作品タイトル不明
蟹江騒乱のあとの動きをしながらその先に北伊勢国人衆連合の話が来そうで身構える博之。ソコまで見えているなら従五位下大膳亮やなとからかう松坂城主www
蟹江の件がひとまず落ち着いたとはいえ、博之の胸の中には、どうにも嫌な予感が残っていた。
尾張で百五十万文を出し、半年の猶予を買った。常滑と津島への商いの口も得た。
蟹江の民を郊外や港で受け入れ、仕事を与える道も見えた。
だが、それは同時に、北伊勢の国人衆たちに妙な前例を見せたということでもあった。
――困った時、伊勢松坂屋に話を持っていけば、何かしら場をまとめてくれるのではないか。
そう思われたら、厄介である。
博之は、まぜ飯と肉あん、それから海鮮焼きの試作品を少し持たせ、松阪の城へ向かった。
城に着くと、松阪の城主はいつものように楽しそうな顔で迎えた。
「おお、来たか。蟹江守じゃないか」
「違いますよ」
「では、飯の神様か」
「それもやめてください」
「百五十万文で半年の静けさを買った飯屋やぞ。もう神様みたいなもんやろ」
「本当に勘弁してください。噂になるのが怖いんですから」
城主はけらけら笑った。
「もう結構噂になっとるみたいやぞ」
「最悪ですね」
「織田の方も、ちょいちょい探りを入れておるらしいな」
「聞いてます。嗅ぎ回ってるらしいですね。嗅ぎ回らんでも、飯屋は飯屋なんですけどね」
「飯屋が百五十万文を出すから悪い」
「出したくて出したわけじゃないです」
「だが出した」
「はい……」
博之は、用意してきた飯を差し出しながら、少し真面目な顔になった。
「今日は、そのことで相談に来ました」
「ほう。珍しく真面目な顔やな」
「北伊勢の国人衆が、どう動くかという話です」
殿様の目が少し細くなった。
「関、亀山、白子あたりか」
「はい。蟹江の件を見て、下手したらこちらに仲介を頼みに来るかもしれません」
「あるやろな」
「やっぱりありますか」
「ある。あそこらは、北畠、六角、織田の間に挟まれとる。国人衆としてそれぞれやってきたが、
蟹江みたいに一度火がつくと、どちらへ向いても焼ける」
博之は頷いた。
「そうなんです。で、仲介してくれと言われた時、私はどうしたらええのかと」
「お前なら何と言う」
「まとまりましょう、くらいは言うと思います」
「言いそうやな」
「でも、別に後ろ盾がなかったら、ただの烏合の衆が飯屋を中心に集まるみたいな話に
なるじゃないですか」
「まあ、そうやな」
「飯屋を中心にまとまるって、意味分からんでしょう」
「今さらやろ」
「今さらなんですけど、さすがにおかしいです」
博之は、少し言いにくそうに続けた。
「そういう時、官位みたいなものがいるのかもしれないなと」
その瞬間、殿様の顔がぱっと明るくなった。
「ようやく伊勢松坂屋も官位を持つ気になったか」
「いや、持ちたいとは言ってません」
「官位の神やな」
「もう本当に勘弁してください」
「飯の神、蟹江守、官位の神。どれがええ?」
「どれも嫌です」
城主は楽しそうに笑ったが、やがて少しだけ真面目な声になった。
「しかし、考えとしては間違っておらん」
「やっぱりですか」
「ただの飯屋では、国人衆の間に立てん。いや、今のお前なら実際には立てるやろうが、
形が悪い。形が悪いと、あとで突かれる」
「そうなんです」
「誰の名のもとに集まるのか。誰が後ろにいるのか。集まった者たちは、どこへ礼を通すのか。
そこが曖昧やと、織田にも六角にも疑われる。北畠としても、勝手に飯屋が国人衆を
束ねているように見えたら困る」
「私もそれが怖いです」
博之は大きく息を吐いた。
「おそらく、北畠の庇護に初手で入るというのは、揉めますよね」
「揉めるな」
「北伊勢の国人衆にも面子がありますし、六角や織田も見てます。
いきなり北畠に入ります、では刺激が強すぎる」
「その通りや」
「だから、私を介して、伊勢松坂屋の名前のもとで一旦まとまる。で、私が間に挟まって
北畠様に支援をいただく。年貢の何割か、あるいは礼銭のようなものを北畠へ通す。
代わりに、揉めた時の後ろ盾を得る。そういう形になりそうな気がして怖いんです」
城主は目を丸くした。
「もうそこまで予想できてるんかい」
「嫌でも考えますよ。蟹江であれを見たら」
「お前、本当に飯屋か?」
「飯屋です」
「飯屋はそんな政治の形を考えん」
「考えたくないです」
博之は苦い顔をした。
「正直、自分が国人衆やったら、さっさと明け渡しますけどね」
「誰に」
「北畠様でも、状況次第では六角でも。とにかく、戦が起きて自分の土地が荒らされて、
