作品タイトル不明
伊勢松坂屋の打つ手が早い。津島、常滑に拠点をつくり手土産をもって周辺にあいさつ回り。飯がうまいのも困りもの。
伊勢松坂屋の動きは、異様なほど早かった。
蟹江で半年の停戦がまとまった直後、まず九鬼水軍を通じて前金五十万文が織田方へ届けられた。
これだけでも尾張の者たちは驚いた。飯屋が、約束した銭を本当に持ってきたのである。
だが、それで終わらなかった。
数日も経たぬうちに、今度は桑名方面から五十万文、さらに四日市方面から五十万文が、
それぞれ別の荷に紛れて運び込まれた。
「残りも届いた、だと?」
織田方の詰所では、滝川筋の者たちが顔を見合わせた。
「はい。伊勢松坂屋より、取り決め通りの残金であると」
「……本当に百五十万文、払ってきよったのか」
誰かが、呆れたように言った。
しかも、ただ銭を払っただけではない。
伊勢松坂屋は、その半年の猶予を一日たりとも無駄にする気がなかった。
蟹江の港と郊外では、逃げてきた者たちへの採用面接が始まっていた。普段の伊勢松坂屋なら、
採用はかなり慎重である。飯場の掟を守れるか、地元と揉めないか、帳簿をごまかさないか、
女衆に乱暴をしないか、働く意思があるか。何度も見て、慎重に入れる。
だが、今回は事情が違った。
「普段よりは緩めでええ。けど、飯場の掟だけは叩き込め」
蟹江のまとめ役は、博之からの文を読み上げた。
「寝るところ、湯浴み、飯は出す。その代わり、働ける者は働く。荷運び、魚の選り分け、
包み紙、炊き出し、飯場の掃除、見張りの補助。まずは何でもええ。立ち上がる者を拾え」
蟹江の者たちは、最初は戸惑った。
戦で城下を離れ、仕事を失い、寺や港へ逃げてきたばかりである。そこへ
「面接を受けろ」「給金を出す」「常滑や津島へ行く者も育てる」と言われる。
だが、飯が出る。湯に入れる。寝床がある。しかも、給金まで出る。
すると、少しずつ人が集まった。
蟹江では、まず市を回すための人を増やした。逃げてきた者の中から、声の通る者、
手先の器用な者、勘定に強そうな者、荷を運べる者を拾う。女衆には飯場と小物売りを手伝わせ、
若い男衆には荷運びと護衛補助をさせた。
一方で、古参の伊勢松坂屋の者たちは、すぐに尾張へ送られた。
目指すは、津島と常滑である。
津島には市の匂いがある。人と銭が集まる。尾張の商いを見るには、どうしても押さえたい
場所だった。
常滑には焼き物がある。壺、水がめ、甕、日常の器。伊勢でも松坂でも、必ず需要が出る品だった。
だから、伊勢松坂屋は港の横丁を一つずつ作った。
大きな店ではない。まずは飯場。荷置き場。簡単な湯浴み。炊き出し用の釜。
小さな市を開ける空き地。そして、地元の寺社や顔役への挨拶。
手土産には、まぜ飯、肉あん、魚のすり身揚げ、伊勢小物、信楽焼の小皿を持たせた。
「いきなり大きくやるな。けど、遅れるな」
博之の文にはそうあった。
「この半年で、尾張の海の道に楔を打つ。百五十万文の元を取ると言うたら言葉は悪いが、
時間を銭で買った以上、その時間は使い切る」
その早さは、尾張側から見れば不気味だった。
織田の家中では、届いた銭を前に、家臣たちがざわついた。
「飯屋が、船を使って、これだけの大金をばかばか運んでくるとは」
「しかも、蟹江だけでなく、津島と常滑にもう横丁を立て始めているそうです」
「早すぎる」
「滝川筋よりよほど手際がよいではないか」
その言葉に、滝川筋の者たちは苦い顔をした。
しかし、否定はできない。
織田方が蟹江で普請だ矢銭だと揉めている間に、伊勢松坂屋は人を逃がし、
飯場を増やし、湯浴みを作り、停戦をまとめ、銭を払い、さらに津島と常滑へ手を伸ばしている。
軍勢ではない。
だが、動きが早い。
報告を受けた信長は、ひどく不機嫌だった。
「また銭が届いたか」
「はっ。これで百五十万文、全て届いたことになります」
「本当に払ったか」
「はい」
「で、津島と常滑にも出したと」
「港の横丁を一つずつ。まだ小規模ですが、飯場と荷置き場は整え始めております」
信長は、しばらく黙った。
「早いな」
「はい」
「飯屋の動きではない」
