作品タイトル不明
織田が飯屋の意見を参考に炊き出しや町の溶け込み方を学ぶ。織田信長が伊勢神宮にお参りに行く方向にかたまる
藤吉郎が腰を上げかけたところで、博之はふと思い出したように手を叩いた。
「あ、秀吉さん。帰る前に一つだけ」
「まだ何か出ますか」
「そんな嫌そうに言わんといてください」
博之は少し身を乗り出した。
「織田様が、寄進や炊き出しや飯場作りを学ばせる人を育てたいという話でしたよね」
「はい。殿も本気です。美濃へ染み込ませる者を育てたい、と」
「それなら、秀吉さんみたいな人を多めに雇うのをおすすめします」
「私みたいな人?」
「身分が低いところから上がってきた人。根なし草、口減らし、食えなくなった若い者、
家に居場所がない者。そういう人です」
藤吉郎は、少しだけ目を細めた。
「なぜです」
「まず、安く雇えます」
「いきなり身も蓋もないですな」
「でも大事です。最初から高い給金を払わなくても、寝るところと飯をちゃんと出せば、
かなり働いてくれます。もちろん、使い潰したらあきませんよ。そこは絶対にあかん。
でも、飯と寝床があるだけで救われる人間は多いです」
藤吉郎は黙って聞いた。
「それと、そういう人らは、寺社や町場、下々の人らに溶け込みやすいです。お侍様が
いきなり来て“困ってることはないか”と聞いても、皆、構えます。でも、元々似たような
境遇の者が飯を配りながら話を聞くと、ぽろっと本音が出ることがあります」
「なるほど」
「読み書きがまだできない子らでも、使い方はあります。むしろ、そういう子らを
炊き出しや市や寺の手伝いに放り込む。そこで一緒に体験させる。何を見たか、
何を感じたか、誰が怒ってたか、誰が喜んでたか。文字で書けなくても、
口で話してもらえば、それがそのまま情報になります」
「下々の目で見た情報、ですな」
「はい。帳面に乗らない情報です。これが大事です」
博之は、自分の胸を軽く叩いた。
「私は元が根なし草ですから、飯をもらった時の顔とか、寝床を用意された時の安心とか、
逆に偉そうにされた時の恨みとか、多少は分かります。そういう感覚を持った人間を使うと、
美濃で何が起きているか拾いやすいと思います」
藤吉郎は、深々と頭を下げた。
「ありがたい話です。これは殿にも伝えます」
「ただし、ちゃんと育ててくださいね。飯と寝床を与えて働かせるだけやと、ただの使い捨てに
なります。読み書き、礼儀、嘘をつかないこと、仲間を売らないこと、弱い人から奪わないこと。
そこを教えんと、逆に織田様の評判を落とします」
「肝に銘じます」
「あと、女衆の声も拾った方がいいです。炊き出しの列とか、湯浴みとか、子どもの世話とか、
そこに町の本音が出ます」
「本当に、飯場の話は奥が深いですな」
「飯屋ですから」
「もう、その言葉が怖いです」
藤吉郎は苦笑し、文を懐にしまって織田の屋敷へ戻っていった。
信長は、藤吉郎の報告を聞くなり、膝を叩いて笑った。
「やっぱり、素直に聞いたら素直に教えてくれたか」
「はい。かなり出てきました」
「伊勢の行き方まで出してきたんやろ」
「はい。蟹江の百五十万文のうち、七十万から七十五万文ほどを使う案でございます」
「そんなに使わなあかんのか」
信長は呆れた顔をした。
「伊勢神宮への寄進に二十五万文。北畠、松坂、伊勢の顔役への交通費、警護、会食代に
二十五万文。蟹江への施しや復旧に二十五万文。あとは十万文ほどを参拝の持ち銭に、とのことです」
「高い参拝やな」
「ただ、博之いわく、“もともと人からもらった金でしょう”と」
信長は一瞬黙り、それから声を上げて笑った。
「あいつ、ほんまに言いよったか」
「はい。乱暴な言い方ではありますが、筋は通っています」
「筋はな」
「伊勢へただで通せとは言えません。北畠の顔を立て、神宮に寄進し、
蟹江にも銭を落とす。詫びと礼と参拝を一つにまとめる形です」
信長は、少し考え込んだ。
「海鮮焼きの件も言うておったか」
「はい。蟹江で見た海鮮焼きは一部で、伊勢神宮前ではそれがもっと自然に、
もっと大きく運用されていると。値段、客の流し方、周りの店との共存、寄進への回し方。
そこを見ることで、北畠の底の深さが分かると言っておりました」
「北畠の底の深さ、か」
「博之は、北畠の軍勢の強さは知らないと言っております。ですが、伊勢神宮、
港、寺社、商人、飯場、寄進、その絡み合いを見ずに攻めても、攻めあぐねて国力を減らすだけだと」
「耳が痛いことを言う」
「殿が学ぶのは嫌いでしょう、とも言っておりました」
「殺すぞ、あいつ」
信長はそう言いながらも、顔は笑っていた。
「しかし、海鮮焼きであれだけのものを見せられた後なら、その本場を見る価値はあるか」
「私もあると思います。特に、同盟や今後の交渉を考えれば、金で筋を通せるなら安いとも言えます」
「金で解決、というのは乱暴やがな」
「ただで通せと言うよりは、よほど穏当です。神宮にも、北畠にも、蟹江にも顔が立ちます」
信長はしばらく黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「その方向で調整してみろ」
「はっ」
「ただし、北畠には角を立てるな。あくまで参拝や。蟹江の礼と詫びも混ぜる。伊勢松坂屋にも
筋を通させる」
「承知しました」
「それと、根なし草や身分の低い者を雇う話」
「はい。寝床と飯を与え、読み書きと礼儀を教え、炊き出しや寺社回りに入れれば、
町の本音を拾いやすいと」
「それも使える」
信長は藤吉郎を見た。
「猿。お前が育てろ」
「私が」
「そうや。お前だから分かることもあるやろ。出の低い者が、飯と寝床を得て、
働き、上がっていく。その道を作れ」
藤吉郎は深く頭を下げた。
「承知しました」
信長は、少し楽しそうに笑った。
「伊勢松坂屋の飯屋、ほんまによく出してくるな」
「殿の読み通りでした」
「あいつは嫌がりながら考える。そこが面白い」
「そして、だいたい筋が通っています」
「そこが腹立つ」
信長は立ち上がり、地図の伊勢を見た。
「まずは伊勢を見る。見て、学べるものがあるなら学ぶ」
少し間を置いて、信長は小さく呟いた。
「飯屋に学ぶのは癪やがな」
藤吉郎は頭を下げたまま、笑いをこらえた。
こうして、蟹江の飯会から始まった話は、織田信長のお伊勢参りという新たな筋へとつながり始めた。