作品タイトル不明
六角の殿様が奈良とのかかわり方を聞いて驚く。銭で揉めてから文化交流にまで昇華させるか。飯屋だがただの飯屋ではない。目的はなんだ?
六角の殿様は、伊勢松坂屋の飯を食いながら、ふと箸を止めた。
「ところで、奈良の話も聞いておきたい」
博之は、少し嫌な予感がして顔を上げた。
「奈良、でございますか」
「そうや。奈良など、敷居が高いやろう。寺社仏閣が幅を利かせておって、飯屋ごときが
簡単に入れる余地など、あまりないように思える。どうやって入った」
博之は困ったように頭をかいた。
「それは、その……噂話になっておりませんでしたかね。六角の代表の方々が松坂に
滞在されておりましたし、私の身辺調査も多少はされたのかなと思っておりましたが」
六角方の代表が、少し恐縮したように頭を下げた。
「申し訳ございません。そこまでは情報が行き届いておりませんで」
「いえいえ。別に隠すほどの話でも……いや、多少は恥ずかしい話ですが」
六角の殿様が、面白そうに目を細める。
「恥ずかしい話なら、なお聞きたいな」
「性格が悪いですね」
「殿様とはそういうものや」
博之は小さくため息をついた。
「きっかけは大和八木でございます。名張から大和八木へ出て、拠点を作った頃の話です。
しばらくして、奈良の方から話が来ました」
「どんな話だ」
「五十万文ほど寄進してくれれば、奈良の端で店を出してもよい、というような話でございました」
その場の何人かが、軽く眉を動かした。
「五十万文か。飯屋相手に、なかなかふっかけたな」
「はい。まあ、奈良の格式というか、こちらを試すというか、そういう含みもあったのでしょう。
ただ、態度が少し気に入りませんで」
「それで?」
「三倍の百五十万文を、現金で投げつけました」
部屋が静まった。
六角の殿様は、箸を止めたまま博之を見た。
「投げつけた?」
「言葉のあやです。実際には、きちんと包んで持っていきました」
「三倍を?」
「はい」
「なぜだ」
「腹が立ったので」
六角方の重臣が、思わず咳き込んだ。
お花が横から小声で言う。
「旦那様、言い方」
「すみません。もう少し丁寧に言うと、五十万文を求めてくる態度が、少し人を見下しているように
感じました。ですから、こちらも格だけで物を言われるのは嫌だったので、三倍を出したうえで、
では交流しましょう、と話を持っていきました」
「それも十分おかしい」
六角の殿様は笑いをこらえた。
「つまり、奈良に入るために、寄進を求められた。腹が立ったから三倍出した。ついでに
文化交流を求めた。そういうことか」
「はい。まとめると、そうなります」
「飯屋がやることではないな」
「それは最近よく言われます」
博之は少し肩をすくめた。
「ただ、それがきっかけで、奈良との文化交流が始まりました。奈良の端で郊外から横丁を出すことも
始めましたし、向こうのお坊様方が伊賀越えをして、松坂まで来てくださるようにもなりました」
「奈良の坊主が、伊賀越えをして松坂まで?」
「はい。少人数ずつではございますが、定期的に。奈良の書物や知識、仏教の本の写し、
行事や作法、そういうものを伊勢の者に教えていただくようになりました」
「それは……飯屋の話か?」
「飯屋から始まった話でございます」
六角の殿様は、呆れたように笑った。
「だが、なぜそこまで続いた。金を渡して終わりではないのか」
「そこは、少し説教を挟みました」
「説教?」
「はい。さすがに、五十万文を求める言い方は非常識だと思いましたので、私がお世話になっている
郊外のお寺のお上人様にお願いしまして、奈良の方々を一度、説教していただきました」
六角方の者たちが、また顔を見合わせた。
「奈良の坊主を、田舎の寺の僧に説教させたのか」
「言い方は悪いですが、そうなります」
「何を説いた」
「田舎の寺社が、どれほど寄進がなく、貧しい思いをしているか。格式がある寺が、
どれほど多くのものを集めているか。食えない人がいる土地で、五十万文を当然のように
求めるとはどういうことか。根本から説教していただきました」
部屋の空気が少し変わった。
笑い話のようで、笑い話だけではない。
六角の殿様は、少し真面目な声で言った。
「それで奈良の坊主は怒らなかったのか」
「怒った方もいたと思います。ただ、こちらは百五十万文を出した後でしたし、交流の道も作りました。
何より、説教したお上人様の言葉に、筋があったのでしょう。結果として、一段落しました」
「ふむ」
「そこから、奈良の書物や知識が伊勢へ届くようになりました。奈良のお坊様方は、
伊勢へ来てくださる。こちらからは荷を通し、奈良で炊き出しを行い、向こうのお寺と組んで
小さな拠点を作る。そういう形になりました」
殿様は肉あんを一つ摘まみながら、低く笑った。
「やはり、ただの飯屋ではないな」
「飯屋です」
「飯屋が奈良の坊主に百五十万文を投げつけ、説教を受けさせ、文化交流を始めるか」
「成り行きです」
「その成り行きが大きすぎる」
博之は困ったように笑うしかなかった。
六角の殿様は、しばらく考え込んだ後、話を切り替えた。
「まあよい。硬い話はひとまず置こう。六角で何がしたい」
博之は少し姿勢を正した。
