軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

蟹江の会談が終了。織田と1年の休戦と津島、常滑の商売の権利と荷駄と物流の安定を約束される。信長は帰りながら秀吉と話す

信長は、海鮮焼きを食い終えると、しばらく黙っていた。

怒っているわけではない。

不機嫌でもない。

ただ、考えている。

博之は、それが一番怖かった。

やがて信長は、椀を置き、短く言った。

「うまかった」

「ありがとうございます」

博之は深々と頭を下げた。

「蟹江の件、一年は見る」

その言葉に、博之の周囲がわずかにざわついた。

半年ではなく、一年。

港のまとめ役も、九鬼水軍の者も、北伊勢の顔役たちも、思わず顔を見合わせる。

博之は、もう一度頭を下げた。

「重ねて、ありがとうございます。蟹江の者たちも、これで少し腰を据えて立て直せます」

「分かっておる」

信長は手を振った。

「その話は、後でちゃんと書面にしてやる。口約束だけでは、そちらも困るやろ」

「はい。では、改めてご挨拶に参ります」

「来い。ただし、飯も持ってこい」

「それはもちろんです」

藤吉郎が横で笑った。

「殿、もう飯を前提にしておられますな」

「食える時に食う。うまいものは覚えておく」

信長はそう言って、立ち上がった。

博之は一行を港まで見送った。

蟹江の住民たちは、遠巻きに見ていた。先ほどまでの緊張はまだ残っている。だが、少なくとも、

織田信長が飯を食い、怒鳴り散らすでもなく、港や飯場を焼くでもなく帰っていく。

その姿は、住民たちの目にも焼きついた。

九鬼水軍のまとめ役が、博之の隣で小さく言った。

「まずは事なきを得たな」

「得ましたね」

「一年やぞ」

「ありがたいです」

「飯で一年買ったようなもんやな」

「そう言われると怖いですね」

博之は、信長の背を見送りながら呟いた。

「でも、これで蟹江は少し息ができます」

信長は、帰り道で藤吉郎を横に呼んだ。

「あいつは面白かったな」

「面白かったです」

藤吉郎は正直に答えた。

「ただ、結局あの者は飯屋なのか、何なのか、ますます分からなくなりました」

「飯屋やろ」

「飯屋ですか」

「飯屋や。ただし、道を見る飯屋や」

信長は、歩きながら続けた。

「物流の道の楽しさに気づいておる。道を見るということは、国を見るということや」

藤吉郎は、黙って聞いていた。

「言うていることも理にかなっておる。蟹江の件で、こちらのやり方が荒かったのも確かや。

銭を出させ、普請させ、取ればよいという考えがあった。武将や兵としては

間違いではないかもしれん。だが、その後、住民が城下に戻り、税を納め、

商いをするところまで見ていなかった」

「耳が痛い話でございました」

「耳が痛いからこそ聞く価値がある」

信長は、少し不機嫌そうに言いながらも、どこか楽しげだった。

「お前のような者は必要やな」

「私でございますか」

「そうや。戦場で槍を振るう者だけでは足りん。話を聞き、相手の腹を探り、

落としどころを作る者。戦の後で寺社や商人、百姓の顔を立てる者。そういう者を育てねばならん」

藤吉郎は頭を下げた。

「ありがたきお言葉でございます」

「自分の分身をたくさん作っておけ」

「分身、でございますか」

「お前が一人で全部行くわけにはいかん。蟹江で見たやろ。飯屋の古参どもは、

旦那がおらんでも飯場を回す。女衆も小話をしながら客を回す。港の者も、荷を動かす。

ああいうふうに、考え方を持った者を増やすのや」

藤吉郎は、蟹江の港の光景を思い出した。

鉄板の前で笑う女衆。

炊き出しを仕切る寺の者。

港の荷を動かす伊勢松坂屋の若者。

信楽焼の皿を丁寧に並べる者。

海鮮焼きを出しすぎないように目配りする者。

確かに、あれは博之一人の力ではなかった。

「承知しました」

信長は、さらに先の話へ移った。

「美濃の話も、あいつはなかなか筋がよかった」

「斎藤でございますな」

「龍興の代になり、斎藤道三に恩義や未練のある者もおるやろう。

国境の小競り合いから始め、切り崩す。寺社仏閣、商人、住民への炊き出し。

そういう地道なところも、軽く見てはいかんな」

「はい」

