作品タイトル不明
松坂の城主との報告が終わってから帳簿。ざっくりプラス2,000万文。1億7,440万文→1億9,940万文。掟の草案とか作らないと
松坂の城主への報告も終わり、ようやく屋敷で腰を落ち着けられるかと思った、その日の夕刻である。
ヨイチが帳面を抱えて、いつものように静かに入ってきた。
「旦那様。帳簿の時間でございます」
博之は、その言葉を聞いた瞬間、畳の上に倒れ込んだ。
「なんかもう、行って帰ってきたら、すぐその話になるな」
「行って帰ってきたからこそ、でございます」
「六角様より帳簿の方が怖いわ」
「帳簿は斬りかかってきません」
「数字が斬りかかってくるんや」
お花が横で茶を置きながら言った。
「旦那様、逃げないでください。今回は、私たち三人が不在の間の確認も兼ねています」
博之は、しぶしぶ体を起こした。
「で、どうやった。俺らがおらん間、ちゃんと回ってたか」
ヨイチは少し表情を引き締めた。
「回ってはおりました。ただ、やはり気の緩みというか、空回りというか、いくつかずれがありました」
「ずれ?」
「はい。買い付けの報告が遅れた拠点。炊き出しの量を読み違えた拠点。湯浴みの
薪の手配がぎりぎりになった拠点。あと、地元の寺社への挨拶を少し軽く見た者もおります」
博之は眉をひそめた。
「それはあかんな」
「大きな揉め事にはなっておりません。ただ、旦那様、お花さん、私がいないことで、
判断を先延ばしにしたり、逆に張り切りすぎたりした者がおりました」
「なるほどな」
お花が頷く。
「だからこそ、後継者育成と掟が必要なのです。誰か一人がいないと止まる、という形では困ります」
「せやな」
博之はため息をついた。
「で、数字は?」
「ざっくり見積もりです。今回は、正確な帳簿というより、動いたところだけを確認する形にします」
「それで頼む。細かい数字を聞いたら倒れる」
「まず蟹江です」
「尾張の入り口やな」
「はい。蟹江が動きました。港側の流れが少し見えてきており、今回はプラス二十五万文です」
「蟹江でプラスか。ええな」
「次に宇治です。拠点が一つできました。まだ立ち上がりですが、京都郊外への
足場として見れば大きいです。こちらは十五万文のプラスで見ています」
「宇治は大事やな。奈良、京都、大津をつなぐところや」
「藤井寺も同様です。こちらも拠点が一つできました。堺方面への手前として、十五万文のプラス」
「藤井寺はまだまだこれからやけど、堺の匂いがするからな」
「はい。そして大津です」
ヨイチは帳面をめくった。
「大津と草津、つまり水場の立ち上げです。琵琶湖の荷の上げ下ろしを見据えた小さな水場拠点を
作り始めました。ただし、こちらは初期費用がかかっておりますので、マイナス十万文」
「水場はしゃあない。船、荷置き、濡れ対策、全部金かかるやろ」
「その通りです」
ヨイチは淡々と続けた。
「これらを丸めて、さらに買い付け隊を通常通り回した場合、ざっくり二千万文のプラスでございます」
部屋が静かになった。
博之は天井を見た。
「……もう、何がなんやらやな」
「ざっくり言えば、二千万文です」
「ざっくり言う数字ちゃうやろ」
「半月の数字でございます」
「半月で二千万文って、ほんま何なんやろな」
「伊勢松坂屋でございます」
「飯屋やろ」
「飯屋でございます」
ヨイチは、そこだけはもう争わなかった。
お花が静かに言った。
「大事なのは、この数字を継続できるかどうかです。無理に伸ばすのではなく、壊さずに回すこと」
「せやな。二千万文が入るなら、その分また撒かなあかん」
「撒く、という言い方はどうかと思いますが」
「でも、実際そうやろ。水場も作る。湯浴みも作る。飯場も作る。炊き出しもする。道も見えた。
金だけ持ってても怖い」
博之は、地図の方を見た。
「今回、六角に行って、道が見えた。草津、大津、信楽焼の道。宇治、京都郊外、奈良の道。
藤井寺、堺の道。蟹江、尾張の道。水場も見えてきた」
「はい」
「やから、これからは道を意識してやっていこう。道を太くするには、飯場がいる。
飯場には人がいる。人には寝床と湯浴みがいる。荷を守るには護衛がいる。
地元と揉めんためには、炊き出しと挨拶がいる」
「結局、全部つながりますね」
「そうや。飯屋は飯だけ炊いてりゃええ、と思ってたけど、飯を出すには道がいるんやな」
お花が微笑んだ。
