作品タイトル不明
木下藤吉郎秀吉が伊勢松坂屋に来る。手紙で書ききれなかった部分の説明を聞いてもらおう。伊賀の地侍が身代金要求してきた話から
木下藤吉郎秀吉は、思いのほか軽い足取りで松坂へ向かっていた。
もちろん、胸の奥にはもやもやしたものが残っている。織田の殿様からは、伊勢松坂屋を
もっと探れと言われている。しかも、ゆくゆくは殿様自身が蟹江か伊勢神宮あたりで
博之と飯を食う段取りまで考えなければならない。
だが、あれこれ外から眺めていても分からないものは分からない。
「もう、相手の懐に飛び込んでみるしかないか」
そう思った。
伊勢松坂屋の本店に行き、飯を食い、博之の顔色を見る。周りにいる者たちの空気を見る。
手紙に書かれていない部分を、言葉と表情から拾う。
そういうものは、文だけでは分からない。
松坂に着くと、博之は思ったよりも普通に迎えた。
「木下殿、ようお越しくださいました。今回は捕まえたわけではないので、
気楽に飯でも食べてください」
「前回も、最終的には飯を食わせてもらいましたけどな」
「今回は最初から飯です」
「それはありがたい」
座敷に通されると、藤吉郎はすぐに気づいた。
今日は、顔ぶれが少し違う。
博之の横には、お花とヨイチだけではない。伊賀筋の地侍らしき男がいる。
もう一人、若い侍も控えている。こちらはどこか武家の取次に慣れた雰囲気があった。
「今日は、面子がちょっと違いますな」
藤吉郎が言うと、博之は頷いた。
「はい。手紙で私の生い立ちは書いたでしょう。悪いもんじゃないですよ、
というつもりで書いたんですが、読み返してみると、自分でも足りてへんなと
思うところがありまして」
「足りないところ?」
「特に二つです。一つは、なぜ伊賀の地侍が仲間になったのか。もう一つは、長野家の話です」
藤吉郎は眉を上げた。
「長野家」
「ご存じですか。津の方、北伊勢の一部を治めていた家です。先立って、領主様が隠居し、
子どもが北畠の縁の者と婚姻する形で、実質的に北畠に下ることになりました」
「その話は、詳しくは届いておりませぬ」
「そこが、調べが足りてないところやと思います」
博之は苦笑した。
「織田の方から見れば、伊勢松坂屋が急に大きく見えるんでしょうけど、こちらから見ると、
その前にいろいろ積み重なっているんです。今日は、その辺りを当事者から話してもらおうかと」
そう言って、まず伊賀の地侍を示した。
「こちらが、私に身代金を要求してきたお侍さんです」
藤吉郎は思わずまじまじと見た。
「本人ですか」
「本人です」
地侍は、少し気まずそうに頭を下げた。
「いや、昔の話ですわ。今は信楽焼の道を守らせてもろてます」
藤吉郎は苦笑した。
「身代金を取りに来た者が、今は信楽焼の道を守っている」
「そういうことです」
地侍は、自分で少し笑った。
「当時、伊賀の道は辺鄙でしてな。山ばかり、道は悪い、人は貧しい。追い剥ぎか、
誰かの護衛か、どこかの争いに加わるか。そういうことでしか食えん者が多かったんです」
「それで身代金を?」
「はい。旦那様の関係者を捕まえて、一万文を要求しました」
博之が横でぼそっと言った。
「ひどい話ですよ」
「今は反省しております」
地侍は頭をかいた。
「ただ、その時に旦那様が言われたんです。一万文くらいなら、うちで一月働けば稼げるぞ、と」
藤吉郎は目を細めた。
「一月で一万文」
「もちろん、何人かで働いてという話ですがな。護衛として、荷運びとして、
信楽まで行って焼き物を買い、伊賀を越えて松阪や伊勢へ運ぶ。その方が、身代金を取るより
ずっと金になると」
地侍は、少し真面目な顔になった。
「それに、目覚めもええぞ、と言われました」
「目覚め」
「追い剥ぎをすれば、相手が金を持っていればよい。持っていなければ揉める。
断られれば斬るか斬られるかです。けれど、信楽焼を守って運べば、皆が喜ぶ。
伊賀の道にも意味ができる。しかも飯がうまい」
「最後が大事なのですな」
「大事です」
地侍は、力強く頷いた。
「信楽焼の価値も、旦那様に教えられて分かりました。伊賀の者からすれば、
