作品タイトル不明
木下藤吉郎秀吉は蟹江の横丁を一通り見た後に織田信長に報告。違和感がある上に言葉だけでは伝わらない。伊勢神宮にお参りしてついでに博之を見るという体はどうか?
木下藤吉郎は、蟹江の横丁を一通り見た後、いったん城へ戻ることにした。
分かったような、分からないような。
いや、むしろ分からないことが増えた。
飯はうまい。
それは分かった。
だが、うまい飯屋が、なぜ百五十万文を動かし、蟹江の半年の休戦を買い、住民を郊外と港で抱え、
さらに尾張で商いをする許可まで取るのか。
藤吉郎には、まだそこが見えなかった。
城へ戻り、織田の殿様――信長の前に出ると、藤吉郎は深く頭を下げた。
「戻ったか、猿」
「はっ。蟹江の方へ向かいまして、伊勢松坂屋の飯場と横丁を見てまいりました」
「それで、どうやった」
「飯を食いました」
信長の眉が動いた。
「飯を食った?」
「はい」
「わしは、お前に飯の感想を聞くために行かせたわけではない」
「それは重々承知しております」
藤吉郎は、少し困った顔で続けた。
「ただ、この件は、まず飯を食わないと分からん気がしました」
「どういうことや」
「蟹江では、私が織田の者であることは、ほぼ見抜かれておりました。明らかに
警戒されておりました。ですが、地元の者に聞くと、伊勢松坂屋へ行けば、
とりあえず飯は食わせてくれるやろう、と言われまして」
「織田の者でもか」
「はい。腹が減っているなら食わせる。銭は払え、という感じでございました」
信長は鼻を鳴らした。
「それで食ったと」
「はい。まぜ飯と肉あんを」
「うまかったか」
「うまかったです」
「だから、その感想を聞きたいわけではないと言うておる」
信長の声が少し荒くなる。
しかし、藤吉郎は首を振った。
「いえ、この“うまい”が、かなり大事なのです」
信長は黙った。
「うまい。しかも安くない。安くないのに、皆が納得して食っておるのです」
「高い飯をありがたがって食うているだけではないのか」
「そうとも言えます。ただ、そこが妙でして」
藤吉郎は、蟹江で見たものを思い出しながら話した。
「金を払って肉あんを食う者がいる。一方で、同じ飯場の端では、炊き出しを受けている者がいる。
逃げてきた者、子ども、老人、寺社に身を寄せた者。そういう者が、同じ場にいるのです」
「金を払う者と、施しを受ける者が同じ場所にいるのか」
「はい。しかも、そこに大きな揉めがない」
「なぜや」
「おそらく、払える者が高い飯を食い、その儲けの一部が炊き出しに回っていることを、
周囲が何となく分かっているからです」
信長は少し目を細めた。
「何となく、か」
「はい。明確な帳面を見たわけではありません。しかし、客たちは言うのです。高いけれど、
うまい。高いけれど、その金で炊き出しもしてくれる。湯浴みも増やしてくれる。
逃げてきた者にも飯が出る。なら、払える者が少し高く払うのは悪くない、と」
藤吉郎は、少し言葉を選んだ。
「これが、まず違和感でした」
「違和感」
「はい。普通は、高い飯を食う者と、炊き出しを受ける者は、場が分かれると思うのです。
ところが伊勢松坂屋では、それが同じ横丁の中にある。金を持っている者も、
持っていない者も、同じ飯の匂いの中にいる。そして、それなりに納得しておる」
信長は、腕を組んだ。
「市も見たのか」
「見ました」
「どうや」
「これも妙でございました。信楽焼、伊勢小物、奈良のそうめんや葛のようなもの、
遠方の品が並んでおります。値段は安くありません」
「安くないものばかりか」
「はい。ですが、買われています」
「なぜ買う」
「遠方のものだからです。普通なら、その地まで行かねば手に入らない。旅の危険もある。
偽物をつかまされることもある。伊勢松坂屋が持ってくるなら、信用できる。
だから高くても買う。そういう空気でした」
「物流の強さか」
「はい。そこは明らかです。品の種類で、道の広さが見えます。伊賀、信楽、奈良、伊勢、
白子、草津、大津。少なくとも、それらとつながっていることは、横丁を見れば分かります」
「尾張にも入ってくるわけやな」
「はい。常滑、津島の許可を得た以上、いずれ尾張の品もその市に並ぶでしょう」
信長の顔が険しくなった。
藤吉郎は続けた。
「ただ、単に高く売って儲けるだけではないのです。市で金が落ちる。その金が仕入れに回る。
飯場に回る。炊き出しに回る。湯浴みに回る。人を雇う金に回る。じゅんぐりじゅんぐり、
回っているように見えました」
「じゅんぐり、か」
「はい。金を持つ者が使う。使われた金が、飯や荷や人に変わる。金を持たぬ者は炊き出しを受ける。
