけではなく、一般向けの品も買います。
そうすると、作ってる側からするとありがたいんです。次もいいものを回してくれる。
継続的に取引すると、向こうもこちらを信用する」
「なるほど」
「そして、品が拠点に届くと、従業員が買います。近隣の人も買います。寺社への寄進にも使います。
良い器で飯を出すと、飯も高く売れます」
藤吉郎が感心したように言う。
「銭がぐるぐる回りますな」
「そうです。回ると、周りに店が増えます。運ぶ人も要る。売る人も要る。修理する人も要る。
箱を作る人も要る。すると、そこからまた税が取れる元ができます」
信長は、静かに頷いた。
「美濃でやるなら、そういうことか」
「はい。いきなり税を取ろうとするより、まず銭が落ちる場所を作る。飯場、市、寄進、
焼き物、布、道具。人が集まるところを作ると、あとから税の元ができます」
「取る前に、育てる」
「そうです」
博之は少し困ったように笑った。
「まあ、うちは飯屋なので、育った銭で飯を炊きますけど」
信長は杯を置いた。
「分かった」
「何がですか」
「お前に任せると銭が集まる理由や」
「そんな大層な」
「大層や」
信長は少し笑った。
「奪って集めるのではなく、使わせて集める。高く売るが、恨まれぬように回す。産地も、
運ぶ者も、買う者も、寺社も、飯場も、少しずつ得をする」
藤吉郎が頷く。
「だから長続きする」
「そうや」
信長は博之を見た。
「お前の怖さは、銭を持っていることやない。銭の流れを作れることや」
博之は、なんとも言えない顔をした。
「それ、褒めてます?」
「褒めている」
「怖いです」
「怖がっとけ」
信長は楽しそうに笑った。
「ただし、尾張でやる時は筋を通せ。勝手に大きくしすぎるな」
「はい」
「だが、やるなら中途半端にやるな。常滑、津島、蟹江。瀬戸物も見たいと言うたな」
「はい」
「見ろ。買え。回せ。ただし、報告しろ」
博之は深く頭を下げた。
「承知しました」
その夜の酒宴は、笑いと驚きと、少しの緊張を含んだまま続いた。
信長は、伊勢神宮で見た銭の流れを思い出していた。
そして目の前の飯屋が、それを小さく再現し、広げようとしていることも理解し始めていた。
「ほんま、飯屋とは思えんな」
信長が呟く。
博之は、いつものように答えた。
「飯屋です」
だがその声は、少しだけ弱かった。
さすがに十万貫の話は、言い過ぎたと自覚し始めていたからである。