作品タイトル不明
信長が伊勢を見ると決めてからの動きが早かった。少人数で蟹江で落ち合う予定。先行して秀吉たちが蟹江入り。復興の兆しと港の賑わいを見る。
信長が「伊勢を見る」と決めてからの動きは早かった。
早いというより、早すぎた。
「七十五万文と、現金十万文を用意せよ。供は二十人ほどでよい。伊勢神宮へ参る」
そう命が下ると、屋敷の中は一気に慌ただしくなった。
藤吉郎は思わず確認した。
「殿、本当にすぐでございますか」
「決めたら早い方がええ」
「北畠への根回しもございます」
「だから猿、お前が先に文を出せ。伊勢松坂屋にも知らせろ。あいつが慌てる顔が浮かぶわ」
実際、その文を受け取った博之は、屋敷の奥で頭を抱えた。
「行動早すぎやろ……根回しできてへんやん……」
お花が文を読みながら言う。
「伊勢神宮へ参拝。蟹江への詫びと礼。北畠様への顔立て。筋は通っています」
「筋は通ってるけど、こっちの胃が通ってへん」
ヨイチがすぐに帳面を開いた。
「松阪の城主、伊勢の城主、九鬼水軍、神宮周り、蟹江のまとめ役。文を出す先は多いですね」
「うわあ」
「旦那様が案を出した結果です」
「言うな」
博之は急いで文を書いた。
松阪の殿様には、織田信長公が伊勢神宮参拝を望んでいること。北畠様への顔を立てるため、
寄進と会食代を用意していること。蟹江への詫びも含むこと。
伊勢の城主たちには、決して無礼な通行ではなく、参拝と寄進が主目的であること。
飯と礼銭はきちんと用意すること。
九鬼水軍には、船と港の手配。
蟹江には、織田方が復旧のために二十五万文を持参すること。
文を受け取った松阪の城主からは、すぐに返事が来た。
「飯は持ってこいよ。あと寄進も忘れるな」
博之は文を見て呻いた。
「そこはブレへんな」
お花が笑う。
「飯屋ですから」
そして、織田の一行は蟹江へ入った。
信長本人ではなく、まずは藤吉郎を中心に、滝川筋の者たちを含む二十人ほど。
彼らは伊勢神宮へ向かう前に、蟹江へ立ち寄った。
港に近づくと、織田方の者たちは思わず足を止めた。
「……煙が上がっておるな」
「店も動いているぞ」
以前は城下から人が消え、港と郊外に人が逃げていた。だが今は、港だけでなく、
城下の端にも少しずつ人の気配が戻り始めていた。
伊勢松坂屋の蟹江まとめ役が、深く頭を下げる。
「この度は、ようお越しくださいました」
藤吉郎の後ろにいた滝川筋の代表が、一歩前へ出た。
顔は硬い。戦場では強気でいられても、ここでは少し勝手が違う。港の者たち、
避難していた民、寺の者たちが見ている。
代表は、ゆっくり頭を下げた。
「この度は、蟹江にて大きな迷惑をかけた。こちらは戦として動いたつもりであったが、
結果として城下の者たちを不安にさせ、家を離れさせ、暮らしを乱した」
周囲がざわついた。
織田方の武士が、蟹江の者に頭を下げている。
代表は続ける。
「休戦の折に受け取った銭のうち、二十五万文を持参した。町の復旧、炊き出し、
寝床、湯浴み、道具の買い直しに役立ててほしい」
木箱が運ばれる。
二十五万文。
その重みは、見ている者たちにも伝わった。
蟹江のまとめ役は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。伊勢松坂屋としても、蟹江の方々の立て直しに使わせていただきます」
周囲から、低いどよめきが起きた。
「ほんまに銭を置いていった」
「詫びてくれたんか」
「旦那様の言うてた通りや」
まとめ役は、さらに言った。
「博之の旦那様からも、お言葉を預かっております。織田の皆様は、この後、伊勢神宮へ参拝に
向かわれるとのこと。どうぞお気をつけてお進みください。蟹江は、まだ完全に戻ったわけでは
ありませんが、一年の休戦をいただいたおかげで、少しずつ立て直しております」
藤吉郎は周囲を見た。
以前より明らかに人がいる。
炊き出しの煙。
湯浴み場へ向かう桶。
横丁の仮店。
荷を運ぶ若者。
子どもを連れた女衆。
港には、普段の倍ほどの屋台と飯場が並んでいた。
「これは……立ち上がりが早いな」
滝川筋の者が呟いた。
まとめ役が答える。
「織田様との会談の後、一年の休戦と聞いて、皆、少し安心しました。城下に戻る者もおりますし、
まだ怖くて港や郊外に残る者もおります。旦那様が“城下でもやるなら伊勢松坂屋ができる範囲で
手を出す”と言われましたので、少しずつ店を動かしております」
「城下にも飯場を?」
「はい。空き家を借り、炊き出しと小さな飯屋を始めています。完全ではありませんが、
人が戻るきっかけにはなります」
藤吉郎は、改めて港を見渡した。
思っていたより大きい。
ただ避難民を置いているだけではない。港そのものが、もう一つの町のようになっている。
「普段の横丁の倍はありますな」
「はい。城下で支えきれなかった人たちを受けるため、旦那様が増やしました。
飯場、寝床、湯浴み、荷運び、見習いの仕事。全部を十分にとはいきませんが、難民にせず、
避難した人として扱えるようにしております」
滝川筋の者たちは、言葉を失った。
自分たちが取った城下は空になった。
しかし、飯屋が作った港には人が残った。
しかも、そこには飯と仕事と最低限の秩序がある。
藤吉郎は静かに言った。
「殿が見よと言われた意味が、少し分かります」
まとめ役は頭を下げた。
「伊勢松坂屋は、戦はできません。ただ、飯を出すことと、人を戻すことはできます」
その言葉は、織田方の者たちの胸に重く残った。
蟹江を発つ前、滝川筋の代表はもう一度頭を下げた。
「この町が戻るよう、こちらも気をつける」
まとめ役は答えた。
「ありがとうございます。皆が戻れる町になるよう、こちらも働きます」
こうして、織田の一行は蟹江を後にした。
次に向かうのは、伊勢神宮。
彼らはまだ知らない。
蟹江で見た港の立ち直りは、伊勢で見るものの前触れにすぎないということを。
海鮮焼き。
寄進。
参拝客。
周りの店との共存。
神宮前で回る、飯と銭と信仰の道。
藤吉郎は馬上で小さく呟いた。
「旦那、やっぱり見せたかったんやな」
そして、少しだけ胃が重くなった。
伊勢を見た信長が、また何を言い出すのか。
それを考えると、旅は始まったばかりなのに、もう十分すぎるほど濃かった。