民が逃げる。それに耐えられません。だから今回も手を出したんです」
城主は、その言葉を聞いて少し黙った。
「お前らしいな」
「褒めてます?」
「半分はな」
「残り半分は」
「甘い」
「ですよね」
「だが、その甘さに人が寄るのも事実や」
殿様は、肉あんを一つ食べてから、ゆっくり言った。
「北伊勢の立ち位置は難しい。小さい国人衆ががちゃがちゃやっていて、しかも緩衝地帯や。
北畠、六角、織田、それに一向衆もおる。周りには商人衆も寺社もいる」
「はい」
「付き合いがうまい者なら、織田、六角、北畠を手玉に取るような動きもできるかもしれん。
だが、今の段階では、そこまでの者はおらん」
「でしょうね」
「ただ、それができそうな飯屋が一人、ここにおる」
博之は、露骨に困った顔をした。
「めっちゃ困ります」
「困るやろな」
「ほんまに、根なし草で松阪で普請してた時なんか、何も考えずに飯出してただけですよ」
「そこからここまで成り上がるとはな」
「成り上がりたかったわけじゃないです」
「だが、成り上がった」
「その言い方、織田の人みたいで嫌です」
城主は笑った。
「しかし、本当に本にしたためた方がええんちゃうか」
「何をですか」
「根なし草の飯屋、国を揺らす。面白いやろ」
「やめてください。そんな本が出たら、私はもう外歩けません」
「すでに外を歩けば、蟹江守やぞ」
「それが嫌なんです」
城主は、しばらく笑っていたが、やがて真面目な顔に戻った。
「官位の話やが」
「はい……」
「今すぐ無理に受けろとは言わん。だが、北伊勢の国人衆が本当に仲介を求めてきたら、
その時は必要になる」
「従五位下、大膳亮ですか」
「分かってるやないか」
「嫌になるほど言われましたから」
「大膳亮なら飯にも合う。重すぎず、軽すぎず、北畠の推挙としても形がつく。
お前が勝手に国人衆を束ねるのではなく、北畠の顔も立つ」
「それで、私は北畠の影響下にある飯屋として、間に立つ」
「そうや。お前が北伊勢を取るのではない。北畠もいきなり飲み込むのではない。
伊勢松坂屋が飯と荷の道を整え、国人衆は揉め事を減らし、北畠に礼を通す。
六角や織田に対しては、北畠の推挙を受けた大膳亮が間にいる、という形になる」
「それ、飯屋ですか?」
「飯屋や。だいぶ特殊な飯屋やけどな」
博之は頭を抱えた。
「官位もらったら、女衆にまたからかわれるやろうな」
「そこか」
「大事です。昨夜も家族扱いされて終わったんですよ」
「何の話や」
「いえ、こっちの話です」
城主は楽しそうに目を細めた。
「まあ、女衆にからかわれるくらいで済むなら安いもんや。織田に雑に扱われる方がよほど怖い」
「それはそうです」
「織田は探っておる。六角も見ておる。北伊勢は揺れておる。九鬼はお前と近い。
北畠としても、お前をただの飯屋として置いておくには、そろそろ難しい」
「つらい」
「つらいやろうが、飯の道を作るとはそういうことや」
博之は、しばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「もし、官位を受けるとしても、条件があります」
「何や」
「飯場と炊き出しの邪魔をしないこと。国人衆の仲介をするにしても、
民に飯を食わせることが先であること。北畠への礼や税は話し合うけど、
うちの飯場を軍役に組み込まないこと」
殿様は静かに頷いた。
「それは通すべきやな」
「あと、私は城はいりません。領地もいりません」
「知っとる」
「ただ、飯の道と、逃げ場と、商いの場所は欲しいです」
「それが一番厄介なんやがな」
「でも、それがないと飯屋できません」
「分かっとる」
殿様は茶を飲んだ。
「では、こうしよう。北伊勢から正式に話が来るまでは保留。だが、来たら大膳亮の線で
動く準備をする。北畠の上にも話を通す必要がある」
「やっぱりそこまで行きますか」
「行く。お前が嫌がってもな」
「ほんまに嫌です」
「嫌がりながらやれ。その方がお前らしい」
博之は深いため息をついた。
「私はただ、飯を出してただけなんですけどね」
「その飯が、人を集め、道を作り、戦を止め、国人衆を悩ませとる」
「言葉にすると怖すぎる」
「だから官位がいる」
「戻ってきた」
殿様は笑った。
「まあ、今日は飯を食って帰れ。大膳亮候補殿」
「やめてください」
「飯の神よりはましやろ」
「どっちも嫌です」
博之は、持ってきたまぜ飯をよそいながら、また一つ大きなため息をついた。
北伊勢は、まだ動いていない。
だが、動いた時にどうなるかは、もう見え始めていた。
飯屋が、名を持つかもしれない。
それは博之にとって、百五十万文よりも重い話に思えた。