「まず、信楽焼の道です」
「やはりそこか」
「はい。今は伊賀の方で信楽焼の道ができております。ただ、近江の南東側にも拠点が
できつつあります。草津方面から関へ通す道、そこに信楽焼を通すことができれば、
伊勢や松坂、津、白子へももっと安定して流せます」
「信楽焼は、それほど要るのか」
「要ります。器として使えます。肉あんやふくふく焼きを乗せれば見栄えがします。
寄進の種にもなります。従業員向けにも売れます。店でも使えます」
「器一つで、そこまで言うか」
「飯は器で変わります」
博之の声は、そこで少しだけ強くなった。
「同じ飯でも、欠けた器に乗せるのと、しっかりした信楽焼に乗せるのでは、客の受け取り方が
変わります。自分たちが大事にされていると思える。そこは大きいです」
六角の殿様は、信楽焼の小皿を見た。
「なるほど」
「もう一つは、砂糖と小豆でございます」
「また甘味か」
「はい。京都方面にも手を伸ばしているのは、そのためでもあります。今、京都の郊外に
拠点を作り始めています。まだ立ち上がり途中ですが、宇治から先々京都へ伸びる道も見ております」
「京都の真ん中ではなく、郊外か」
「はい。京都の中心は怖すぎます。寺社も商人も武家も濃い。ですから、まずは郊外で炊き出しをし、
地元のお寺とつながり、小さく飯場を作る。そこから、砂糖や小豆、書物、道具を少しずつ
探るつもりです」
殿様は頷いた。
「半分は本当、というところか」
博之は苦笑した。
「そう言われると困ります」
「琵琶湖も見ておるやろ」
博之は少しだけ間を置いた。
「見ております」
「正直でよい」
「隠しても仕方ないです。草津、大津があります。湖の水場を使えれば、荷の流れは変わります。
堅田、佐和山、今浜、そういう名も気にはなります。ただ、今すぐどうこうではありません」
「琵琶湖で何をする」
「荷を動かします。信楽焼も、米も、魚も、薪も。あと、琵琶湖なら川魚や湖の魚が取れるでしょう。
それをどう使うかは、こちらで考えます」
「魚のすり身か」
「はい。海の魚と同じとは限りませんが、すり身、揚げ物、汁物、味噌で臭みを消すなど、
やり方はあると思います」
殿様は感心したように笑った。
「結局、飯に戻るのだな」
「飯屋ですから」
「その言葉、だいぶ聞いた」
「本当のことです」
殿様は、そこで少し真面目な顔になった。
「だが、そなたの根にあるのは、単にうまい飯を広げることだけではなさそうやな」
博之は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり口を開いた。
「私は、もともと根なし草の出でございます」
部屋が静かになった。
「食えない苦しみを、多少は知っております。今日食う飯がない。寝るところがない。
働きたくても、働く場所がない。そういう苦しみです」
博之は、自分の手元を見た。
「だから私は、格式というものがあまり好きではありません。もちろん、格式が必要な場も
あるのでしょう。けれど、その日飯が食えない人の前で、格式がどうしたと言われても、
私は腹が立ちます」
六角の殿様は、何も言わずに聞いていた。
「すべての人を救えるとは思っておりません。そんな力はありません。ただ、目の前に飯を
食えない人がいて、こちらに飯を炊く力があるなら、炊きたい。働く気がある人がいるなら、
仕事を作りたい。施しだけでは立ち上がれない人には、立ち上がる術を渡したい」
「それが、飯場か」
「はい。飯を出し、寝床を作り、湯浴みを整え、仕事を渡す。周りと揉めずにやる。
地元の顔を立てる。そういうことを、できるところからやっております」
「それが六角でもしたい、と」
「できるなら。ですが、六角様の顔を潰してまでやるつもりはございません。草津、大津、京都郊外、
信楽焼の道、琵琶湖の水場。どれも、許される範囲で、丁寧にやりたいと思っております」
六角の殿様は、しばらく黙った。
飯はうまい。
話は妙だ。
だが、筋はある。
根なし草の男が、格式を嫌い、飯を炊き、器を求め、砂糖を求め、道を作る。
その積み重ねが、いつの間にか大名の前に座るほどのものになっている。
「なるほどな」
殿様は、静かに言った。
「ただの飯屋ではない。だが、飯屋であることを捨てる気もない」
「はい」
「ならば、そこを見誤ると、こちらも扱いを間違えるな」
博之は深く頭を下げた。
「私は難しいことは分かりません。ただ、飯をまずくするような揉め方は避けたいと思っております」
「また飯か」
「はい」
殿様は、少し笑った。
「よかろう。信楽焼の道、草津と大津、京都郊外、そして琵琶湖。どこまで許せるか、
こちらも考えよう。ただし、こちらも見ておるぞ」
「もちろんでございます」
「勝手に伸びすぎるな」
「肝に銘じます」
「それと」
殿様は、もう一つ肉あんを取った。
「飯はうまい」
「ありがとうございます」
「そこが一番厄介やな」
その場に、少しだけ笑いが戻った。
六角の殿様は、この飯屋をどう扱うべきか、まだ決めきれてはいなかった。
だが、一つだけ分かった。
この男をただの商人として見るのも、ただの北畠の手先として見るのも、どちらも違う。
伊勢松坂屋の博之は、飯を炊くことで道を作る男だった。