作品タイトル不明
松坂城主との会談翌日。朝ごはんを食べたのち、街道沿いを使い伊勢まで向かう。細々とした街道沿いの店の工夫が見える
翌朝、伊勢松坂屋の宿では、まだ日が高くならぬうちから飯の支度が始まっていた。
織田の一行に出された朝飯は、混ぜ飯、味噌汁、鯖の塩焼き、小皿に少しだけ肉あん。
漬物も添えられている。
滝川筋の者が、膳を見て少し驚いた。
「朝から、ずいぶん豪華やな」
藤吉郎は笑いながら箸を取った。
「そう見えますが、これが伊勢松坂屋の朝飯です。腹に溜まるんですよ」
「朝から肉あんまで出るのか」
「少しだけです。これを多くすると重い。少し乗ってるのがええんです」
信長も黙って味噌汁をすすった。
「……うまいな」
博之はその場にはいなかった。
裏では、朝からばたばたと伊勢行きの支度をしていたのである。
「寄進の銭は確認したか」
「はい。伊勢神宮用、二十五万文」
「北畠側、松阪、伊勢城主の交通費と会食代」
「二十五万文」
「蟹江の復旧分はもう先に渡したから、予備は?」
「現金十万文です」
ヨイチが帳面を見ながら答える。
博之は少し考えた。
「念のため、二十万文余分に持っていこう」
「またですか」
「お伊勢さんの買い食いで銭が溶ける感覚を、まだ織田の人らは知らんやろ」
お花が笑った。
「確かに、参拝客は思った以上に銭を使いますからね」
「せやろ。甘いもん、焼き物、札、小物、傘、飯、湯、土産。気づいたら消える」
「二十万文は多い気もしますが」
「足りんよりええ」
ヨイチはため息をつきながらも、追加の銭を用意した。
朝飯を終えた信長たちが表へ出る頃には、荷も人も整っていた。
博之が頭を下げる。
「本日は、陸路で伊勢へ向かいます」
「船ではないのか」
信長が聞く。
「帰りは船です。行きは、松阪から伊勢へ向かう海沿いの人の流れを見ていただきたいんです」
「人の流れか」
「はい。伊勢神宮は、着いたところだけ見ても半分です。そこへ向かう道で、
どれだけ人が歩き、何を買い、どこで休み、何を食べるか。それを見てもらう方が早いです」
藤吉郎が頷いた。
「殿、旦那の言う“価値観が変わる道”ですな」
「大げさな言い方やな」
博之は苦笑した。
「でも、見たら分かります」
一行は街道を進んだ。
松坂を出て、海沿いの道をゆるゆると進む。まだ朝の空気は少し冷たいが、道にはすでに人がいる。
参拝客。
荷を運ぶ者。
土産物を売る者。
旅人相手に茶を出す者。
傘を担ぐ商人。
子どもを連れた家族。
織田の者たちは、その数に少し驚いていた。
「朝から、よう歩いておるな」
「伊勢に近づくほど増えます」
博之は道沿いの小さな店を指した。
「あれはうちの街道の横丁です。港や本店ほど大きくはありませんが、休みどころと
買い忘れ用の店を兼ねています」
店先には、小さな伊勢の小物、手ぬぐい、簡単な菓子、干物、信楽焼の小皿、常滑の
小壺まで並んでいた。
信長が目を留める。
「他国の物も置くのか」
「はい。伊勢神宮で買い忘れた人向け、あるいは“伊勢まで来たけど、松阪や信楽や常滑の品も
買える”という楽しみ向けです」
「買い忘れ用?」
「参拝客って、帰り道で“あれ買えばよかった”ってなるんです。そこに小物があると、財布が開きます」
藤吉郎が笑った。
「商売が細かい」
「細かいところで銭が落ちるんです」
少し進むと、傘を売る店があった。
その近くには、簡単な屋根と腰掛けが作られている。
滝川筋の者が尋ねた。
「あれは何や」
「雨宿り用です」
「傘屋が雨宿りを作るのか。傘が売れんようになるのでは」
「逆です」
博之は答えた。
「雨宿りしてる間に傘を見るんです。急に降った時に“ここで買えばいいか”となる。
しかも、屋根と腰掛けがあると、人が集まる。人が集まると、隣の甘いものも売れる」
「その屋根は誰が作った」
「傘の利益で作りました」
信長は思わず笑った。
「傘を売るために、傘がいらん場所を作るのか」
「雨がやむまで座ってもらう場所です。濡れて困ってる人が、いきなり高い傘を買うより、
落ち着いて選べる方が買いやすいんです」
「ほんま、いちいち考えとるな」
さらに道を進む。
街道の店は大きくはない。だが、どこも少しずつ整っていた。
茶を出す店には、足を洗う桶がある。
小物屋には、荷を一時的に預けられる棚がある。
飯屋には、子どもが座りやすい低い台がある。
炊き出し場の横には、寺への寄進箱が置かれている。
豪華ではない。
だが、人が困る前に、少しだけ助ける仕組みがあった。
信長は、それを黙って見ていた。
やがて、道の向こうに伊勢の町が見え始めた。
その瞬間、空気が変わった。
蟹江の港の賑わいとも違う。
尾張の市の活気とも違う。
松阪の整った流れとも違う。
人が、多い。
ただ多いだけではない。
祈る者。
買う者。
売る者。
運ぶ者。
案内する者。
休む者。
笑う者。
泣く者。
すべてが一つの大きな流れになっていた。
滝川筋の者が、思わず呟いた。
「……これは、城下町とは違うな」
藤吉郎も息を呑んだ。
「蟹江の港どころではありませんな」
博之は静かに言った。
「ここからです」
信長は、遠くに広がる伊勢の賑わいを見つめた。
まだ神宮そのものには着いていない。
だが、すでに分かる。
これは、ただの町ではない。
信仰と商いと旅と飯と銭が、ぐるぐると回る場所。
博之が「見れば分かる」と言った意味が、少しずつ形を持ち始めていた。
信長は低く呟いた。
「なるほどな」
その声には、驚きと、警戒と、そして少しの興奮が混じっていた。