作品タイトル不明
蟹江の話し合いは最初から思い。戦に飯屋が出てくる意味が分からん。150万文払うなら考えてもいいと軽口をたたいた織田方につけこみさっさと150万文払い半年の休戦をまとめてしまう。一日で
蟹江の話し合いは、最初から空気が重かった。
織田方の者、一向衆、国人衆、地元の寺社、港の顔役。そこに伊勢松坂屋の博之、蟹江のまとめ役、
九鬼水軍の者、そして「北畠の者ではあるが、今日は飯屋の友達として来た」と言い張る松坂の城主が
座っている。
織田方の代表は、まず不満を隠さなかった。
「そもそも、これは城の取り合いであろう」
博之は黙って頭を下げた。
「織田としては、ここを取りたい理由があって攻めた。大義があるかどうかと言われれば、
この時代や。取れるところを取るのは、別におかしな話ではない」
「はい」
「そして取られた。だから今、一向衆や国人衆が取り返しに来ている。やられたからやり返す。
それも筋は通っておる」
「はい」
「そこに飯屋が入る意味が分からん」
場がしんとした。
織田方の言い分は、乱暴ではあるが筋はあった。武家の争いとして見れば、城を取る、
取り返すという話である。そこに飯屋が口を出すのは、確かにおかしい。
博之は、少し困った顔をした。
「城の取り合いなら、勝手にやっていただいたらよろしいんです」
「ほう」
「ただ、住民が困ってるじゃないですか」
織田方の眉が動いた。
「城を取る、取り返す。その中で、人が城下から逃げて、郊外や港に流れて、寺に身を寄せております。城下に戻りたい人もいるでしょう。けれど、不安で戻れない人もおります。
戻したところで、また一月後に戦の場になれば、また巻き込まれる」
博之はゆっくり続けた。
「ですから、城をどうするかは皆様で決めてください。ただ、あふれた人たちが飯を食える場所、
湯に入れる場所、寝られる場所を用意したい。郊外と港なら、伊勢松坂屋で多少はできます。
九鬼様にも港と船のことを見ていただける。そういう話をしたいのです」
一向衆の代表が腕を組んだ。
「つまり、城を取る話には入らんが、人の逃げ場は作りたいということか」
「はい」
国人衆の一人が言った。
「しかし、こちらにも事情がある。砦を守るには人がいる。普請もいる。銭もいる」
「分かります」
「分かるなら出せ」
「飯なら出します。怪我人にも、逃げた人にも、人足にも、できる限り飯は出します。
けれど、銭そのものを戦のために差し出すのはできません」
織田方の代表が鼻で笑った。
「なら、話にならんな。こちらも殿の意向がある。蟹江を攻めろ、押さえろと言われている。
飯屋が出てきて、一月やめろと言われても、はいそうですかとはならん」
場の空気がまた重くなる。
そこで、織田方の後ろにいた一人が、半ば冗談のように言った。
「百五十万文でも積まれたら、少しは考えてやってもええがな」
言った瞬間、空気が変わった。
博之、松阪の城主、九鬼水軍の男が、同時に顔を上げた。
「今、何と言いました」
博之の声が低かった。
織田方の男は、少したじろいだ。
「いや、冗談で……」
松阪の城主が笑みを消して言った。
「冗談で口にしていい場ではないのは分かってるやろ」
九鬼の男も、腕を組んだ。
「百五十万文積まれたら、ほんまに止めるんやな」
「いや、だから今のは」
「半年は止めるな?」
松阪の城主が言った。
「一月では短い。城下に人が戻らん。百五十万文で半年止める。織田方も、一向衆も、国人衆も、
その間は蟹江で大きな戦はせん。普請も最低限。矢銭も強く取らん。城下に戻る者は戻す。
郊外や港に残る者はそのまま認める」
場がざわついた。
博之は頭を抱えたくなったが、ここまで来たら引けない。
「百五十万文は、伊勢松坂屋が出します」
蟹江のまとめ役が目を見開いた。
「旦那様」
「ただし、ただで出すわけではありません」
博之は織田方、一向衆、国人衆を順に見た。
「半年、蟹江で大きな戦を止めてください。その間、城下へ戻りたい人は戻す。
戻りたくない人は、郊外、港、寺社に身を寄せることを認める。伊勢松坂屋は飯場、
湯浴み、寝床を用意します」
国人衆の代表が言った。
「こちらの残った土地はどうなる」
「まずお聞きします。国人衆の方々は、どうされたいのですか」
「元に戻してほしい」
即答だった。
「蟹江を荒らしたいわけではない。元のように、地元の者が暮らせる形に戻したい」
「分かりました。なら、戻るための支援はします。飯も出します。寺社にも米を回します。
ただし、普請だ改修だといって、戻ったばかりの住民を搾らないでください。
それは皆様の手持ちでやってください」
一向衆の者も頷いた。
「半年の間に民が戻るなら、こちらとしても悪くはない」
織田方はまだ不満げだった。
「こちらが蟹江を攻める権を捨てるわけではないぞ」
「半年だけです」
松坂の城主が言った。
