作品タイトル不明
北伊勢の国人衆が挨拶に来る。北畠、六角、織田に挨拶するよりも前に。不思議がる博之だが、国人衆からの要望や津の長野家が北畠領になる危機感を聞き納得する
長野家の北畠入りが決まり、津の扱いが変わり始めた頃、北伊勢の国人衆が何人か、
伊勢松坂屋へまとまって挨拶に来た。
顔ぶれは、白子、亀山、関あたりの者たちである。いずれも大きな大名ではない。
だが、それぞれの土地に根を張り、街道や山道、港や村の顔役として生きてきた者たちだった。
「このたびは、津が北畠様の内側に入るということで」
代表格の男が、丁寧に頭を下げた。
「改めて、隣り合う者としてご挨拶をばと思いまして」
博之は、いつものように畳に座っていたが、さすがに少し姿勢を正した。
「いやいや、わざわざ遠方からお越しいただいてありがとうございます。こちらこそ、
今後ともよしなにお願いいたします」
そう言うと、国人衆たちは互いに顔を見合わせた。
挨拶だけではない。
本題は別にある。
「率直に申し上げます」
白子の者が口を開いた。
「今、伊勢松坂屋さんと取引している買い付けの量を、もう少し増やしていただきたい」
「買い付けを、ですか」
「はい。増やすためなら、我々もできることはいたします。護衛、人足、荷の置き場、道の案内。
必要であれば、こちらで整えます」
博之は少し腕を組んだ。
「増やしたいというお気持ちは分かります。けど、こちらも伊勢方面の荷を増やすように
北畠様から言われております。津も北畠の内側になる以上、そちらにも荷を回さなあかん。
そこに白子、亀山、関も増やすとなると、理屈がいります」
「理屈、ですか」
「はい。うちは飯屋ですけど、もう買い付け隊も大きくなってます。何となく増やします、
では回せません」
国人衆たちは、そこで少し苦笑した。
「何となく、と言われましてもな」
亀山の者が頭をかいた。
「我らの方も、今なかなか苦しい立場でして」
「苦しい?」
「はい。長野家が北畠に入ることで、我らのあたりは、南は北畠、北西は六角、東は織田に
挟まれるような形になります」
博之は少し目を細めた。
「なるほど」
「もちろん、細かく言えば、北伊勢の中でも事情は違います。桑名には商人衆がおりますし、
一向衆もおります。亀山や関のあたりも、まだ落ち着いているとは言い切れません。
けれど、大きな流れで見れば、北畠、六角、織田に挟まれている」
関の者が続けた。
「何かいざこざが起きた時、その三者が名目をつけて乗り込んでくる可能性がある。
名目は何でもよいのです。道を守るため、民を守るため、商いを守るため。そう言って入ってくる」
「それは怖いですね」
「怖いです。だからこそ、我らも自分たちの価値を高く見せなければならない」
「価値を高く見せる」
「はい」
白子の者が身を乗り出した。
「我らは、津ほど大きな湊ではありません。けれど、白子には海があります。亀山、関には
東西をつなぐ道があります。南、東、西を結ぶ場所であることは間違いない。
流通の便がある。ここを、ただの国人衆の土地ではなく、荷が通り、人が守り、銭が落ちる土地と
して見せたいのです」
「それで、伊勢松坂屋の荷を通したいと」
「その通りです」
別の男が頷いた。
「今、伊勢松坂屋さんは草津方面にも根を張っておられる。信楽焼の道も、奈良の道も、
大津の道も、こちらは聞いております。その荷の流れがどれほど大きいかも分かっております」
「噂が回るの早いですね」
「飯屋の噂は早いです」
場に少し笑いが起きた。
しかし、国人衆の表情は真剣だった。
「松坂屋さんの荷には手を出さない。むしろ、我々が護衛としてつく。そういう形にできれば、
周りから見た我らの価値は上がります」
「北畠や六角から見ても?」
「はい。六角も北畠も、もともとは我らを、たかが国人衆と見るかもしれません。けれど、
