作品タイトル不明
楽しい楽しい帳簿の時間。忙しすぎる。全23拠点の洗い出し。ざっくり2,540万文プラス。2億4,140万文
蟹江、津島、常滑。あちらこちらに文を飛ばし、人を送り、買い付け隊を増やし、
取寄せ札まで始めたあとである。
博之は、ようやく少しごろごろできるかと思っていた。
だが、その甘い期待は、ヨイチの一言で砕かれた。
「旦那様。楽しい楽しい帳簿の時間でございます」
「めっちゃ嫌や」
博之は、畳の上で顔をしかめた。
「蟹江から戻って、織田の探りが入って、常滑と津島を立ち上げて、生駒まで伸ばして、
ようやく一息つけると思ったのに、帳簿か」
「帳簿です」
「逃げたい」
「逃げても帳簿は追ってきます」
「戦より怖いやん」
お花が横で茶を置きながら笑った。
「旦那様、今回は大事ですよ。全二十三拠点の数字を総ざらいして、計算し直したそうです」
「それだけで怖いわ」
博之は起き上がった。
「二十三拠点って何やねん。飯屋やぞ」
「飯屋でございます」
ヨイチは、いつものように淡々としている。
「大丈夫です。大まかな数と、大きく動いたところだけにします。細かい人件費、薪代、湯浴みの維持、
寝床、炊き出し、寺社への礼、護衛、人足、このあたりはこちらで整え直した数字を出しております」
「その時点で怖いんやけど」
「まず、蟹江です」
「来たか」
博之は身構えた。
「蟹江は、実はプラス百七万五千文です」
「なんでプラスになってるねん」
思わず大きな声が出た。
「蟹江、あれだけ燃えかけて、城下から人逃げて、百五十万文払って、郊外と港で受け入れて、
どう考えても赤字やろ」
「それは全体支援とは別で見ています。拠点運営としては、蟹江は強いのです」
「強い?」
「はい。港が強いです」
ヨイチは帳面を示した。
「蟹江は通常の拠点より厚くしています。普通の場所なら、郊外二拠点、港二拠点くらいで回します。
ですが蟹江は、郊外四拠点、港四拠点にしています」
「倍やん」
「倍です。その分、飯場、湯浴み、寝床、炊き出し、護衛、使い走り、地元寺社への礼、
全部多めにかかっています。ですが、それでも港の売り上げが立っています。魚、荷運び、
逃げてきた人の雇用、市、尾張への中継、これがかなり効いています」
「蟹江、ボロボロやのに」
「ボロボロだからこそ、人と荷が港に寄っている面もあります」
博之は頭をかいた。
「城下までやれるようになったら、もっと強いんか」
「強いです。ですが、城下は諦めましょう」
「うん。一旦諦めやな。あそこはまだ怖い」
「郊外と港で十分です。むしろ今は、城下に踏み込みすぎない方が安全です」
お花が頷いた。
「それは大事ですね。蟹江は飯場と逃げ場と港の道として見た方がよいと思います」
「そうやな」
ヨイチは次へ進んだ。
「宇治、藤井寺は黒字運転に入りました」
「おお。ようやくか」
「はい。小さいですが、きちんと回っています。宇治は京都郊外との接続、藤井寺は摂津・河内方面
への足場として効いています」
「藤井寺、地味やけど大事やな」
「地味ですが、道として大事です」
「大体うちは地味なところほど後で効いてくるな」
「その通りです」
ヨイチは帳面をめくった。
「観音寺城周辺は、マイナス幅が広がりました」
「六角のところか」
「はい。慎重に進めておりますが、城に近いこともあり、礼、挨拶、地元調整、警戒、
すべてに費用がかかっています」
「そこはしゃあない。六角相手に雑にはできへん」
「伊賀、名張、信楽はプラスに転じました。もう自立できます」
「おお。伊賀が自立したか」
「はい。伊賀は最初こそ不安定でしたが、信楽焼の道、奈良への道、松阪への道が
重なってきたことで、かなり安定しました」
「名張もか」
「名張もです。奈良方面とのつなぎが効いています」
博之は少し嬉しそうな顔をした。
「伊賀は、最初ほんまにどうなるかと思ったけどな」
「今では重要な道です」
「根なし草と地侍に振り回されたのが懐かしいわ」
「まだ振り回されています」
「やっぱりか」
ヨイチは淡々と続ける。
「津島、常滑は、立ち上げ費用で合わせてマイナス五十万文です」
「まあ、始まったばっかりやしな」
「はい。飯場、荷置き場、湯浴み、寺社への礼、地元顔役への挨拶、蟹江から送る人の育成。
すべて含めると、これくらいはかかります」
「むしろ安い方かもしれんな」
「今のところは抑えています」
「頼むで。織田が見てるからな」
「見られている前提で帳簿も動かしています」
「帳簿が外交してるみたいで嫌やな」
「実際、しております」
博之は嫌な顔をした。
「生駒は?」
「新たに立ち上げました。マイナス二十五万文です」
「生駒石切筋やな」
「はい。藤井寺と生駒をつなぎ、摂津方面を見据えるための足場です。
奈良の整備が一段落しているので、次は摂津付近を見ています」
「つまり、奈良から宇治・京都へ回る道と、藤井寺・生駒から摂津へ入る道を作る」
「その通りです」
「どんどん道ができていくな」
「旦那様が作っております」
「俺はゴロゴロしてるだけや」
「ゴロゴロしながら道を作っております」
