作品タイトル不明
蟹江騒乱続編。織田の滝川勢が占領したが収奪と普請の協力要請が雑。地元民の不満爆発。一向一揆と国人衆に奪い返されるも住民の状況は悲惨
蟹江の件が、さらに大きく動いたという知らせが松阪に届いた。
最初の報せでは、織田方が蟹江の砦を押さえ、滝川一益の筋の者が入り、伊勢松坂屋にも
「飯と銭を出せ」と迫ったという話だった。
飯は出す。
兵や人足の食事、荷運びの者へのまかない、そういう支えならやる。
だが、銭そのものを差し出すことはできない。
蟹江のまとめ役はそう答え、横丁を潰すぞと脅された。そこを地元の寺や港の者たちが
止めてくれた、というところまでは博之も聞いていた。
しかし、その後がさらに悪かった。
滝川の者たちは、城や砦の普請に人を出せ、改修に銭を出せ、兵の飯を出せと、次々に蟹江の
周辺へ負担をかけたらしい。戦の境目である以上、ある程度は仕方がない。だが、やり方が荒かった。
炊き出しの米を勝手に奪おうとする。
港の荷を優先的に寄越せと言う。
寺社にまで矢銭を求める。
改修のために町人や人足を急に駆り出す。
それでいて、地元への礼は薄い。
当然、蟹江の人々の不満は溜まった。
伊勢松坂屋の飯場があるから、まだ食える。
炊き出しがあるから、まだ踏みとどまれる。
けれど、その飯場まで兵の都合で動かされそうになるなら話は別である。
やがて、近隣の一向衆と国人衆が動いた。
織田方に押さえられた蟹江の砦は、再び地元の勢力に奪い返された。
その報せを聞いた博之は、しばらく黙っていた。
「……やっぱり、あかんかったか」
お花が文を読みながら、眉を寄せる。
「滝川殿の筋の者たちは、かなり強引だったようですね」
「戦で土地を取るのは武家の勝手や。でも、そこに住んでる者まで雑に扱ったら、そら反発されるわ」
ヨイチも帳面を閉じた。
「ただ、問題はここからです。蟹江が奪い返されたとしても、地元の国人衆や一向衆が優しいとは
限りません」
「そこやな」
博之はため息をついた。
「結局、今度はそっちから、普請のために人を出せ、改修に銭を出せ、飯を出せと言われてるんやろ」
「はい。砦を取り返した以上、守りを固めたいのでしょう」
「分かる。分かるけど、飯場は財布やないねん」
博之は畳の上で腕を組んだ。
「蟹江は、津島へ向かう足場として大事や。尾張の海の道、常滑焼、津島、熱田、瀬戸物。
そこへ伸ばすには欲しい場所や」
「ですが、今の蟹江は火種です」
「うん。無理してしがみつく場所ではない」
部屋にいた古参衆が、少し緊張した。
博之は続けた。
「支援はする。けど、守れないなら捨てる」
お花が静かに頷いた。
「蟹江を捨てて、桑名まで下がる、ということですね」
「そうや。桑名は立ち上がってる。白子、津、松阪にも戻れる。海の道もある。
蟹江で無理して人を潰すくらいなら、桑名まで下がった方がええ」
ヨイチが筆を取る。
「では、指示を文にまとめます」
「まず、蟹江の郊外拠点に二十万文」
「はい」
「港側にも別で二十万文」
「港と郊外を分けるのですね」
「分ける。郊外は炊き出し、寝床、地元の寺社とのつなぎ、避難用。港は荷の整理、
魚の買い付け、人足の飯、船の段取り。役割が違う」
「承知しました」
「それから九鬼水軍にも二十万文渡す」
ヨイチが顔を上げた。
「九鬼水軍にもですか」
「当たり前や。蟹江から荷や人を逃がすなら、海の道がいる。桑名へ下がるにも、
船が使えるなら使いたい。九鬼に先に話を通して、いざという時は人と荷を運んでもらう」
お花が言う。
「蟹江の者たちには、どこまで踏ん張れと伝えますか」
「炊き出しは続ける。地元の寺社と町の者には礼を欠かすな。怪我人や食えない者には飯を出せ。
けれど、砦の普請や改修のために、うちの飯場や銭を食い潰されるなら断れ」
「断って揉めた場合は?」
「撤退や」
博之は即答した。
「飯場を焼かれる前に、帳簿と銭と人を逃がせ。信楽焼や高い品は最優先で逃がす。
米と味噌は、持てる分だけ。持てない分は炊き出しに使ってから下がれ」
古参の一人が尋ねた。
「旦那様、蟹江の横丁は畳んでもよいと?」
「よい」
