作品タイトル不明
松坂城の会談後伊勢松坂屋の本店を見て意外と小さいと思う一行。宿泊用の施設に迎え入れられ就寝。明日は伊勢。
松坂城での会談は、予想以上に穏やかな空気のまま終わった。
信長も、松阪の城主も、藤吉郎も、酒を飲みながら笑っている。
あれだけ胃を痛めていた博之としては、正直、生きた心地がしていなかったので、
会談が無事終わった時点でかなり肩の力が抜けていた。
「……いやー、とりあえずよかった」
城を出ながら、博之は本気で胸を撫で下ろした。
お花が横で呆れる。
「旦那様、途中から普通に天下の話してましたよ」
「いや、振られたからや!」
「振られても普通そこまで答えません」
「だって信長公、めっちゃ聞いてくるんやもん」
後ろを歩いていた藤吉郎が吹き出す。
「旦那、あれは殿も楽しくなってましたからな」
「こっちは寿命縮んどるんです」
信長はそれを聞いて笑っている。
「お前、ようあそこまで喋ったな」
「だから怖かったんですよ!」
そんなことを言いながら、一行は伊勢松坂屋の本店へ向かった。
信長は、途中で少し首を傾げた。
「……意外と普通やな」
目の前にあるのは、確かに立派ではあるが、城のような巨大屋敷ではない。
港で大規模な横丁を動かし、九鬼水軍と組み、各地に拠点を持ち、
織田と北畠の間を取り持つ男の本拠地にしては、妙に人間臭い大きさだった。
滝川筋の者も思わず言う。
「あれだけ大立ち回りしてるから、もっとでかい屋敷かと思ってました」
博之は苦笑した。
「いや、でかい屋敷って寂しいんですよ」
「寂しい?」
「一人ぽつんって感じになるじゃないですか」
信長が笑う。
「お前らしい理由やな」
「これぐらいの広さやったら、女衆が遊んでくれるんです」
お花が即座に突っ込む。
「語弊があります」
「いや、違うやん。なんかこう、廊下ですれ違ったり、飯食ってたら誰か来たり、
いらんこと言うたら突っ込まれたりする感じがええんですよ」
「旦那様は放っとくと余計なことしかしませんからね」
「そこまで言う?」
ヨイチが真顔で頷く。
「事実です」
座が笑いに包まれる。
博之は肩をすくめた。
「だから、このぐらいで十分なんです」
だが、その代わり――と博之は指を向けた。
「宿泊用のところはちゃんと作ってます。旅人も商人も水軍衆もおりますから」
案内された先には、別棟の宿泊施設が整っていた。
大部屋だけではない。
少人数用の部屋。
湯治場へ近い部屋。
荷を置きやすい土間付き。
女衆や子ども向けの仕切り。
さらには、夜でも炊き出しが受けられる小さな飯場まである。
藤吉郎が感心した。
「ほんまに至れり尽くせりですな」
「旅って、寝る場所と湯と飯でかなり変わるんです」
博之は当然のように言う。
「特に伊勢参り帰りって、みんな疲れてるから」
信長は宿の造りを眺めながら呟いた。
「……宿場町を先に作ってる感じやな」
「近いです」
博之は頷いた。
「今は港周りだけですけど、これを街道沿いでも少しずつやりたいんです」
「飯の道、か」
「はい」
お花が説明を続ける。
「明日は朝、希望される方は朝湯を浴びていただけます。その後、陸路で伊勢へ向かいます」
「船ではないのか」
「行きは陸路の方が、伊勢への流れが見えますから」
ヨイチが地図を広げる。
「途中の宿場、人の流れ、寄進の場所、物売り。全部見てもらう予定です」
「なるほど」
「伊勢城主との会談の後、伊勢神宮へ参拝。その後、帰りは船で松阪港まで一気に戻ります」
滝川筋の者が感心する。
「考えられてるな……」
「疲れ切ってから陸路戻るとしんどいんです」
「だから帰りだけ船か」
「はい。旅って、最後に楽させると満足度上がるんですよ」
「お前ほんま商売人やな」
「飯屋です」
「そこに戻すな」
また笑いが起きた。
夜も更け、一行はそれぞれ宿へ入っていく。
織田の武士たちは、畳の匂いと湯治上がりの心地よさに、思った以上に疲れていたことを知った。
滝川筋の者などは、布団へ入った瞬間に呻いた。
「……柔らかい」
横で藤吉郎が笑う。
「旦那、布団には異様に金かけますからな」
「なんでや」
「寝不足やと、人は荒れるんですって」
「そんな理由で布団に十六万文使うか普通」
別の部屋では、信長が静かに座っていた。
障子の向こうから、女衆の笑い声が少し聞こえる。
大名の城ほど静かすぎない。
かといって、騒がしくもない。
妙に“人が生きている”空気がある。
信長は小さく笑った。
「……なるほどな」
ただ豪華なだけではない。
人が戻ってきたくなる場所を作っている。
それが、伊勢松坂屋なのだ。
その頃、博之はようやく自分の部屋へ戻っていた。
畳へ転がり込み、天井を見上げる。
「……疲れた」
お花が呆れ顔で覗き込む。
「まだ明日ありますよ」
「知ってる」
「伊勢神宮です」
「知ってる」
「信長公もいます」
「知ってる!」
夜市が帳面を持って現れる。
「あと明日の寄進の段取り、確認しておきます?」
「……今?」
「今です」
博之は目を閉じた。
「わし、ただの飯屋やのになあ……」
廊下の向こうで、女衆たちの笑い声がまた響いた。
その声を聞きながら、戦国の覇者たちは、それぞれ静かに眠りにつく。
明日はいよいよ、伊勢。
博之が「価値観が変わる」と言い続けた場所へ向かう日だった。