「その間にまた裏で話をするなり、殿に報告するなり、好きにすればええ。ただし、
今ここで住民をさらに逃がせば、誰が取っても空の町や」
その言葉は効いた。
空の町を取っても意味がない。
織田方も、一向衆も、国人衆も、それは分かっていた。
博之はさらに続けた。
「もう一つ、条件があります」
「まだあるのか」
「はい。伊勢松坂屋が、尾張領内で商売することを許してください」
織田方の目が細くなる。
「商売?」
「領地が欲しいわけではありません。城もいりません。蟹江の人たちも、仕事がなくなっております。
うちで抱えて、津島や常滑の方で商いをさせたい。尾張の外れから美濃へ伸ばす道も、
いずれ見たい。瀬戸焼、常滑焼、尾張の品。そういうものを伊勢へ通す飯の道を作りたいのです」
「飯の道、か」
「はい。陸の蟹江城下にしがみつく気はありません。海の道は九鬼様と相談しながらやります。
陶器や壺、水がめ、小物、そういうものは伊勢でも売れます。蟹江や尾張の人たちにも
仕事ができます」
九鬼の男が横から言った。
「船の道は、こちらも見る。無茶はさせん」
松阪の城主も続けた。
「百五十万文出すなら、それぐらいの許可は安いもんやろ」
織田方は、しばらく黙った。
織田としては、今すぐ蟹江を完全に押さえ直すには手間がかかる。住民も逃げている。
そこへ百五十万文が入り、半年の猶予ができるなら、悪くはない。
一向衆と国人衆も、腹は痛まない。むしろ、住民が戻る時間ができる。
場は奇妙な沈黙の後、少しずつ納得に傾いていった。
「よかろう」
織田方の代表が言った。
「半年、大きな戦は止める。百五十万文は受け取る。ただし、こちらの顔も立ててもらう」
「もちろんです」
「尾張での商いについては、津島、常滑、その周辺で、無茶をせぬ範囲なら認める。
城や砦に関わるな。兵を雇うな。荷の道は届け出ろ」
「承知しました」
国人衆も言った。
「戻る民を無理には使わん。ただ、地元の復旧には手を貸してもらう」
「飯と人足の飯場は支えます」
一向衆も、寺社への炊き出しと避難者の扱いについて頷いた。
こうして、話はまとまってしまった。
たった一日で。
蟹江のまとめ役は呆然としていた。
博之も、半ば呆然としていた。
「……まとまったな」
松阪の城主が楽しそうに言う。
「まとまりましたね」
九鬼の男も笑った。
「飯屋が百五十万文で半年止めたわけや」
「言い方やめてください」
博之はぐったりした。
「もう帰りましょう。話がまとまったなら、余計なことが出る前に港へ戻ります」
「早いな」
「こういうのは、長居するとろくなことがありません」
松阪の城主は大笑いした。
「お前、こういう時だけ勘がええな」
「普段からあります」
「普段はだいぶ抜けてるぞ」
博之は反論する気力もなかった。
寺の外へ出ると、待っていた蟹江の住民や港の者たちが、不安そうにこちらを見ていた。
蟹江のまとめ役が声を張った。
「半年、大きな戦は止まることになりました。城下に戻りたい方は戻れます。
郊外や港に残りたい方も、無理に戻されません。伊勢松坂屋は、飯場と湯浴みを続けます」
人々の間に、ざわめきが広がった。
博之は、それを聞きながら、ただ小さく息を吐いた。
「ほんま、飯屋って何なんやろな」
お花が横で言った。
「今日は、半年分の飯を買ったのかもしれませんね」
「百五十万文で?」
「はい」
「高いな」
「でも、人が戻る時間を買ったと思えば、安いかもしれません」
博之は黙った。
確かにそうだった。
城を買ったわけではない。
領地を買ったわけでもない。
半年の静けさと、人が戻る時間を買ったのだ。
港へ戻る道すがら、松阪の上司がまた茶化した。
「これでお前、蟹江の城主どころか、尾張商いの口も得たな」
「なりたくないです」
「瀬戸焼、常滑焼、津島、尾張、美濃。飯の道がまた伸びるぞ」
「伸びるのが怖いんです」
「怖がりながらやれ。怖がってる飯屋の方が、まだましや」
九鬼の男も笑う。
「とりあえず港へ戻ろうや。まとまった話は、海に出る前にもう一回文にして残しとけ」
「そうします」
博之は振り返った。
蟹江の城下は、まだ傷ついている。だが、少なくとも今すぐ燃えることは避けられた。
飯屋が戦を止めたわけではない。
ただ、百五十万文で半年の猶予を買っただけだ。
それでも周囲には、衝撃が走るだろう。
飯屋が、銭と飯で戦の流れを曲げた。
その噂は、尾張にも、伊勢にも、近江にも届くに違いなかった。
博之は、港へ向かいながらぽつりと言った。
「もう帰ろう。ほんま、今日はもう帰ろう」
松坂の城主は、腹を抱えて笑った。
「空気を軽くする天才やな、お前は」
「軽くしないと潰れます」
「それもそうや」
一行はそのまま蟹江の港へ戻った。
話はまとまった。
だから、さっさと帰る。
博之は、また大きな火種の真ん中に入り込み、そして逃げるように港へ向かった。