作品タイトル不明
蟹江にて信長一行が帰った後に落ち着く現場。1年の休戦を聞いて喜ぶ人々。城下の立て直しを頼られる伊勢松坂屋www今日は帰って寝たいと博之
織田信長の一行が港を離れると、博之はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
海鮮焼きの鉄板からは、まだ湯気が上がっている。お好み焼きの方では、女衆が片付けを始めていた。蟹江の港の者たちは、遠巻きにこちらを見ている。
博之は、ようやく大きく息を吐いた。
「……命があってよかったな」
お花が隣で笑った。
「まずそこですか」
「まずそこやろ。織田信長公やぞ。下手なこと言うたら、普通に首飛ぶやろ」
ヨイチが淡々と言った。
「旦那様、下手なことはかなり言っておられました」
「言うな」
「美濃を取る、南近江を取る、京都を取る、伊勢を大義名分で取り込む、と」
「聞かれたからや」
「聞かれても普通は言いません」
博之は頭を抱えた。
「もうええ。とりあえず一年や。一年は見てもらえる」
その言葉に、周りで聞いていた蟹江の者たちが一斉にざわついた。
「一年?」
「ほんまに一年、戦止まるんですか」
「旦那様、ありがとうございます!」
一人が頭を下げると、周りも次々に頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「これでちょっと落ち着けます!」
「子どもをどこに置くか、考える時間ができます!」
博之は慌てて手を振った。
「いやいや、待ってください。言うても一年です。まずは一年。これで全部解決やないです」
それでも、人々の顔には明らかに安堵があった。
博之は、少し声を強めた。
「一年あれば、城下に帰れる人も出るかもしれません。逆に、もう城下には戻りたくないと
いう人もおると思います。港や郊外で暮らしたい人もおるでしょう。うちは炊き出しもします。
湯浴みも寝床も、できる範囲では用意します」
そこで、少し間を置いた。
「でも、施しを受けるだけでは続きません。皆さんも、仕事を探すなり、うちで働くなり、
商いを覚えるなり、何か考えていかないといけません。うちでできることはしますけど、
限りはあります」
年配の男が頷いた。
「それはそうです。飯をもらうだけでは、いつまでも戻れん」
若い女が言った。
「でも、うちで働かせてもらえるなら、覚えたいです。飯場でも、洗い物でも、何でも」
別の男が声を上げた。
「空き家があるなら、そこで飯屋をやってくれてもええです。城下に人が戻るきっかけになります」
「うちを使ってください。港の荷運びでも、市の手伝いでも」
「城下の立て直しをやるなら、伊勢松坂屋さんに入ってほしいです」
博之は、少し困った顔で笑った。
「やるかあ」
お花が横で言った。
「やる流れですね」
「やる流れやな」
博之は諦めたように頷いた。
「じゃあ、まずは人を雇います。飯場、市、湯浴み、寝床、荷運び、掃除、炊き出し。
できるところからやりましょう。城下の空き家を使えるなら、そこも確認します。ただし、
織田方にも筋を通さなあかん。勝手に砦みたいにしたら終わりです」
「砦にはしません!」
「飯屋ですもんね!」
「そうです。飯屋です」
博之は、そこだけは強く言った。
「今回、私は織田の殿様にめちゃくちゃ怖い思いをしながら話しました。
税を取る人もおらん城下では、結局誰も得しませんと。私らは今回、
ご近所さんやったから助けました。でも、こんなこと毎度毎度できるわけではありません」
周囲は静かに聞いていた。
「だから、普段から寺社に寄進して、炊き出しして、顔役と話して、いざという時に
逃げ込める場所を作っておかないといけない。戦が起きてからでは遅いんです」
港の者たちは、深く頷いた。
「それで、織田様は分かってくれはったんですか」
「全部かは分かりません。でも、少なくとも今日見てはくれました。荒れた城下と、
動き始めた港。その差は見てもらえたと思います」
「ほな、戦の仕方も変わりますかね」
「分かりません」
博之は正直に言った。
「織田様は大名です。領地を広げるのも、戦をするのも、やめるわけではないと思います。