働ける者は荷運びや飯場で雇われる。そうすると、その者もまた少し金を持つ。
今度は市で何かを買う」
藤吉郎は、自分でも言いながら少し困った顔をした。
「私は商人ではありませんので、なぜもっと安く売らぬのか、どこまで利を乗せておるのか、
その辺は正直分かりません。ただ、高いことに意味があるようにも見えました」
「高いことに意味?」
「安くしすぎると、ただ人が群がる。高いから、買える者が買う。買えない者は炊き出しを受ける。
けれど、同じ場にいても、それほど険悪にならない。うまい飯と、炊き出しと、
湯浴みと、仕事があるからでしょう」
信長は黙っていた。
藤吉郎は、さらに話す。
「伊勢神宮の話も、横丁でよく出ておりました」
「伊勢神宮?」
「はい。肉あんや海鮮焼きは、伊勢神宮前でも出しているそうです。信楽焼の器に乗せて、
少し高く売る。焼くところを見せる。体験もさせる。旅の話になる。そういう商いをしていると」
「飯を見世物にしているのか」
「そのようです。ですが、ただの見世物ではなく、食えばうまい。器もよい。土産話にもなる。
だから高くても納得する」
「ふむ」
「そこで得た評判が、蟹江の横丁にも流れております。“伊勢神宮で出ているものと同じ系統の飯だ”と
言われると、客は少し誇らしげに食べるのです」
信長は、そこで初めて少しだけ笑った。
「飯に箔をつけるか」
「はい。しかも、その箔が炊き出しにも回っている」
「そこが分からんな」
「私も分かりかねます」
藤吉郎は正直に言った。
「欲なのか、志なのか。民を助けたいのか、商いを広げたいのか。本人に会わねば分からぬ
ところがあります。ただ、少なくとも現地の者は、伊勢松坂屋を怖がるより頼っておりました」
「織田よりもか」
藤吉郎は少し言葉を詰まらせた。
「蟹江に限れば、そう見えました」
信長の目が鋭くなった。
「それは恥やな」
「はい」
「だが、そう見えたなら、そう報告せねばならん」
「はっ」
信長は、しばらく考え込んだ。
「お前でも分からんか」
「違和感だらけでございます。けれど、その違和感は、肌で見ないと分からぬ気がします。
飯を食わぬと分からぬ。客の顔を見ぬと分からぬ。炊き出しの列と、
金を払う客が同じ場にいるのを見ぬと分からぬ」
「つまり、わしにも見ろと言うのか」
「畏れながら」
藤吉郎は頭を下げた。
「一度、お伊勢参りの体で見に行くのは、悪くないかと」
周囲の家臣が少しざわついた。
信長は、藤吉郎をじっと見た。
「お伊勢参り」
「はい。大軍ではなく、少人数で。お参りがてら、伊勢神宮前の海鮮焼きや肉あんを見る。
ついでに松阪屋の博之という男に会う。飯屋であれば、飯を出してもらうという体で話もできます」
「北畠はどうする」
「さすがに、少人数でお伊勢参りをする殿様に、いきなり斬りかかってくることはないかと。
もちろん、見立てが甘いかもしれませんが」
信長は鼻で笑った。
「甘いかどうかは、相手次第やな」
「はい。ただ、今のところ伊勢松坂屋は、戦をしたがっているようには見えません。
むしろ、戦に巻き込まれることを嫌がっております」
「なのに百五十万文を出す」
「戦を止めるためなら、出すのかもしれませぬ」
「変な男や」
「変でございます」
「だが、変なものほど見る価値がある」
信長は、ゆっくりと立ち上がった。
「もう少し調べろ。蟹江だけでは足らん。桑名、白子、可能なら松坂、伊勢。九鬼との関係も見ろ。
北畠との距離も見ろ。伊勢神宮前の飯も調べろ」
「はっ」
「それと、その博之という男が、何を嫌がり、何を喜ぶかも見ろ」
「何を嫌がり、何を喜ぶか、でございますか」
「人は、欲で動く。名で動く。恐れで動く。飯で動く者もおるやろう。
そいつが何で動くか分かれば、扱い方も見える」
藤吉郎は頭を下げた。
「承知しました」
信長は、まだ不機嫌ではあった。
だが、先ほどまでの苛立ちとは少し違っていた。怒りの中に、興味が混じっている。
飯屋が百五十万文を出す。
飯屋が民を抱える。
飯屋が高い飯を売り、その金で炊き出しをする。
飯屋が市を立て、遠方の品を売り、道を作る。
そして、その飯はうまい。
「猿」
「はっ」
「次は、飯だけ食って帰ってくるなよ」
「もちろんでございます」
「だが、飯のことは報告しろ」
藤吉郎は少し笑った。
「はっ。飯の味も、しっかり見てまいります」
「味だけではない。客の顔を見ろ」
「承知しました」
信長は、遠くを見るような目をした。
「飯屋か。面白い」
そう呟いた声に、藤吉郎は小さな緊張を覚えた。
織田の殿様が、伊勢松坂屋に興味を持った。
それが吉と出るか凶と出るかは、まだ誰にも分からなかった。