博之は、少し苦しそうに言った。
「本音を言えば悔しい。せっかく港を整えて、地元の人たちともつながって、
津島へ行く道も見えかけてた。でもな、横丁はまた作れる。人は戻らん」
部屋が静かになった。
「伊勢松坂屋の掟にも入れるつもりや。看板より人を残せ。店より飯を出す心を残せ。荷より命や」
お花は小さく頭を下げた。
「その方針でよいと思います」
ヨイチが文面を読み上げる。
「蟹江郊外拠点へ二十万文。用途は炊き出し、寺社への礼、避難者の飯、寝床、薪、医者の手配。
蟹江港拠点へ二十万文。用途は荷の整理、船手配、人足の飯、魚の買い付け維持、撤退準備。
九鬼水軍へ二十万文。用途は緊急時の船便、荷と人の移送、桑名方面への退避協力」
「うん」
「蟹江現地への指示。地元との関係を最優先。織田方、国人衆、一向衆のいずれにも銭そのものを
差し出さない。飯、炊き出し、怪我人の手当、荷運びの支援はできる範囲で行う。ただし、
飯場を軍役に組み込まれそうになった場合は拒む」
「それでええ」
「さらに、拠点維持が困難と判断した場合、帳簿、銭、職人、女衆、買い付け品を優先して
桑名まで撤退」
「そうや」
「撤退時、地元の寺社へ米と味噌を残すか、炊き出しを一度行ってから下がる」
「それも入れといてくれ」
博之は、少しだけ目を閉じた。
「ただ逃げたと思われるのも嫌や。世話になった地元の人に、最後に飯ぐらい出してから下がりたい」
お花が静かに言った。
「旦那様らしいですね」
「飯屋やからな」
ヨイチは文を書き進めながら、少し表情を曇らせた。
「しかし、尾張方面は思った以上に難しいですね」
「せやな」
博之は地図の蟹江のあたりを見た。
「北畠、六角、奈良、九鬼、北伊勢。今まで面倒な相手は多かったけど、何だかんだ話が
通じる相手が多かった。尾張は違うな。力で取って、力で守って、力で飯も銭も出させようとする」
「戦の前線ですから」
「分かってる。けど、飯の道を通すには、その前線の荒さも見なあかんのやろうな」
古参の買い付け隊が言った。
「蟹江を失うと、尾張への道は遅れます」
「遅れてええ」
博之ははっきり言った。
「津島へ行きたい。常滑焼も見たい。瀬戸物も欲しい。尾張の海の道も見たい。
でも、急いで人を潰すくらいなら遅れてええ」
お花が少し微笑む。
「旦那様、珍しく足元を見ていますね」
「失礼やな。いつも見てるわ」
「だいたい遠くを見ています」
「まあ、それはある」
少しだけ笑いが戻った。
だが、すぐに博之は真面目な顔に戻った。
「蟹江の者たちには、ようやったと伝えてくれ。地元の寺社が守ってくれたのは、
普段の炊き出しのおかげや。これは誇ってええ」
「はい」
「でも、誇りすぎて踏みとどまりすぎるなとも伝えてくれ。死ぬな。捕まるな。
飯場を守るために人を失うな」
ヨイチは、その言葉を文の最後に書き加えた。
「“横丁はまた作れる。人は戻らぬ。危うければ桑名へ下がれ”」
「それで頼む」
博之は深く息を吐いた。
「九鬼水軍への文も丁寧に書いてくれ。蟹江の件で、いざという時に船を出してもらうかもしれん。
二十万文は手間賃と先払いの礼や」
「承知しました」
「桑名にも先に知らせる。蟹江から人や荷が来る可能性があるから、飯場と寝床を空けとけと」
「桑名の負担も増えますね」
「そこにも追加で銭を回す必要があるかもしれん」
「帳簿がまた増えます」
「命に比べたら安い」
ヨイチは、その言葉に少しだけ目を伏せた。
「はい」
文はその日のうちに三つに分けて書かれた。
蟹江郊外へ。
蟹江港へ。
九鬼水軍へ。
さらに桑名へも、受け入れ準備をするよう使いが出された。
博之は、すべての文を確認したあと、ぽつりと言った。
「飯の道を作るのは楽しいけど、道には火もつくんやな」
お花が答えた。
「だから、水も飯も持っていくのでしょう」
「うまいこと言うな」
「旦那様の真似です」
博之は苦笑した。
蟹江は、尾張へ向かう入口だった。
だが、その入口は早くも燃えかけている。
伊勢松坂屋は、そこへ銭と飯と船を送る。
けれど、無理なら退く。
それは敗北ではなく、飯屋として人を残すための判断だった。