作品タイトル不明
木下藤吉郎秀吉が博之に率直な手紙をだす。博之の返答もまた率直。打ち合わせも兼ねて数日松坂に泊まりに来ませんか?とのこと
木下藤吉郎秀吉は、また悩んでいた。
織田の殿様からは、伊勢松坂屋をもう少し探れと言われている。だが、先日松坂で捕まり、
飯を食わされ、博之本人と話をしたことで、ただ嗅ぎ回るだけではかえって見誤るのでは
ないか、という思いもあった。
さらに厄介なのは、殿様自身が伊勢松坂屋に興味を持ち始めていることだった。
蟹江で飯を食うのか。
あるいは、お伊勢参りという名目で伊勢まで行くのか。
少人数なら北畠もいきなり斬りかからないだろうが、かといって無断で伊勢へ入れば角が立つ。
正式に許可を取れば、それはそれで大きな話になる。
「まったく、飯屋一つでなんでこんなに悩まなあかんのやろな」
藤吉郎は、津島の飯場でまぜ飯を食いながらぼやいた。
飯は相変わらずうまい。
それがまた腹立たしい。
食い終えると、藤吉郎は宿に戻り、博之へ文を書くことにした。
文面は、できるだけ率直にした。
先日いただいた手紙は、織田の殿様にも読んでいただいたこと。最初は不機嫌だったが、
結局最後まで読み、興味を持ったこと。伊勢松坂屋の始まりが、飾られていない分、
かえって面白いと感じていたこと。
そして、こう書いた。
「殿は、伊勢松坂屋殿と一度、飯を共にできればと思われております」
ただし、そこからが問題だった。
蟹江ならば、織田の顔も立つ。だが、蟹江はまだ騒乱の後で、織田方、一向衆、国人衆、
伊勢松坂屋、九鬼水軍が絡んだ場所である。軽く飯を食うだけでも、周囲は身構える。
伊勢神宮へ参る名目なら、飯屋と会う理由は作りやすい。伊勢神宮前の海鮮焼きや
肉あんを見ることもできる。だが、伊勢は北畠の領分である。織田の殿様が少人数で入るにしても、
北畠の許しなく動けば火種になる。
藤吉郎は、そのあたりも正直に書いた。
「蟹江にて飯を共にするか、あるいはお伊勢参りの名目で伊勢へ向かうか、まだ調整中にございます。
少人数であればよいのか、北畠様へ筋を通すべきか、そもそも今は難しいのか。そのあたり、
こちらでも測りかねております」
そして最後に、少し柔らかく添えた。
「殿は、貴殿の手紙を面白いと申されました。怒りだけではなく、興味を持っておられます。
ゆえに、まずはどういう形で顔合わせをすべきか、もう少し言葉をいただければ幸いにございます」
文を書き終えた藤吉郎は、使いの者に持たせた。
「早めに届けてくれ。松坂までや」
「承知しました」
使いが出ていくと、藤吉郎はまたため息をついた。
その後も数日、藤吉郎は津島と常滑を見て回った。
津島では、市の動きが早い。蟹江から移された者たちが、まだぎこちないながらも飯場を手伝い、
地元の商人から小物や布を買い付けている。寺社への挨拶も丁寧で、炊き出しを伊勢松坂屋の
名ではなく、寺の顔で行うようにしている。
常滑では、焼き物の見本がすでに並んでいた。壺、水がめ、甕、小皿。伊勢松坂屋の者は、
これをどう伊勢や松阪で売るか、どの拠点に回すか、どの品を取寄せ札にするか、真剣に話していた。
「早いな」
藤吉郎は、また思った。
織田が百五十万文を受け取って、蟹江の半年をどう使うか考えている間に、
伊勢松坂屋はもう津島と常滑に根を張り始めている。
数日後、博之から返事が来た。
藤吉郎は文を受け取り、その場で開いた。
文面は、やはり博之らしかった。
「飯を食いに来られること自体は、ありがたい話です。織田の殿様とより仲良くなりたい
気持ちはあります」
藤吉郎は、まずそこを読んで頷いた。
だが、すぐ次にこう続いていた。
「ただし、蟹江で騒乱があったばかりです。すぐに親密になれるかは分かりません。
急に大きな顔合わせをしても、周囲が身構えるだけかもしれません」
「まあ、そうやろな」
藤吉郎はつぶやいた。
さらに読み進める。
「親密度が上がれば、見せられるものも増えます。逆に、まだ互いによく分からぬままでは、
こちらも見せてよいもの、見せてはいけないものを分けざるを得ません」
藤吉郎は笑った。
「正直やなあ」
文はこう続いた。
「ですので、まず一度、打ち合わせをしませんか。手紙だけでは書ききれなかったこと、
感じ取れなかった部分もあると思います。木下殿がよろしければ、何日か伊勢松坂屋に
泊まりに来てください」
藤吉郎は、思わず顔を上げた。
「また松坂に行けるんか」
自分でも少し驚くほど、声が弾んでいた。
博之の文には、こうも書かれていた。
「松坂で数日、飯場、市、湯浴み、買い付け、寺社とのやり取りを見ていただければ、
蟹江での飯の会なり、織田の殿様との顔合わせなり、どう整えるべきか話しやすくなると思います。
蟹江でご飯を一度設けることも、そこで相談しましょう」
藤吉郎は、文を畳みながら苦笑した。
「捕まったはずの松坂に、今度は泊まりに来い、か」
だが、嫌ではなかった。
むしろ、少し楽しみだった。
松坂の伊勢松坂屋本店には、まだ見ていないものが多い。
飯場の中枢。
買い付け隊の本当の動き。
女衆や古参衆の雰囲気。
博之が普段どれほどごろごろしているのか。
そして、あの男が本当に何を嫌がり、何を守りたがっているのか。
織田の殿様に報告するには、たぶんそれを見た方がいい。
藤吉郎は配下を呼んだ。
「松坂へ行く支度をする」
「またでございますか」
「今回は捕まりに行くんやない。招かれて行く」
「飯を食いに、ですか」
「それも大事や」
藤吉郎は笑った。
「飯を食わんと、伊勢松坂屋は分からん」
そして、心の中で思った。
信長という男と、博之という飯屋の旦那。
この二人が同じ膳についたら、何が起きるのか。
怒鳴り合いになるのか。
笑い話になるのか。
商いの話になるのか。
それとも、飯を食って少しだけ空気が変わるのか。
まだ分からない。
だが、その前に、自分がもう一度松坂を見てこなければならない。
藤吉郎は、博之の文をもう一度見た。
「何日か泊まりに来ませんか」
その一文が、妙に気楽で、妙に重かった。
「ほんま、飯屋って何なんやろな」
藤吉郎は、いつの間にか博之と同じようなことを呟いていた。