「武で押すだけでは、城は取れても国は痩せる。痩せた国を抱えても、次の戦に使えん」

藤吉郎は、その言葉に背筋を伸ばした。

信長は地図を頭の中でなぞるように言った。

「尾張、美濃、そして南近江。あいつの言う通り、美濃を取り、南近江を押さえれば、

北伊勢を二方向から挟める。六角をどう扱うかは別として、道としては見える」

「はい」

「北伊勢の国人衆は、今は飯屋に寄っておる。だが、それも見方を変えれば、

まとめ役がないということや。飯屋に野心があれば、北伊勢まるごとあいつの手に

落ちていたかもしれん」

藤吉郎は、思わず頷いた。

「確かに、蟹江の件で伊勢松坂屋の名はさらに上がりました。北伊勢の飯荷の約定も、

あの者の名があるからまとまりかけております」

「そうや」

信長は少し笑った。

「長野家も、気づけば北畠に転がり込んだ。あいつが望めば、伊勢の真ん中を自分のものに

できたかもしれん。それを北畠に渡したようなものや」

「本人は、飯屋でいたいと言っております」

「そこがありがたい」

信長は、はっきり言った。

「野心がないのはありがたい。だが、器がないわけではない」

藤吉郎は、その言葉に少しぞくりとした。

「器が大きい、ということでございますか」

「ああ」

信長は、遠くを見た。

「放っておける程度の器なら、よかった。港の飯屋が少し流行っておる、ぐらいならな。

だが、あれは違う。飯で人を集め、荷で道を作り、銭を回し、寺社を立て、国人衆を座らせる。

しかも、聞けば美濃、南近江、京都まで筋を立てる」

「怖い相手でございますな」

「敵なら怖い」

「味方なら」

「便利や」

信長は、にやりと笑った。

「ただし、完全な味方にはならんやろうな。あいつは飯屋でいたい。北畠にも義理がある。

九鬼にも縁がある。寺社にも根を張っておる。だから、取り込むより使う。使いながら見る」

「蟹江の一年は、そのためでございますか」

「そうや」

信長は頷いた。

「一年見れば分かる。あいつが尾張で何をするか。津島、常滑、蟹江でどう銭と人を回すか。

北伊勢の国人衆がどう動くか。九鬼がどこまで絡むか」

「そして、美濃に向かう間の後ろを静かにできる」

「それもある」

信長は少し歩調を緩めた。

「蟹江でまた騒げば面倒や。飯屋に一年やってもらい、その間に美濃を見た方がよい。

あいつの言うように、争う先を減らす」

藤吉郎は深く頭を下げた。

「では、蟹江、津島、常滑の伊勢松坂屋の動きは、こちらで見ながらも、当面は認める形で」

「書面にする。だが文言は慎重にせよ。伊勢松坂屋に領地を与えるわけではない。

飯場と市、港の商いを認める。兵を抱えぬ。砦にせぬ。織田方にも飯を出す。

北伊勢の約定は、荷と飯場の安全に限る」

「承知しました」

信長は、ふと笑った。

「しかし、飯屋にここまで条件をつけるとはな」

「飯屋とは思えぬ飯屋でございますから」

「いや、飯屋や。飯屋だからこそ面倒なのや」

藤吉郎は、その言葉を噛みしめた。

もし博之が武士なら、敵か味方かで測れた。

もし商人なら、銭で縛れた。

もし僧なら、宗派で見られた。

だが、博之は飯屋だった。飯を出し、人を寄せ、道を作る。

「猿」

「はっ」

「あいつを見ておけ」

「はい」

「それと、真似できるところは真似ろ」

「飯を、でございますか」

「飯そのものではない。人を集める仕組みや。戦の後にどう戻すかや。城を取った後、

城下を空にせず、税を納める者を残すやり方や」

「承知しました」

信長は、最後に少しだけ笑った。

「とはいえ、飯はうまかったな」

「はい」

「腹立つくらいに」

藤吉郎も笑った。

「殿、それはもう褒め言葉でございます」

「そうやな」

信長は、遠ざかる蟹江の港を振り返らなかった。

だが、頭の中には、あの光景が残っていた。

海鮮焼きに群がる人々。

お好み焼きの匂い。

荒れた城下と、動き始めた港。

飯屋の旦那が語った、美濃、南近江、京都、伊勢への道筋。

「面白いやつや」

信長は低く呟いた。

「だが、面白いだけでは済まんな」

藤吉郎は、その言葉に静かに頷いた。

蟹江の飯会は、ひとまず事なきを得た。

しかし織田家の内側では、すでに次の戦と、次の治め方について、小さな変化が生まれ始めていた。