作品タイトル不明
伊勢神宮の横丁での買い食いに驚きがはいる。お茶一杯30文の世界線。伊勢松坂屋の暴利ともいえる値付けでもバカみたいに売れてる
参拝を終えた一行が神域を出ると、空気が一気に変わった。
静かな木々の気配から、ざわめきの渦へ戻る。
横丁には人があふれていた。
札を売る者。
菓子を焼く者。
茶を出す者。
土産物を並べる者。
遠方から来た参拝客。
子どもを抱いた女。
荷を担ぐ男。
信長たちは、しばらくその流れを眺めていた。
博之は横で、いつものように軽く頭を下げる。
「念のため、買い食いやお土産用に十万文ほど用意してくださいと申し上げておりましたが、
こちらでさらに二十万文ほど上乗せで用意しておきました」
藤吉郎がぎょっとした。
「二十万文を、買い食いにですか」
「念のためです。思う存分やってください」
信長が呆れたように笑う。
「お前の念のためは、桁がおかしい」
「ただ、先に申しておきます」
博之は真面目な顔になった。
「ここは、お茶一杯三十文という世界です」
「茶一杯で三十文?」
滝川筋の者が思わず声を上げた。
「どういうことやねん」
「それを今から味わっていただくのでございます」
博之はにこりと笑った。
「尾張にはない価値観だと思います。伊勢の国でも、伊勢神宮前だけの価値観です。
座るだけで銭がかかる。けれど、皆それでも払う」
「座るだけで金か」
「はい。疲れた旅人は座りたいんです。座れば茶が欲しい。茶を飲めば甘いものが欲しい。
甘いものを食べれば土産も見たくなる。そういう場所です」
信長は眉を上げた。
「なるほどな。座る場所にも値がつくか」
「はい」
一行は横丁を歩き始めた。
店先には、伊勢の小物だけでなく、各国の品が並んでいた。信楽焼の小皿、常滑の壺、
奈良の葛、京都の小箱、尾張の布、松阪の干物。
藤吉郎は立ち止まった。
「伊勢で、これだけ各国の物が買えるのですな」
「そこに価値があるんです」
博之が答える。
「旅に来られない人は多いです。だから、来た人は土産を買います。自分のため、家族のため、
村の者のため。買って帰ることで、“伊勢へ行った”という証になります」
滝川筋の者たちは、最初こそ恐縮していた。
織田方として伊勢へ来ている。北畠の領分である。下手に浮かれるわけにはいかない。
だが、横丁を歩くうちに、その硬さは少しずつ崩れていった。
「これ、尾張では見たことないな」
「この小皿、母に買って帰るか」
「この菓子、いくらや」
「高っ……いや、でもせっかくやしな」
気づけば、皆の財布の紐が緩んでいた。
博之はそれを見て笑った。
「これです」
「何がや」
信長が聞く。
「伊勢の怖さです。最初は“見るだけ”のつもりでも、だんだん“せっかく来たし”になるんです」
やがて一行は、伊勢松坂屋の店の前にたどり着いた。
そこには、かなりの人だかりができていた。
鉄板の上では、海鮮焼きが丸く焼かれている。
くるりと返るたびに、子どもが歓声を上げる。
「おお、蟹江で見たやつや」
滝川筋の者が声を漏らす。
だが、店先の札を見た瞬間、皆が固まった。
「持ち帰り百五十文。店内二百文……」
藤吉郎が目を丸くする。
「旦那、どんだけぼったくってるんですか」
博之は平然と言った。
「でも見てください。売れてるでしょう」
確かに売れている。
持ち帰りの者もいる。
店内に入る者もいる。
列までできている。
信長は少し呆れたように笑った。
「蟹江より高いな」
「伊勢神宮前価格です」
「開き直ったな」
「場所代、記念代、体験代、信楽焼の器代、寄進分。全部込みです」
博之はさらに言った。
「ちなみに体験講座は四百五十文です」
「誰が買うねん」
滝川筋の者が思わず突っ込んだ。
「完全予約です」
「予約埋まるんか」
「埋まります」
周囲がざわついた。
博之は説明する。
「ご家族で来られた方、夫婦で来られた方が、体験で焼くんです。席は必ずあります。
信楽焼の器に、自分で焼いた海鮮焼きを乗せる。お父さんが焼いたものを子どもが食べる。
お母さんがくるっと回したものを皆で食べる」
藤吉郎が唸った。
「飯ではなく、記念ですな」
「はい。体験です」
博之は頷いた。
「海鮮焼きをくるくる回す。それ自体が土産話になるんです。四百五十文でも人気というのが、
ここの世界観です」
信長は黙ってその様子を見ていた。
蟹江で見た時より、さらに完成されている。
客を捌く女衆。
焼く者。
札を渡す者。
待つ者に茶を出す者。
子どもを退屈させないよう小話をする者。
これは、ただの飯ではない。
横を見ると、別の店ではマグロの汁物が売られていた。
「あれ、蟹江で食ったやつやな」
藤吉郎が言う。
しかし器が小さい。
札を見て、また目を丸くした。
「百文?」
滝川筋の者が言う。
「マグロの汁で百文?」
「汁物です。器も小さいでしょう」
「お前、どんだけぼったくってんねん」
「でも売れてるでしょう」
また同じ返しである。
実際、売れている。
湯気の立つ汁物を手にした参拝客が、嬉しそうに歩いている。
さらに隣では、魚のすり身揚げが売られていた。
「これも下魚やったんちゃうんか」
「元はそうです」
「それを百文で売るのか」
「はい」
「大きさ、そんなにないぞ」
「伊勢神宮前価格です」
「便利な言葉にするな」
博之は笑った。
「でも、伊勢松坂屋の印が押された包みで、ここで買ったものを持って歩く。
それにも価値があるんです」
信長は、すり身揚げを持った参拝客たちが横丁を歩いていくのを見た。
包み紙に印がある。
それを見た別の客が、店の方を見る。
また列が伸びる。
価値が、味だけではなく、場所と印と体験に乗っている。
滝川筋の者たちは、もう完全に黙っていた。
やがて一人がぽつりと言った。
「……見る価値は、ありましたな」
藤吉郎も頷く。
「蟹江で見たものは、ほんの一部でした」
信長はしばらく何も言わなかった。
そして、低く呟いた。
「なるほどな」
その目は、商売を見ているだけではなかった。
伊勢神宮という場所が、どれほど人と銭と価値を生むのか。
北畠がその近くにいて、なぜ簡単には折れないのか。
博之がなぜ「先に見た方がいい」と言ったのか。
少しずつ、つながっていく。
信長は、海鮮焼きの列を見ながら言った。
「これは、見せたくないわけや」
博之は苦笑した。
「でしょう?」
「腹立つくらい、分かる」
横丁の喧騒の中で、織田の者たちは伊勢の“値段の違う世界”を、ようやく肌で理解し始めていた。