山の向こうの焼き物です。けれど、それを松阪や伊勢へ持っていくと、
何倍にもなる。信楽の者も売れて喜ぶ。伊賀の者も道を守って銭になる。
松阪の者はよい器を手に入れる。その金で炊き出しや道の整備もされる」
藤吉郎は黙って聞いていた。
話はまだ点と点のようだった。だが、確かに一本の線が見え始めている。
博之は、あえて何も挟まなかった。
地侍は続ける。
「旦那様は、伊賀に意味をくれました。わしらみたいな者が、ただ荒らすだけやなく、
道を守る側に回れるようにしてくれたんです」
藤吉郎は、ゆっくり頷いた。
「なるほど。身代金を要求した者を、罰するのではなく、道の護衛にしたわけですか」
「罰する力がなかっただけです」
博之が正直に言うと、座敷に少し笑いが起きた。
「私は別に武で従わせたわけやないです。そんなことできません。こっちの方が得やぞ、
飯もうまいぞ、目覚めもええぞ、と言ったら、なんか乗ってくれたんです」
藤吉郎は、その言葉に苦笑した。
「そこがまた、謀略にしては間が抜けている」
「ひどい言い方ですね」
「褒めています」
「ほんまですか」
「半分は」
そこでお花が飯を運んできた。
まぜ飯、汁物、肉あん、魚のすり身揚げ、信楽焼の小皿に乗った漬物。そして、
常滑の小壺に入った味噌。
藤吉郎は箸を取った。
「また飯がうまいんやろうな」
「うまいです」
博之は自信満々に言った。
「そこだけは胸を張ります」
藤吉郎は一口食べ、やはり少し笑った。
「うまい」
「ありがとうございます」
「これを食いながら話を聞くと、困るんですな」
「何がですか」
「話が少し飲み込みやすくなる」
博之は小さく笑った。
「それが飯屋の強みです」
「自覚はあるのですな」
「多少は」
食事が進み、座敷の空気が少しほぐれる。
藤吉郎は、伊賀の地侍をもう一度見た。
「正直、まだ全部は分かりませぬ。点と点が線になりきっているわけではない。
ですが、あなたが本当に当事者で、そういう経緯で伊賀の道ができたということは、納得できました」
「それはよかったです」
博之は頷いた。
「次は、長野家の話です」
すると、隣に控えていた若侍が少し姿勢を正した。
博之はその若侍を示した。
「こちらは、元は長野家に仕えていた者です。使い走りや取次、揉め事の調整にも関わっていた
若侍です」
藤吉郎は、その男を見た。
「長野家が北畠へ下る話、ですな」
「はい。ただ、これは少し話が長くなります」
博之は藤吉郎の膳を指した。
「まずは飯を食べてください。伊賀の話を飲み込んでもらってからの方がいいと思います」
「確かに、一度に飲むには重い話ですな」
藤吉郎は茶を受け取った。
頭の中では、伊賀の話がまだ転がっていた。
身代金を要求した地侍が、信楽焼の道を守る者になる。
追い剥ぎの道が、買い付けの道になる。
辺鄙な伊賀に、意味が生まれる。
その意味を作ったのは、武でも法でもなく、飯と商いだった。
藤吉郎は、箸を置き、静かに息をついた。
「なるほど。これは文だけでは分からん」
博之は頷いた。
「だから来てもらいました」
「相手の懐に飛び込んだつもりでしたが、なんや飯と昔話で巻き込まれている気がします」
「うちはそういう店です」
「厄介ですな」
「よく言われます」
座敷に笑いが起きた。
だが藤吉郎の目は、もう次の若侍に向いていた。
伊賀の道の次は、長野家がなぜ北畠に下ったのか。
その話を聞けば、伊勢松坂屋が単なる飯屋ではなく、なぜ北伊勢の国人衆にまで
頼られるようになったのか、さらに一つ見えてくるかもしれない。
藤吉郎は茶を飲み、静かに言った。
「では、飯をいただいた後、その長野家の話を聞かせてもらいましょう」
博之は、少し困ったように笑った。
「また話が大きくなるんですよ」
「でしょうな」
「私も、なんでこうなったのか聞きたいぐらいです」
藤吉郎は、思わず笑った。
やはり、この男は謀略家には見えない。
だが、結果として、謀略より厄介な道を作っている。
それを理解するには、もう少し飯を食い、もう少し話を聞く必要がありそうだった。