作品タイトル不明
いよいよ蟹江会談。数日前から色々動いている。松坂の港を出て、当日のメニューの確認等。お好み焼きの意味に気づくか?
蟹江での会談の日取りが、おおよそ見え始めた。
まだ正式に織田信長公が来ると決まったわけではない。だが、木下藤吉郎が松阪で何日も泊まり込み、
飯を食い、話を聞き、帰っていった以上、ただの探りで終わるとも思えなかった。
博之は先に文を飛ばした。
蟹江のまとめ役へ。
「マグロの汁物、魚のすり身揚げ、まぜ飯、肉あん、漬物を用意。器は信楽焼の皿を一式。
常滑焼の小壺も少し混ぜてよい」
さらに別の文には、こう書いた。
「お好み焼き用の鉄板を用意。港の市のにぎわかしとして当日やる。海鮮焼き用の丸型鉄板も用意。
ただし、海鮮焼きは合図があるまで出さない。材料は絞る。見本として焼けるだけでよい」
文を出した後、博之は松阪の港へ向かった。
荷はすでにまとめられていた。
鉄板。
油。
粉。
刻んだ野菜。
魚のすり身。
マグロの端を使った汁物の材料。
肉あん用の仕込み。
信楽焼の皿。
常滑の小壺。
そして、海鮮焼き用の丸い鉄板と、最低限の具材。
九鬼水軍の船に積み込むと、まとめ役がにやにやしながら博之を見た。
「旦那も面白いな。織田の殿様に飯を食わせに行く飯屋なんて、そうそうおらんぞ」
「好きでこうなったわけじゃないです」
「そう言いながら、鉄板まで積んどるやないか」
「鉄板は大事です」
「飯屋の戦道具やな」
「物騒な言い方やめてください」
船が出る。
松阪の港が少しずつ遠ざかっていく。海風を受けながら、博之は落ち着かない顔で荷の方を見ていた。
九鬼のまとめ役が笑う。
「緊張しとるんか」
「してますよ」
「緊張してるやつが、そんな頻繁に殿様方と会うか?」
「こっちが聞きたいです」
「松坂の殿様、六角の使者、北伊勢の国人衆、今度は織田信長公。次はどこの殿様や」
「もう勘弁してください」
九鬼の者たちは笑っていたが、その笑いの中にも緊張があった。
蟹江は、ただの飯会の場ではない。
織田方が見ている。
北伊勢の国人衆も気にしている。
六角も、北畠も、遠くから様子を探るだろう。
蟹江の住民たちも、自分たちを荒らした側の大将が来るかもしれないと聞けば、当然ざわつく。
博之は海を見ながら言った。
「でも、これで半年の停戦が一年になるなら、来る価値はあるんちゃいます?」
「分からんぞ」
「分かってます。まだ何も決まってません。ただ、話す場ができるだけでも大きいです」
「織田の殿様が、お前の飯を食いに来る。それだけで周りは大騒ぎや」
「だから、ビビるのを和らげるために、お好み焼きをやるんですよ」
九鬼のまとめ役は、少し首をかしげた。
「お好み焼きで?」
「はい」
「飯で緊張が和らぐんか」
「和らぎます」
博之は真面目に言った。
「鉄板で焼くでしょう。匂いが出る。人が寄る。ひっくり返すところを見る。焼けるまで待つ。
待ってる間に、隣の人と話す。子どもが見たがる。大人が笑う。そうすると、場が
少し柔らかくなるんです」
「なるほどな。飯を食う前から飯が始まっとるわけか」
「そうです」
「海鮮焼きはどうする」
博之は少し考えてから答えた。
「海鮮焼きは、言われたら出します」
「出さんのか」
「最初から大々的には出しません。危険です」
「危険って、飯やろ」
「飯です。でも、あれは場を持っていきすぎる」
博之は船の隅に積まれた丸型鉄板を見た。
「海鮮焼きは、見て楽しいんです。丸い穴で焼いて、くるっと返す。海鮮の匂いが広がる。
焼けるまでの間に人が集まる。食べる前から“あれ何や”ってなる。しかも食べたらうまい」
「それなら、見せた方がええんちゃうか」
「それで価値に気づいてもらえたら、話は大きく動きます」
