作品タイトル不明
織田信長お伊勢参りの旅。蟹江に到着し海路で一行は松坂へ。海上で九鬼水軍衆との会話
木下藤吉郎秀吉が先触れとして出て、蟹江で二十五万文を置き、港と城下の様子を見た。
その後を追うように、信長本人が少数の供を連れて出てきたのである。
蟹江の港で一行は落ち合った。
港には、九鬼水軍の船が用意されていた。水軍衆は、いつもの調子で豪快に笑いながらも、
どこか気を遣っている。相手は織田信長である。しかも、少し前まで蟹江で揉めていた相手でもある。
まとめ役が深く頭を下げた。
「本日は松坂までお送りします」
信長は船を見上げた。
「九鬼の船か」
「はい。松坂までなら、これが早うございます」
藤吉郎が横で言う。
「殿、ここから松坂へ入り、一泊。その後、松阪の殿様と伊勢松坂屋の旦那に筋を通し、
伊勢へ向かう段取りでございます」
「分かった」
一行が船に乗ると、蟹江の港が少しずつ遠ざかっていった。
水軍衆は緊張しながらも、海に出ればそこは自分たちの場所である。帆を見、波を読み、
荷の具合を確かめる。織田の武士たちは、陸とは違うその動きに少し戸惑っていた。
信長は船縁に座り、海を見ながら言った。
「蟹江の一件からここまでは、あっという間やな」
藤吉郎が苦笑する。
「話が濃すぎて、昨日のようでもあり、ずっと前のようでもございます」
九鬼のまとめ役が笑った。
「こちらも何が何やらですわ。蟹江で飯屋が仲裁したと思ったら、今度は織田様が
お伊勢参りですからな」
信長は、少しだけ口元を歪めた。
「どういう風の吹き回しか、と思うか」
「正直に申せば、思います」
「松坂の旦那が言ったのや。北畠の奥深さを知らん、と」
水軍衆は顔を見合わせた。
信長は続けた。
「海鮮焼きを見た時、わしらは衝撃を受けた。飯が人を集める。待つ時間まで値に変える。
周りの店を潰さぬよう、お礼札まで配る。あれを伊勢や鳥羽では、もう染み込ませて
運用しているという」
まとめ役が頷いた。
「はい。伊勢の方では、あれはもう珍しいだけの飯ではございません。参拝客が見て楽しみ、
食って喜び、周りの店にも人が流れる。そこまで含めての仕組みになっております」
「それを受け入れておる北畠が、弱いわけがないと、博之は言った」
藤吉郎が続ける。
「武力で勝てるかどうかは別として、負ける気がない、と」
「そうや」
信長は海を見たまま言った。
「それを見に行く。金はかかるがな」
九鬼のまとめ役が笑う。
「七十五万文でしたか」
「もともともろた金やないですか、と言われた」
船の上で笑いが起きた。
藤吉郎は肩をすくめる。
「あの旦那は、そういうところがあります。大きな額を、妙に軽く言う」
「金銭感覚が壊れておりますな」
水軍衆の一人が言うと、まとめ役も笑った。
「ほんまですわ。あの旦那と付き合ってると、こっちまで銭の桁がおかしくなる」
信長は興味深そうに聞いた。
「水軍衆まで、銭の話をするようになったか」
「なりますわ」
まとめ役は胸を張った。
「旦那の買い付け隊で信楽焼を尾張の方へ持って行く。これだけで銭が銭を呼ぶ。
遠方の焼き物というだけで値がつく。そこに伊勢松坂屋と九鬼水軍の信用が乗る。売れる」
「そして帰りか」
「はい。今度は常滑焼を仕入れて、伊勢や松坂へ持って帰る。行きは信楽焼や伊勢の品を下ろし、
帰りは常滑焼を積む。空船にせずに済む。これがでかい」
藤吉郎が頷いた。
「荷が片道だけではなくなるわけですな」
「そうです。船は動かすだけで人が要ります。水夫も食わせなあかん。荷があるなら、
仕事になる。船賃が入り、用心棒代も入り、港にも銭が落ちる。うちの水軍衆も人を集められる」
「うはうは、というわけか」
信長が言うと、まとめ役は少し照れたように笑った。
「まあ、言い方はあれですが、潤っております」
「水軍衆が儲けの話をするとはな」
滝川筋の者が少し驚いたように言うと、九鬼のまとめ役は笑い返した。
「旦那と絡んでいたら、自然とそうなります。あの人は、飯の話をしているようで、
いつの間にか荷の話、銭の話、人の話になりますから」
「飯屋なのにか」
「飯屋なのに、です」
船の上に、また笑いが起きた。
信長は、その笑いを聞きながら、少し黙った。
蟹江で見た港。
松阪の旦那が語った道。
信楽焼、常滑焼、海鮮焼き。
飯、器、船、港、寄進。
それらが一本の線のようにつながっていく。
「なるほどな」
信長は小さく呟いた。
「飯屋と水軍が組むと、こうなるか」
まとめ役は頷いた。
「はい。海の道が太くなります。魚も、焼き物も、人も、銭も動きます。こちらとしてはありがたい。
だから、旦那とは仲良くせなあかんのです」
「博之は、大きくしたいわけではないと言っておったが」
「言いますな」
「だが、飯の道は楽しいとも言う」
「言いますな」
「ちぐはぐな男やな」
「旦那はちぐはぐです」
九鬼の者たちは、遠慮なく笑った。
藤吉郎も苦笑した。
「本人も自覚しております。怖いけど楽しい、と」
「怖いならやめればよいのに」
「目の前に腹を減らした者がいると、やめられないそうです」
信長は、少しだけ目を細めた。
「そこが厄介や」
船は波を切って進む。
やがて松坂の港が見えてきた。
信長の供の者たちは、港の賑わいに目を向けた。蟹江とは違う。ここはすでに、
伊勢松坂屋の根が深く張った場所だった。荷が動き、飯場があり、湯浴み場があり、
焼き物を運ぶ者、魚を捌く者、帳面を持つ者が行き交っている。
九鬼のまとめ役が言った。
「まずは松坂で一泊ですな。旦那も飯を用意しているでしょう」
「また飯か」
信長が言うと、藤吉郎が笑った。
「伊勢松坂屋に来て、飯が出ないことはございません」
「それもそうやな」
信長は、松坂の港を見つめた。
ここから先が、伊勢である。
蟹江の港で見たものが、まだ序の口だったのか。
それを確かめるための旅が、いよいよ始まろうとしていた。