物流が発達し、飯屋も潤い、漁民や職人にも銭が落ちる土地になれば、簡単に潰すより、
取り込んだ方が得だと考えるでしょう」
「なるほど」
「ですから、我らの土地を通るなら、ぜひ護衛として雇っていただきたい。
荷を増やしていただきたい。その分、こちらも道を整えます」
博之は、しばらく黙って考えた。
目の前の国人衆たちは、単に銭が欲しいだけではない。自分たちの土地の価値を上げ、
北畠、六角、織田の間で生き残るために、伊勢松坂屋の荷を利用したいのだ。
「分かりました」
博之は頷いた。
「その理屈なら、こちらも動けます。白子、亀山、関を、荷の護衛と中継の場所として見ます。
買い付け量も増やします。ただし、急には無理です。順に増やします」
国人衆たちの顔が、少し明るくなった。
「ありがとうございます」
「ただ、街の中に横丁を増やしすぎるのは避けます。すでに店があるところに、
うちがやりすぎると、ほかの飯屋を壊しますから」
「それは承知しております」
「炊き出し、荷置き、飯場、護衛の手当、買い付け。そのあたりを丁寧にやりましょう」
白子の者は、深く息を吐いた。
「助かります。正直、長野の時は、我らも少し南を舐めておりました」
「正直ですね」
「しかし、北畠という名に変われば話が違います。ただでさえ南伊勢に影響力があったところへ、
伊勢の中部まで押さえてくる。しゃれになりません」
亀山の者も苦笑した。
「我らも、飯屋に首根っこを掴まれた長野家などと笑っておりましたが、もう笑えません。
扱いを変えねばなりません」
「飯屋に首根っこを掴まれた、ですか」
博之は顔をしかめた。
「嫌な言われ方ですね」
「申し訳ない。ですが、皆そう見ておりました」
「まあ、否定しきれないのが怖いですね」
関の者が、そこでふっと笑った。
「今は我らが、松坂屋さんに間に入ってもらわないと、やっていけないようになっております」
「飯屋って何なんでしょうね」
博之がぽつりと言うと、国人衆の一人が真顔で答えた。
「飯屋は怖いですよ」
「怖い?」
「ええ。言い方を変えれば、毒みたいなものです」
「毒」
「最初は優しい顔で来る。飯を出す。銭を落とす。炊き出しをする。荷を通す。皆ありがたがる。
けれど気づけば、その土地の者は松坂屋さんの荷に手を出せなくなる。取引を切られたら
困るからです」
場が少し静かになった。
「伊勢の国には、もう伊勢松坂屋の毒がかなり回っております」
「怖いこと言いますね」
「ですが、その毒のおかげで、皆あまり無茶なケチをつけてこないでしょう。取引がある。
飯がある。銭が落ちる。だから、荒らすより守った方が得になる」
博之は苦笑した。
「毒と言われると、素直に喜べませんね」
「薬にもなります」
「なおさら怖い」
お花が横で小さく笑った。
「旦那様、飯屋が怖いと言われるのも、だいぶ慣れてきましたね」
「慣れたくないわ」
博之は、改めて国人衆たちへ頭を下げた。
「分かりました。白子、亀山、関。そこは荷の道として、こちらも大事にします。ただし、
うちは土地を取りに行くわけではありません。飯と荷を通し、銭を落とし、皆が食えるようにする。
それだけです」
「それだけが、一番怖いのです」
白子の者が笑った。
「けれど、今はその怖さに乗らせていただきたい」
その言葉に、博之は何とも言えない顔をした。
北伊勢の国人衆は、北畠でも六角でも織田でもなく、まず飯屋に頭を下げに来た。
それは奇妙なことだった。
だが、時代の流れは確かに変わり始めていた。
刀や槍だけではなく、飯と荷と銭が、土地の価値を決めるようになってきている。
博之はその重さに、少しだけ背筋を寒くしながらも、こう言うしかなかった。
「では、まずはまぜ飯でも食べていってください」
国人衆たちは一瞬きょとんとし、それから笑った。
「やはり、飯屋ですな」
「はい。ただの飯屋です」
誰も、それをただの飯屋とは思っていなかった。