その一言に、家臣たちは黙った。
やがて信長は、苛立ったように立ち上がった。
「飯場ができたというなら、飯でも食いに行け。何を出して、誰が食って、
どう銭が落ちるのか見てこい」
そう命じられた者たちは、津島へ向かった。
伊勢松坂屋の新しい飯場は、まだ作りかけだった。だが、すでに釜から湯気が上がり、
まぜ飯が出され、簡単な汁物もある。隅では、蟹江から来た若者がぎこちなく客を案内していた。
「まだ慣れておりませんが、どうぞ」
そう言って出された飯を、織田方の者は疑いながら口にした。
そして、眉を動かした。
「……うまいな」
隣の者も、肉あんを食って黙った。
「高いが、うまい」
「困るな」
「何がだ」
「うまいから困る」
その感想は、そのまま信長のもとへ報告された。
「うまいから困る、だと?」
信長は眉をひそめた。
報告役は頭を下げた。
「はい。飯がうまいのでございます。高くても、食えば納得する者が出ます。しかも、
飯場の者は押しつけがましくありません。銭を払う者には飯を出し、困った者には炊き出しを出す。
蟹江から来た者にも仕事を与えている」
「それで?」
「一度その味を覚えると、追い出しにくくなります」
信長は、ぴくりと指を動かした。
「なぜや」
「民が求めます。寺社が頼ります。港の人足が寄ります。飯場があると荷が集まり、
荷が集まると市が立ちます。そこで追い出せば、こちらが飯場を潰したように見えます」
「飯屋のくせに、面倒な根を張りよる」
「はい」
さらに報告は続いた。
「先遣の者たちは、すでに寺社や地元の顔役に銭と飯を配っております。大きな額ではありませんが、
手土産、炊き出し、湯浴みの支援、荷置き場の礼など、細かく丁寧に」
「どれだけ銭があるんや」
信長は、苛立ったようにつぶやいた。
「百五十万文を払ったばかりで、まだ撒くか」
「しかも、撒き方が雑ではありません」
「雑ではない?」
「はい。誰にでもばらまくのではなく、寺社、港の顔役、荷運びの頭、女衆をまとめる者、
焼き物を扱う職人筋。そういうところへ、飯と小さな銭と品を添えて挨拶しております」
「つまり、地元の節目を押さえている」
「そのように見えます」
信長は、ますます機嫌を悪くした。
飯屋が飯を出すだけなら、まだよい。
だが、飯を出しながら人を雇う。
人を雇いながら、市を立てる。
市を立てながら寺社へ礼を通す。
寺社へ礼を通しながら港を押さえる。
港を押さえながら、焼き物の道を作る。
しかも、武器を持って攻めてきているわけではない。
だからこそ、始末が悪い。
「滝川の者より、よほど優秀やないか」
信長が低く言うと、周囲は凍りついた。
「申し訳ございません」
「謝れとは言うておらん。見ろと言うておる。あれがどうやって根を張るか、よく見ろ」
信長は、津島と常滑の地図を見た。
「津島は市。常滑は焼き物。海の道は九鬼。蟹江から人を流し、
半年のうちに尾張へ足場を作る。百五十万文は銭を捨てたのではない。
時間と場所を買ったのやろうな」
家臣の一人が言った。
「潰しますか」
信長は即答しなかった。
潰すのは簡単ではない。少なくとも今、雑に潰せば、蟹江の件でまた民の不満が噴き出す。
九鬼水軍も絡む。北畠も無視できない。さらに、伊勢松坂屋の飯を食った者たちは、
ただの敵とは思わなくなる。
「今は見る」
信長は言った。
「使えるなら使う。邪魔になるなら潰す。ただし、何も知らずに触るな」
「はっ」
「それと、猿をもう一度行かせろ。飯だけではなく、銭の流れ、人の流れ、寺社への入り方を見させろ」
「承知しました」
信長は、届いた百五十万文の報告と、津島・常滑の立ち上げの報告を並べて見た。
飯屋。
そう呼ぶには、動きが速すぎる。
だが、飯屋であるからこそ、民の腹に入り込む。腹に入ったものは、簡単には引き剥がせない。
「うまいから困る、か」
信長は、少しだけ口元を歪めた。
「面白い。だが、腹立たしい」
伊勢松坂屋の名は、尾張の中で、また一段重くなった。
百五十万文を払う飯屋。
半年で尾張に楔を打つ飯屋。
そして、うまいから追い出しにくい飯屋。
信長の苛立ちは、ますます深くなっていった。