「ならええやないか」
「良い話でもあり、怖い話でもあります」
博之は息を吐いた。
「織田様が、これを尾張の港でやれと言ってくれるなら、うちは尾張に大きな道を作れます。
蟹江の停戦も延びるかもしれない。津島や常滑の横丁も安定するかもしれない」
「ええこと尽くしやな」
「ただし、価値に気づいた上で、道具や焼き方や人の流し方を取り上げようとされたら怖い。
あるいは、うちが尾張に根を張りすぎると警戒される」
「面倒やな」
「面倒です」
九鬼のまとめ役は、腕を組んで笑った。
「飯屋のくせに、考えが深いな」
「飯屋やからです」
博之は真面目に言った。
「マグロの汁物やすり身だけなら、“捨てる魚をうまく食わせる飯屋”で終わるかもしれません。
肉あんなら、“高いけどうまいものを売る飯屋”で終わるかもしれません」
「それでも十分やと思うがな」
「でも、それだけでは話は大きく動かないと思います。納得はしてもらえる。
でも、停戦を延ばすとか、尾張の港でやろうとか、そういうところまでは届きにくい」
「では何が必要や」
「飯は、腹を満たすだけじゃないということです」
博之はゆっくり言った。
「見せる。待つ。匂いで寄せる。焼けるまで会話する。食べた後に、あれは面白かったと言える。
飯が、人の集まる場を作る。そこまで感じてもらわないと、伊勢松坂屋が何をしているのかは
伝わらないと思います」
九鬼のまとめ役は、しばらく黙っていた。
「つまり、織田の殿様に飯を食わせるんやなくて、飯で場ができるところを見せるんやな」
「そうです」
「それを信長公が分かるか」
「分かりません」
「木下殿は?」
「木下さんは味は分かってます。でも、海鮮焼きで周りが楽しむところまではまだ見てない。
そこが肝です」
「周りが楽しむところ」
「はい。信長公と木下さんが、お好み焼きで人が寄るところを見て、さらに海鮮焼きで
空気が変わるところに気づくかどうか。そこが分かれ目です」
船の上に、少し静かな時間が流れた。
遠くに蟹江へ続く水の道が見えてくる。
九鬼のまとめ役が、ふと笑った。
「それにしても、織田の殿様相手に“飯の価値に気づくかどうか”を試す飯屋か。旦那、
やっぱり面白いわ」
「試すなんて言い方しないでください。怖いでしょう」
「実際、試しとるやろ」
「……少しだけです」
「正直やな」
博之は頭をかいた。
「でも、これはうちにとっても大事なんです。信長公が、飯をただの兵糧としてしか見ないなら、
うちは距離を置いた方がいいかもしれない。飯が場を作ることに気づくなら、話せることが増える」
「なるほどな」
「だから、お好み焼きはにぎやかしでやる。海鮮焼きは求められたら見せる。最初から全開にはしない」
「加減が難しいな」
「めちゃくちゃ難しいです」
九鬼の者が、荷の縄を締め直しながら言った。
「まあ、飯屋の戦は、火加減と見せ加減やな」
「うまいこと言いますね」
「海の者も、火と風の加減は大事やからな」
博之は少し笑った。
船は蟹江へ近づいていく。
港では、すでに伊勢松坂屋の者たちが動いているはずだった。
信楽焼の皿を並べる者。
マグロの汁物を仕込む者。
すり身をこねる者。
肉あんを温める者。
お好み焼きの鉄板を磨く者。
そして、海鮮焼きの丸型鉄板を、合図があるまで隠しすぎず、目立たせすぎずに置く者。
蟹江の住民も、きっとざわついているだろう。
織田信長公が来るかもしれない。
伊勢松坂屋の旦那が飯を出す。
戦で空になった城下のそばで、飯の市が立つ。
博之は胸の奥の緊張を押さえながら、ぽつりと言った。
「まあ、飯だけはうまくしよう」
九鬼のまとめ役が笑った。
「そこはいつも通りやな」
「うちは飯屋ですから」
その言葉は、波の音に混じって、まっすぐ蟹江の港へ流れていった。