お花が笑った。
「厄介ですね」
「ひどい言われようやな」
ヨイチは最後に、少しだけ重い声で言った。
「京都の端ですが、マイナス八十四万五千文です」
「でかいな」
「でかいです。ですが、ここは必要経費です。京都の真ん中に入らず、郊外を丁寧に
増やしながら進めています。大津、草津、宇治との接続を考えると、ここを焦らず
育てる必要があります」
「比叡山には近づきすぎるなよ」
「承知しております」
「京都は怖い。格式も寺社も商人も全部怖い」
「だから郊外からです」
「うん。それでええ」
ヨイチは、そこで帳面を一度閉じた。
「ざっくり、拠点運営の利益は千四百九十万文です」
「めちゃくちゃでかいやんけ」
「拠点も多いですから」
「二十三拠点やもんな……飯屋やぞ」
「はい。二十三拠点の飯屋です」
「言葉がもうおかしい」
ヨイチは、別の帳面を開いた。
「次に買い付け隊です」
「こっちも怖い」
「お取り寄せ品、つまり取寄せ札を始めたことで、利幅が大きく上がりました」
「あれ、そんなに効いてるんか」
「はい。以前は、買い付けた額に対して、ざっくり二倍を利益として見ておりました。
実際には三倍で売ることもありますが、経費や売れ残りを見て、利益計算は掛け二で見ていた形です」
「慎重やな」
「慎重です。ですが、取寄せ札は五割増しで、しかも人気品を絞っています。
信楽焼、伊勢小物、奈良の葛やそうめん、常滑焼の見本品など、欲しい人が待って買うものです」
「待つ楽しみを買うってやつやな」
「はい。そのため、利益見込みを掛け二・五で見られるようになりました」
「怖いな」
「計算上、買い付け隊の利益は千六十二万文ほどです」
「細かいな」
「ですので、丸めて千五十万文にしました」
「十万も丸めるんかい」
「誤差です」
「十万文を誤差って言い出したら終わりやぞ」
「すでに終わりかけています」
「ヨイチがそれ言うな」
お花が苦笑する。
「でも、丸めるくらいでないと、全体が見えませんね」
「そうです。細かく見すぎると、旦那様が逃げます」
「逃げる」
「逃がしません」
ヨイチは最後の数字を読み上げた。
「拠点運営が千四百九十万文。買い付け隊が千五十万文。合計で二千五百四十万文です」
「二千五百四十万文……半月で?」
「はい」
「もう意味が分からん」
「前回、二億一千六百万文で計上しておりました。今回分を足して、二億四千百四十万文となります」
博之は、しばらく黙った。
「二億四千百四十万文」
「はい」
「飯屋やぞ」
「はい」
「二億超えの飯屋って何やねん」
「伊勢松坂屋です」
「便利な言葉で片づけるな」
お花が静かに言った。
「ですが、この数字があるから、蟹江で百五十万文を出せました。
常滑と津島も立ち上げられました。生駒にも進めました」
「それはそうやけどな」
博之は地図を見た。
松坂、伊勢、鳥羽、津、白子、桑名、蟹江、津島、常滑。
伊賀、名張、信楽、草津、大津、観音寺城。
奈良、宇治、京都の端、藤井寺、生駒。
線が増えている。
飯の道。器の道。港の道。寺社の道。逃げ場の道。
「どんどん道ができていくな」
博之がぽつりと言うと、ヨイチは頷いた。
「はい。蟹江騒動がありましたが、結果として蟹江、津島、常滑はきっちりやる必要が出ました。
生駒石切筋も、摂津へ向けて進み始めました。奈良の拠点整備は一段落しています」
「次は摂津か」
「はい。藤井寺と生駒をつなげ、摂津付近に新たな拠点を見据えます」
「京都の端も育てる」
「はい」
「尾張は半年で楔を打つ」
「はい」
「北伊勢の国人衆も、動くかもしれん」
「はい」
「官位も来るかもしれん」
「はい」
「全部嫌やな」
「全部、旦那様が作った道です」
博之は畳にごろりと転がった。
「楽しい楽しい帳簿って言うけど、全然楽しくない」
お花が笑った。
「でも、道ができているのを見るのは楽しいでしょう」
「それは、ちょっと楽しい」
「正直ですね」
「道が交わるのは楽しいんや。けど、数字がでかいのは怖い」
ヨイチは帳面を閉じた。
「だからこそ、慎重にいきましょう。蟹江は城下を諦め、港と郊外。津島と常滑は小さく早く。
生駒は藤井寺との接続。京都の端は焦らず。観音寺城は赤字でも丁寧に」
「うん」
「買い付け隊は、取寄せ札で利幅が上がりましたが、品目を絞ります」
「帳簿が死ぬからな」
「はい」
博之は、しばらく天井を見ていた。
そして、小さく言った。
「飯を出してただけやのにな」
お花が答えた。
「その飯に、人が集まりました」
ヨイチも続けた。
「人が集まったので、道ができました」
「道ができたので、帳簿が増えました」
「そこに戻すな」
部屋に笑いが起きた。
だが、博之の目は地図に向いていた。
二十三拠点。
二億四千百四十万文。
半月で二千五百四十万文。
蟹江は、戦で傷つきながらも黒字。
伊賀と信楽は自立。
尾張と摂津への道が動き始めた。
伊勢松坂屋は、もう松坂の飯屋ではなかった。
それでも博之は、最後にいつものように呟いた。
「まあ、飯屋やからな」
お花とヨイチは、同時に言った。
「特殊すぎる飯屋です」