ただ、今回みたいに真正面からぶつかって、城下が空になるようなやり方だけではないかもしれない。
そういうことを、少し考えてもらえたなら、今日の飯会は意味がありました」
それから、少し声を落とした。
「でも、警戒はしてください。ここは境目です。境目は揉めやすい。嫌なら引っ越すのも一つです。
港で働くのも一つ。桑名や常滑、津島へ移るのも一つ。うちの領分ではないので、
全部を守るとは言えません」
「それでも、港と郊外は頑張ってくれるんですよね」
「はい。そこは頑張ります。だから、皆さんも一緒に生活を立て直していきましょう」
その言葉に、また深く頭を下げる者が出た。
「旦那様、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
「ほんまに助かります」
博之は照れたように手を振った。
「いや、もうお礼はええです。片付けしましょう。鉄板も冷める前にちゃんと見といてください。
海鮮焼きの道具は数を確認。なくなってたら泣きます」
その一言で、周囲に笑いが戻った。
片付けが始まる。
信楽焼の皿を拭く者。
常滑の小壺を箱へ戻す者。
鉄板を洗う者。
余ったすり身を炊き出し用に回す者。
肉あんの残りを数える者。
お好み焼きの粉の残りを帳面に書く者。
博之は、それを見て、ようやく少しだけ安心した。
「……事なきを得たな」
お花が言った。
「事なきを得たどころか、一年取りました」
「飯で一年。怖い話や」
「旦那様が天下の話までしたからでしょう」
「そこは忘れてください」
「無理です」
ヨイチが横で頷いた。
「記録に残します」
「残すな」
「重要発言です」
「ほんまやめて」
やがて荷がまとまり、博之たちは九鬼水軍の船へ戻った。
蟹江の港の者たちが見送ってくれる。
「旦那様、また来てください!」
「今度は城下の方も見てください!」
「海鮮焼き、またやってください!」
「それは限定です!」
博之は苦笑しながら船に乗った。
船が岸を離れると、どっと疲れが出た。
「疲れたわあ……」
博之は船縁に座り込んだ。
九鬼水軍のまとめ役が、にやにやしながら言う。
「旦那、めちゃめちゃ格好よかったぞ」
「どこがですか」
「信長公相手に、美濃、南近江、京都、伊勢の話をしてたやないか」
「もう言わんといてください」
「天下を語る飯屋やな」
「私はただの飯屋です」
お花が笑った。
「でも、今日の旦那様は確かに少し格好よかったです」
「ほんまに?」
「少しだけ」
「少しだけかい」
ヨイチが真面目な顔で言った。
「海鮮焼きの説明もよかったです。取り過ぎない、周りを潰さない、長く価値を生み出す。
あれは織田様にも刺さっていたと思います」
「刺さったならええけど、こっちの胃にも刺さってるわ」
博之は空を見上げた。
蟹江の港が遠ざかっていく。
一年。
たった一年かもしれない。
だが、逃げた者が腰を落ち着け、仕事を覚え、城下に戻るかどうかを考えるには、
十分に意味のある時間だった。
「帰ったら寝よう」
博之はぼそっと言った。
「帳簿は?」
ヨイチが言う。
「寝てから」
「明日ですね」
「明後日でもええ」
「明日です」
「鬼や」
お花がくすくす笑った。
「旦那様、今日はもう休みましょう。織田信長公に飯を食べてもらって、生きて帰れたんですから」
「ほんまそれ」
博之は目を閉じた。
「生きて帰れるだけで大勝利や」
船は松阪へ向かって進んでいく。
波の音に混じって、九鬼の者たちの笑い声が聞こえる。
「天下を語る飯屋」
「海鮮焼きで一年取った男」
「蟹江の飯の神」
「やめろー」
博之は目を閉じたまま、弱々しく抗議した。
だが、その声にも少しだけ安堵が混じっていた。
蟹江の会談は終わった。
火種はまだ消えていない。
尾張も、美濃も、北伊勢も、何一つ安心はできない。
けれど、今日だけは。
飯で、一年の時間を作った。
博之は船の揺れに身を任せながら、ただ一言だけ呟いた。
「もう帰って寝よ」
それを聞いたお花とヨイチは、顔を見合わせて笑った。
伊勢松坂屋の旦那は、今日も最後はただの飯屋の顔に戻っていた。