作品タイトル不明
松坂城主と六角の使者と対面。伊勢松坂屋に関する情報格差を考え伊勢は見せないが白子まで海の道を通り北伊勢を見せながら帰宅させるように促す
松阪の城主は、六角方の使者たちが飯を食っている様子を眺めながら、薄く笑っていた。
彼らは警戒していないわけではない。六角から来た武士である以上、目は利くし、
礼儀も心得ている。だが、それでもまだ分かっていない。
伊勢松坂屋の本当の怖さを、まだ見ていない。
「お前、あの者らを見て、どう思う」
城主が博之に言った。
「どう、とは」
「まだ分かっておらんな」
「何をですか」
「お前の気持ち悪さや」
「言い方」
博之は顔をしかめた。
「いや、褒めておる」
「褒めてないです」
「褒めておるぞ。あの者らは、湯浴みと飯でだいぶ柔らかくなっておる。横丁を見て、飯場を見て、
これはすごい、とも思っておるやろう。だが、まだその程度や」
殿様は茶をすすりながら続けた。
「本当はな、六角様ほどの家格の者を迎えるなら、伊勢まで見せてやりたいところや」
「伊勢ですか」
「そうや。伊勢の港。伊勢神宮の端の店。肉あん、魚のすり身、マグロの汁物、海鮮焼き。
お前の店が人を吸い寄せ、銭を落とし、周りの店に札で客を流し、なおかつ誰も大きく文句を
言えぬように回している様子。あれを見せれば、六角の者どもも少し引く」
「引かれるのは嫌なんですけど」
「引かれるぐらいでちょうどええ。あれを見たら、付き合い方を考え直すぞ。飯屋やと思って
雑に扱うのは危ない、と分かる」
博之は苦笑した。
「でも、伊勢は見せられませんよね」
「見せられん」
城主は即答した。
「六角と戦う可能性が絶対にないとは言えん。今は笑って飯を食うても、
明日どうなるかは分からん。そんな相手に、伊勢の本当の売れ方、港の動き、人の流れ、
九鬼との距離感、神宮近くでの商いの仕組みまで見せるわけにはいかん」
「それはそうですね」
「伊勢を見せたら、お前の価値も分かるが、弱みも見える。どこで人が集まり、
どこで銭が動き、どこを押さえれば流れが止まるか。それも見える」
城主の目は笑っていたが、言葉は冷静だった。
「だから、伊勢は見せん。だが、ただ帰すのも惜しい」
「どういうことですか」
「帰り道や」
「帰り道?」
「白子まで行かせる。そこから北伊勢の国人衆の領地を通らせて、近江へ返す」
博之は少し考えた。
「つまり、白子、亀山、関あたりの道を見せると」
「そうや。津や伊勢の奥は見せん。だが、北伊勢の道、荷の流れ、国人衆の顔色、
海から陸へ荷が移るところ、そのあたりは見せてもよい」
「でも、それも情報では」
「情報や。だが、見せてもよい情報や」
城主はにやりと笑った。
「六角方は、今、北伊勢の国人衆がなぜ飯屋に頭を下げたのか知りたがっておる。
なら、白子から関、亀山あたりを通らせてやればよい。伊勢松坂屋の荷が通る道を、
国人衆がどう守ろうとしているか。そこで銭が落ち、飯屋が立ち、地元が少しずつ潤っていることを
見せる」
「なるほど」
「そうすれば、六角も雑には扱わん。北伊勢の国人衆も、六角に対して自分らの価値を見せられる。
こちらとしては、伊勢の奥を見せずに、六角に“この飯屋は雑に扱うと損をする”という
印象を持たせられる」
「政治ですねえ」
博之がしみじみ言うと、城主は鼻で笑った。
「お前に言われとうない」
「いやいや、私は飯屋ですから」
「飯屋が一番政治をしておるわ」
「してません」
「しておる。無自覚なのがなお悪い」
博之は頭をかいた。
「ただ、六角の使者を船で北伊勢経由で帰すとなると、警戒されませんかね」
「されるやろうな」
「されるんですか」
「当たり前や。だが、伊勢を見せるのとどちらがいい」
博之は即答した。
「絶対、南に行かずに北へ帰ってもらった方がいいです」
「やろう」
城主はけらけら笑った。
「伊勢を見てから帰ったら、あれはえぐいぞ。六角様も、あの飯屋は何や、と本気で身構える。
下手をすれば、草津や大津での扱いも妙に硬くなる」
「今でも十分硬くなりそうですけど」