「旦那様、また良いことを言っています」
「そうやろう。わしはたまに良いことを言う」
「その一言がなければ、もっと良いです」
「最近そればっかり言われるな」
少し笑いが起きた。
だが、すぐにヨイチが真面目な顔に戻した。
「ただ、今回見えたずれは、早めに直す必要があります」
「うん」
「各拠点で、旦那様や私たちがいなくても判断できる者を育てる必要があります。
特に、買い付け、帳簿、炊き出し、地元対応、湯浴みと寝床。この五つは、
誰か一人が分かっていればいいというものではありません」
「後継者育成やな」
「はい」
博之は腕を組んだ。
「ヨイチとお花さんレベルを、どんどん作らなあかんな」
ヨイチが少し眉を上げる。
「私たちレベル、ですか」
「そうや。帳簿を見て、現場を見て、地元の顔を見て、飯場を見て、あかん時にあかんと言える人。
そういうのを各拠点に置かなあかん」
お花が頷いた。
「それは必要です。ただ、すぐに作れるものではありません」
「分かってる。だから育てる。古参衆の下に若いのをつける。買い付け隊にも、帳簿の見方を教える。
女衆の中にも、現場を締められる者を増やす」
「そして掟ですね」
「そう。掟を体に染み込ませた者を、どんどん配置する」
博之は畳の上に指で文字を書くようにした。
「飯を粗末にしない。寝床を粗末にしない。湯浴みを粗末にしない。帳簿をごまかさない。
買い付け先を泣かせない。地元の顔を潰さない。炊き出しは丁寧にやる。食えない者を忘れない」
「それを、口伝だけでなく形に残す必要がありますね」
ヨイチが言った。
「本みたいにして、各拠点に置いておくのも一つやな」
「本、でございますか」
「うん。難しい書物やなくてええ。伊勢松坂屋の掟、みたいなやつや。飯場の心得、炊き出しの心得、
地元への挨拶、帳簿の見方、湯浴みと寝床の整え方。あと、困った時に誰へ相談するか」
お花が少し考える。
「絵も入れた方がよいかもしれませんね。字が読めない者にも伝わるように」
「それええな」
「例えば、炊き出しの時は地元の寺社に先に挨拶する絵。湯浴みの薪を切らさない絵。
買い付けで相手を泣かせない絵。帳簿を隠さない絵」
「なんか子供向けみたいやな」
「子供にも分かるくらいでないと、全員には染み込みません」
「それもそうや」
ヨイチは筆を走らせた。
「では、仮に『伊勢松坂屋心得』として草案を作ります。各拠点に置き、読み合わせをする。
新しく入った者には、まずそれを聞かせる」
「ええな」
「ただし、掟だけで縛るのではなく、なぜそうするのかも入れましょう」
お花が言う。
「飯を出すのは、客を増やすためだけではない。食えない者を忘れないため。湯浴みを整えるのは、
贅沢ではなく、働く者が体を戻すため。地元の顔を立てるのは、揉め事を避け、長く飯を出すため」
「それやな」
博之は深く頷いた。
「掟は形だけやと腐る。理由がいる」
「旦那様、今日は本当にまともですね」
「なんで褒め方が毎回失礼なんや」
「普段との落差です」
部屋に笑いが戻る。
だが、話の中身は重かった。
二千万文の利益。
水場の立ち上げ。
蟹江、宇治、藤井寺、大津。
六角との顔合わせ。
道を太くする楽しさ。
そして、自分たち三人がいない時に見えたずれ。
伊勢松坂屋は、もう勢いだけでは回らないところまで来ていた。
博之は、ぽつりと言った。
「金が増えたら、飯が増える。それはええ。けど、金が増えたら、人も増える。人が増えたら、
ずれも増える」
「はい」
「だから、道を作るのと同じくらい、人を作らなあかんな」
ヨイチが頷く。
「人を作り、掟を残し、仕組みを整える。それが次の仕事です」
「飯屋の仕事か?」
「伊勢松坂屋の仕事です」
「便利な言葉やな、それ」
お花が笑った。
「旦那様。まずは帳簿を締めましょう。その後、各拠点への通達と、心得の草案です」
「やっぱり帳簿から逃げられへんか」
「逃げられません」
「六角より強いな、帳簿」
「帳簿は毎回来ますから」
博之は深いため息をついた。
「ほな、やるか。二千万文の飯屋らしく」
「飯屋らしく、帳簿からですね」
「飯屋なのに帳簿ばっかりやな」
「飯屋だから帳簿です」
そう言われて、博之は返す言葉を失った。
そしてその日、伊勢松坂屋では、金の話と同じくらい、人を育てる話が真剣に始まった。
道を作る飯屋から、道を残す飯屋へ。
博之たちは、少しずつ次の段階へ進み始めていた。