「まだよい。今の六角方は、噂と一部の横丁と飯しか知らん。情報の差がある。
こちらはお前の伊勢での売れ方を知っておる。向こうは知らん。この差があるうちに話をした方が、
こちらもやりやすい」
博之は、六角方の使者たちが湯上がりにまぜ飯を食べている姿を見た。
彼らは満足している。だが、あれはまだ入口だ。
伊勢の港で海鮮焼きに人が群がる様子。
信楽焼に乗った肉あんに客が目を輝かせる様子。
売り切れた客にお礼札を配り、周囲の店へ流す仕組み。
九鬼水軍との関係。
伊勢神宮を前にした価格と体験型の調整。
あれを見せたら、たしかに話が変わる。
「……確かに、伊勢はちょっとやばいですね」
「自覚があるならよい」
「あります。最近、ちょっと自分でも怖いです」
「遅いわ」
城主は笑った。
「だから、今回はこうする。六角の使者には、松阪で飯と湯浴みを味わわせる。松阪の横丁を見せる。
だが伊勢には行かせん。帰りは白子へ出し、北伊勢の国人衆の案内で関、亀山あたりを通して帰す」
「白子からですか」
「白子は海の顔がある。亀山、関は道の顔がある。国人衆にとっても、自分らが伊勢松坂屋の荷を
守る意味を六角に見せる機会になる」
「なるほど」
「六角方も、白子や亀山、関を通れば分かる。北伊勢は、ただの小さな国人衆の寄せ集めではない。
荷が通れば価値がある。飯屋が通れば銭が落ちる。守る意味がある。そう見える」
「それは、北伊勢の国人衆にも得ですね」
「そうや。こちらにも得。六角にも得。お前にも得。ただし、伊勢の奥は守る」
博之は唸った。
「お殿様、やっぱり政治してますね」
「当たり前や。わしは殿様やぞ」
「私は飯屋なので、そういうの苦手です」
「嘘をつけ」
「ほんとです」
「お前は、政治という言葉を使わずに政治をするから始末が悪い。飯を出し、
湯を張り、寝床を作り、荷を通し、気づけば人が動く。毒みたいなもんや」
「また毒って言われた」
「毒や。だが、今は薬にもなる。だから扱いを間違えるな」
殿様は、少し真面目な顔になった。
「六角とは、敵にも味方にもなりうる。今はまだ、飯を食いながら話せる距離や。
なら、その距離を大事にしろ。近づきすぎず、遠ざけすぎず。伊勢は見せず、北伊勢は見せる」
「分かりました」
「それと、六角へ行く時も、最初から派手な飯は持っていくな」
「海鮮焼きはまだ早いですよね」
「早い。あれは火縄銃や。いきなり撃つな」
「飯の火縄銃を大名相手に撃つの怖すぎます」
「だから、まずはまぜ飯、肉あん、すり身揚げ、信楽焼の器くらいや。味は見せる。
だが、仕組みまでは見せすぎるな」
「難しいですね」
「商いも領地も、見せるものと隠すものの加減や」
博之は深く息を吐いた。
「で、六角方にはどう説明しますか」
「簡単や。伊勢はまだ準備が整っていない。帰りは北伊勢の皆が挨拶したがっているから、
白子、亀山、関を通ってもらう。そこで伊勢松坂屋の荷の流れを少し見ていただく。そう言えばよい」
「だいぶ誘導してますね」
「誘導や」
「堂々と言う」
「政治とはそういうものや」
博之は、思わず苦笑した。
「やっぱりお殿様やなあ」
「お前も伊勢松坂屋のお殿様やろ」
「やめてください」
「津のお殿様、六角へ行く前にまた一つ勉強になったな」
「ほんまにやめてください。不敬で殺されます」
殿様は大笑いした。
その笑い声が、六角方の使者たちのいる方まで届いたのか、何人かがこちらを振り返った。
彼らはまだ、博之の本当のすごさを知らない。
伊勢の港も、伊勢神宮前の店も、海鮮焼きの熱狂も、まだ見ていない。
だが、それでいい。
すべてを見せるには、まだ早い。
まずは白子、亀山、関。
北伊勢の道を見せる。
飯屋の毒がどのように道へ染み、荷へ染み、人の顔色を変えていくのか。
その一端だけを見せる。
博之はぽつりと言った。
「情報の差があるうちに話した方が、うまく回る……ですか」
「そうや」
「嫌な言い方ですね」
「政治やからな」
「私は飯屋です」
「その飯屋が一番政治を動かしておる」
また、殿様は笑った。
博之は苦笑いを浮かべるしかなかった。